この不思議な魅力

  『とめはねっ!・全14巻』河合克敏(ヤングサンデーコミックス)

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 第一巻の奥付に2007年初版発行と書いてありますから、もう10年以上も前の作品になります。そういえば、スマホの代わりに携帯電話が出てきます。鎌倉が舞台なせいもあるのでしょうが、サザンオールスターズの、それも思いっきり古い曲が出てきたりしますが、これはいくら何でも、当時としても古い曲だと設定してあります。(当たり前ですかね。サザンのデビューアルバムは1978年ですから。)

 図書館のコミック分類の本を検索していたら出てきたので借りました。
 2冊ずつ借りて(我が家の近所の図書館の予約は、コミック本は一度に2冊までになっています)、3週間くらいかけて全巻読みました。

 読んでいる時は、それなりに面白いなぁと思いながら読んでいたのですが、全巻読み終えてもちろん全巻次々返却して、そしてしばらくすると、なんとなくまた読みたく思うではありませんか。

 最初、よくわからなかったのですが、これはひょっとしたら、図書館で次々借りていくことによっておこる感情なのかと思ったんですね。
 つまり、読み終わった本を返却してから続きを新しく借りるわけだから、すでに読んだ部分をちょっと読み返そうと思ってもそれができないってことですね。

 図書館ビギナーな私はそんな風に理解して納得したのですが、しかし、日がたつほどに、どーも、やはり読み直したい、と。(なるほど、図書館ビギナーだ。)

 そこで、もう一度全巻借りなおしてもよかったのかもしれませんが、ちょっと面倒くさかったので、ブックオフやアマゾンで全巻購入しました。(ここが図書館ビギナー。)

 ……それからすでに2.3か月になりますが、私のナイトキャップはもっぱらこの14冊になっています。適当な巻の適当なページから読みだして、眠くなればそこまでという読み方を続けて一向に飽きません。
 いえ、きっとそのうち飽きることはあるだろうとは予想しつつも、現在はこの状態が続いています。

 ただ一つ、少しだけ気になるのは、なぜこの漫画がこんなに気に入ったのかというのが、今一つ分からないことです。
 もちろんそれなりによくできたお話だとは思いますが、別に「とびっきりの」名作というほどでもないでしょう。(と、愚考するんですが。)

 あれこれいろいろ考えたのですが、そしていろいろ作品の魅力はありましょうが、これじゃないかとはたと気づきました。
 気づいた時は自分で一瞬「まさか」とも思ったのですが、まー、結局、今のところはこれだと思っています。

 つまり、主人公の「ガッカリ帰国子女」ガチャピン眼のユカリ君の魅力。
 ね。結局、これでしょう。(違うのかな……。)


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しみわたる 気も蔵内の 夏の酒

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 ……えーっと、ほぼ、句の通りです。
 つけくわえますれば、
 この集まりが少し以前だったことと、
 蔵内が、
 (厳密にいえば、「蔵内」ではないようですが、)
 とても涼しかったことですかね。

                     秀水



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教科書作りもなかなか大変だ(後編)

  『国語教科書の闇』川島幸希(新潮新書)

 さて、後編です。
 前回は、なぜ定番教材がよくないのかということについて触れていました。本書はなかなか説得力のある展開でした。
 本書紹介の次に進む前に、もう少しだけ補足をしてみます。

 そもそも定番教材の一等賞は何かといえば、芥川龍之介の『羅生門』だそうで、これは高校一年生が使う国語教科書九社二十三冊すべてに掲載されているそうです。(参考までに第2位は太宰治の『富岳百景』十一冊。)

 ……うーん、やっぱりこれはあかんやろー。あんたらほんまにちゃんと考えてんのかーと思わず呟きます。「闇」といわれても仕方なかろうという気がしますよね。

 その弊害については前回に簡単にまとめましたが、それ以外にも『羅生門』が定番として掲載されているせいで、他の芥川作品が取り上げられないという指摘もありました。
 なるほど、これは少しまずいですよね。つまり芥川の珠玉の短編『蜜柑』は、教科書に載らないということですよね。(『羅生門』なんかより遙かにこっちの方がいいと私は思うんですが。)

 そこで話しは、いよいよなぜ定番教材ができたのかに進んでいきます。
 しかし、これもなかなか複雑そうで(「都市伝説」なんかが出てきたりもしてます)、かつ即物的に結論だけを述べますと、それはまた少し実も蓋もなくなっています。(ぶっちゃけていいますと教科書会社の都合ということですか。ただし、教科書作りというのは、我々素人が与り知らぬ大変さがあることも本書では補足してあります。)

 最後に一つだけ、定番教材成立史の中に興味深い分析があったので触れておきます。
 前回に定番教材は「暗い」と指摘した件ですが、高校生に相応しいかよく分からないような暗さが定番教材にあることについて、「生者の罪障感」という説明をしています。(このオリジナルは本書の筆者ではありませんが。)

 まず定番教材が生まれ始めたのは第二次大戦後であることを述べて、以下、このように続きます。

 戦争を体験して自ら「敗戦後の罪障感」を抱えた教科書編纂者が、「生者の罪障感」をモチーフとした『羅生門』『こころ』『舞姫』の三作を採録し、同じ思いを共有した国語教師の支持の下で定番化の道を歩んだ(略)。

 実はこの説にも反対意見があるらしいのですが、いえ、私としては、なかなかロマンティックな説だなぁと、ひとしきり感心をしました。
 なかなか面白かったです。


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教科書作りもなかなか大変だ(前編)

  『国語教科書の闇』川島幸希(新潮新書)

 この本も、最近のわたくしのマイブーム、図書館で借りてