鍋友に 贈る 二月の 甘味かな

tomocyoko.jpg




 友チョコというものが
 あるという事で、
 わたくし(年齢ウン十歳男)も贈ってみました。

 いくらなんでも
 同性に贈るのは
 ナンだなと思いましたので、
 ここ数年毎年いただいている
 職場の異性にお贈りしました。

 鍋友です。
 三月に鍋に行こうと約束しました。

                   秀水


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村
スポンサーサイト

独特のフォルムという事

 先週と先々週の週末、どちらも新聞屋さんにチケットをいただいたからなのですが、連続して美術館に行ってきました。
 先々週は神戸の小磯良平記念美術館でやっていた「藤島武二展」、先週は阪神間は西宮市大谷美術館でやっていた「藤田嗣治展」(「展」というのとは少し違います。下の写真参照)でした。

 「藤島展」は、藤島武二も面白かったけれど個人的な好みとしては小磯良平の方がいいなと思ったものでした。これは全く個人的な好みですが、藤島はあまりに日本の近代絵画の本道すぎると(私は勝手に)思いました。(しつこく、個人の感想ですから。)

 で、さて先週末の「藤田展」ですが、恥ずかしながら藤田嗣治については私はほとんど知識を持っていません。
 パリで有名になって日本に帰って来たらちっとも評価されず、ちょうど第二次世界大戦時と重なって戦争絵画を書いたら戦後に戦争協力者にされてしまってうんざりしてパリに戻り、フランス国籍を取ってそしてフランスで亡くなった画家、という程度しか知りません。

 今回初めてわりとじっくり作品を見ました。
 で、思ったことですが、戦争協力については、まー、人間は生きる時代を選べないのでどうしようもないとして、でも確かに藤田のあのフォルムは、日本では評価されないだろうなと感じました。(一部に「国辱画家」との評価もあったようですが、もちろんそれは誤った評価だとは思いますが、素人としては何となくわかる気がしますね。)

 で、重ねて思ったことですが、例えばモディリアーニ(この方も藤田と同じ「エコール・ド・パリ」の方ですね。もっとも私は「エコール・ド・パリ」についてもほとんど知らないのですが)が人物画についてあのフォルムを手に入れたように、確かに藤田も意志的にあの人物画のフォルム(モディリアーニはあんなに甘く魅力的なのに、こちらははっきり言ってかわいくも美しくもないフォルム)を選んだわけですね。

 私が思うのは、彼はなぜこんなフォルムを選んだのだろうという事でした。(でもよく見ていると、あのフォルムに影響を受けた後世のイラストレーターなどが何人かいるような気がして、ひょっとしたら、時代を先取りしすぎたという感じもなくはないですが。)

 さらに例えば、自画像を見ると、藤田は自らの顔をかなりグロテスクにデフォルメしています。(猫と一緒に並んでいる自画像が多いのですが、隣に並んだ猫の顔のほうがはるかに「きれい」に書かれています。)

 ははーん、この人は、パリに行って自らのアイデンティティにかなりねじれを持ってしまった人なんだなと思いました。だから、日本人や東洋人を描いた顔はもちろん、西洋人を描いた顔にも極めてシニカルなものが感じられると思いました。

 そんな感想を持った展覧会でした。
 でも、一人の画家の作品をまとめて見たおかげで、私は、明らかに藤田嗣治の絵を以前より好きになりました。やはり芸術作品には作者の内面が現れるようです。

DSCN5558-02.jpg

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

折々の 悩みあれども 梅開く

DSCN5549-01 (2-3)




先日から、日本列島全国的に
かなり寒いですね。
ここ、関西の地でも雪が舞いました。

その時々の「難儀」は、
やはり、ありますが……。

              秀水


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

中学生三年生への眼差し

  『ひとり』吉本隆明(講談社)

 親戚に学校図書館に勤めている者がいまして、我が家が、公立の図書館のそばにあることを言ったら、それは利用しない手はありませんと大いに勧められました。

 そこで、家のそばの図書館に行き始めたら、なるほど、これは便利だ、と今更ながらに気づきました。

 昔と違って、家にいるままでも図書館のホームページからいろんな事ができて、書籍をネット経由で予約したら、貸し出し準備ができましたとメールまでくれて、本当に至れり尽くせりです。

 で、そのことを上記の親戚に言いますと、その利用の仕方で結構だが、もっともっと自由に図書館を利用すればいいと、さらにアドバイスを貰いました。

 自由にとは、例えば写真集のたぐいをぼーっと見るために借りる、例えば一冊の本の中の少しだけを読むために借りる、そして、特にお勧めなのはティーンエイジャー用の本で、これはなかなか面白くてためになるとのことでした。

 なるほど、この年になって十代用の書籍を自分が買うことは、まず考えられないなと納得し、そこで借りた一冊が本書です。
 この本は「15歳の寺子屋」というシリーズのものです。寺子屋感覚で15歳、つまり中学校生活最後の生徒たちに語り掛けるというシリーズテーマの本です。

 そんなコンセプトの一冊で、タイトルが「ひとり」で、そして筆者が吉本隆明とくれば、これはどんなことが書かれてあるのかと大いに興味が湧いたのですが、その期待通りのとてもいい本でした。

 本書は基本的に、筆者の半生の経験からの話と、小説に例をとった話で書かれていました。
 ということはつまり、私の興味の「ストライクゾーン」であります。

 例えば芥川龍之介の名作『蜜柑』を論じて、創作の本質は「転換」にあると説いてあったり、森鴎外や夏目漱石は、人の心に無言のうちに溜まっていく微かなものがあることをよく知っていた人だから、相当いい文学者なのだとか書かれています。

 また、自分が15歳だった頃、宮沢賢治をとても熱心に読んでいて、ひょっとしたら自分も宮沢賢治になれるんじゃないかと本気で思い込んでいたとかも書いてあります。

 少しネットで調べたのですが、吉本隆明は2012年に87歳で亡くなっています。本書の初版発行は2010年です。
 「戦後思想界の巨人」と呼ばれ、海千山千のすれっからしのインテリゲンチャのような筆者ですが、亡くなる2年前の、中学生三年生に対する眼差しはとても優しく誠実で、なんだかほっとするような一冊でした。

 なるほど、ティーンエイジャー用の書籍は侮れません。


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

温水の名ばかりなれど初泳ぎ

swimming_pool01.jpg




 あけましておめでとうございます

 新年も2日になり、
 今日はプールに行きました。
 さすがに比較的すいていましたが、
 やはりコアな泳ぎ手がいて、
 気が付けばひょっとしたら
 私もそんな一人か、
 皆様と
 新年のあいさつを交わしてきました。

 ……ふーむ、コアなプール仲間か……。

                  秀水


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

「女の子を殺す」って?

 『女の子を殺さないために』川田宇一郎(講談社)

 なかなかショッキングなタイトルですね。
 一体どんなことが書いてあるんだろうと興味深く思いますね。
 でも少し考えれば、かなり想像がつきそうです。そしてその想像は、きっと当たっています。
 タイトルの意味の説明じみた文章は本文内に点在しているのですが、例えばこんな風に書いてあります。

 (片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』に触れて)基本的に恋人の女の子が死んで「ぼく」が泣き崩れる、涙を売りにすれば簡単にベストセラーになる典型

 やはりそういうことでしたか。
 と、思って読み出すのですが、なかなか面白い展開が続きます。
 例えば恋人の女の子が死ぬに至る前に、もう一つのポイントがあるそうです。わかりますか?。

 それは、死ぬ前にその女の子と性的関係を持つかどうかということで、持っていないうちは基本的には女の子は死なない、と。
 なるほど言われてみればこれも何となく分かりますね。性的な関係というのは、まー、恋愛物語においては一つの山場(少なくとも中盤のクライマックス)で、それを過ぎてしまえば恋愛物語は、その物語が「純愛・熱愛」系であるほど後は「殺す」しかない、と。

 ただ、この性的関係を結ぶまでの展開についてもわりとバラエティーがあって、みんながみんな性的関係を目指して一心に頑張るばかりではないそうです。目指さない典型を、筆者は庄司薫の「薫君シリーズ」だと言っています。

 なるほどねぇ。確かに「薫君シリーズ」は、「女の子にも負けず、ゲバルトにも負けず」がキャッチフレーズでしたものね。
 そしてこの、女の子と性的関係を結ばないために頑張るという展開は、実はかなり広く読者に共感を生む心情であると分析してあります。「薫君」以外にも例えば『伊豆の踊子』もそうだし、フーテンの寅さんなんて典型的にそうだと触れてあり、納得というよりは、その着眼がなかなか興味深くあります。

 という風に始めの方は書かれてあるのですが、途中からなんだかよく分からなくなっていきます。
 もちろんそれは、わたくしめに文章読解力がないことがその主たる原因なんでしょうが、例えば、男の子は逃走する、女の子は下降するなんて表現があったりすると、読んでいてあたかも現代思想じみた論理展開で、「ああだからこうだよね」と押しつけられその時は確かにそんな気はしながらも後で見直してみると、言われた部分の論理性はともかく、全体としては論理ばかりがひたすら先走って中身はスカスカみたいな気がするんですね、わたくしとしては。

 というような本でした。後半よくわかんなかったです。
 でも前半は面白いところもいっぱいありました。
 例えば、村上春樹の『風の歌を聴け』に出てくるハートフィールドという作家は庄司薫のことであると、両者の細かな対照が書いてありました。面白かったです。


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

百年の夢 過ぎ越して 漱石忌

sousekiki01.jpg




 ……、えー、ちょっとだけ、解説させていただきますね。
 前年度に続き今年も「漱石イヤー」であったことが一つ、
 (今年ももうすぐおしまいですが……)
 もう一つは「百年」といえば、
 漱石では『夢十夜』である、と、
 と、まぁ、そんなところです。

 以上。では。
                     秀水


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

老いの戸惑いをどうする?

 『いつまでも若いと思うなよ』橋本治(新潮新書)

 なかなか刺激的なタイトルですね。
 まー、タイトルもさることながら、筆者について、私は今までに何冊か読んでいましたので、ちょっと癖のある理屈っぽいお方だという印象と同時に、基本的に信じられる書き手であるなという評価をさせていただいておりました。

 だから、そのお方が老いについて書くというので、本書を手に取ってみました。
 考えれば本書を手にする人はほぼみんな同じだと思うのですが、要するに自らの「老い」を相対化できないと感じている人ではないでしょうか。自分が老いつつあることの意味がつかみきれず、もやあーっと不安な方ではないでしょうか。
 本文にも何カ所か、そんな方の、そんな考え方の説明があります。幾つか抜き出してみます。

 「老いた」は分かっているけれども、「老いる」ということがどういうことかよく分かっていないから、「老い」が呑み込めない。「老い」が他人事になってしまう最大の理由は、「老いを他人事にしたいから」ではなくて、「老い」ということがよく分からないからではないかと思いますね。

 (略)自分の年齢が数を増しているという自覚はあるが、その年齢がなにを意味する指標になるのかが分からなくなる。「なんだかやばいような気がする」と思った時は、笑ってごまかしてしまえばいい。

 人間は、自分中心の天動説で生きてるもんですから、「自分は年寄りだ」と思ってそれを認めようとしても、「自分以外の年寄り」は、やっぱりいやで、「他人と同じ年寄り」のカテゴリーに入れられるのがいやなんですね。


 ……と、抜き出していけば切りがありません。そもそも少し異常に感じるほど論理性にこだわって文章を展開していく筆者ですから、くどくはありますが、文脈的には見事に筋が通っており、また、正確であります。

 で、筆者がその見事な論理性で、年老いることの戸惑いを最終的にどう解決してくれるかと言えば、それはなかなかに難しい。
 橋本治氏をもってしても「年老いマニュアル」は提示していただけません。

 それはまー、当たり前なわけで、ない物ねだりであります。
 ただ、あるいはこれかなと思う個所はないでもありません。
 自らの老いに向き合う「マニュアル」。(そもそもこの期に臨んで「マニュアル」をほしがる心根が間違っているというのはわかりつつも、だって、欲しいんだもの。)
 たぶん、ここ。

 「老人というのはどうやって生きるものか?」を考えながら手探りで進むしかなくて、誰もが「自分の老い」に関してはアマチュアだというのは、そういうことなんだろうと思います。

 「手探り」「アマチュア」。
 この2語を本書から貰って、私は少しだけ、ほんの少しだけですが、自分にもやれるかなと期待が持てそうな気がしました。


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

落ち葉踏んで温水プールへつづく路

DSCN5309copy02.jpg




 少し前に作ったら、
 もう、季節感が
 季節遅れ感に。

 本当に、
 俳句は、生もの
 ですよね。

                 秀水


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

フェイヴァレット関川作品について

 『昭和三十年代演習』関川夏央(岩波書店)

 なんか少し変な感じの構成の本です。
 タイトルに「演習」と書いてありますが、どこかの大学での講義をもとにしたものでもなさそうでありながら、時々、そんな講義のやり取りめいた場面が出てきます。
 最後の「あとがき」のような文章になって初めてわかるのですが、本書で講義めかして語っている聴衆は、出版元岩波書店の数名の編集者であるようです。
 本当にそうしていたのかどうかはともかく、そんなスタイルを取っています。こんな書き方があるんですねぇ。
 しかし、これって、一体何のためにそうするのでしょうか。

 と、そんなことから書き出したのは、このちょっとした「違和感」について、構成だけでなく内容についても気になることがあることを、私は読みながら感じていたからです。

 本書の筆者について、私はかねてより個人的にとても信頼の置ける作家と思ってきました。そう感じながら幾冊かの本を読んできました。特に文芸評論のような著書の場合は強くそう思ってきました。
 しかし本書を読みながら少しずつ思い出してきたのは、かつて私がこの筆者の作品を読み始めた頃は、さほど好きな作家ではないなと感じつつ読んでいたということでした。

 私が本書から感じたものは、本書には昭和三十年代の様々な社会事象が取り上げられていますが、あるタイプの社会事象並びに思想に対してだけ、正面からの批評ではなくてシニカルに侮蔑の表情を向けるニュアンスが感じられたことです。
 (少しだけ補足します。そもそも近過去を現在から振り返ると多くの事象にいわゆる「欠点」があるものですが、私が気になったのは、ある事象には「その時点ではやむなし」言動があるのに、ある種のものにはそれがないという事です。)

 それは、この筆者の作品を読み始めた頃の私には強く感じられた事でありました。でもそのことをなぜかすっかり忘れていて、本著者のことをずっと「フェイヴァレット」だと思いこんでいたのでした。
 しかしなぜ私がそうであったのかという事も、合わせて気づきました。

 それは例えば、昭和三十年代松本清張の作品がとても売れたことをこんな風に書いている部分。

 彼の書く現代小説だけではなく、その時代小説もいわゆる「社会派」に分類されるのでしょうが、どうもピンとこなかった。松本清張作品がどこか救いがたく暗いことも気になりました。それは彼が登場した時代、雑駁で、矛盾をはらんでいるけれど、総体としては明るいと印象される昭和三十年代という時代のセンスにそぐわないのです。
 松本清張作品の特徴は、現代小説にしろ時代小説にしろ、「他責的」であることだと思います。


 ……いかがでしょう。
 私がかつて角川文庫の「ある『小倉日記』伝」に収録されたいくつかの短編小説を読んだ時、強烈に感じながら言葉にしきれなかった感情が、本文章に「他責的」の一語で見事に表現されています。

 こんな惚れ惚れするようなアクロバティックな論評が、私にとって関川夏央作品の最大の魅力でした。
 そしてそれは、本書を読んで改めて筆者についていろいろと考えた今でも、やはり変わっていない私の感じ方でもありました。


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村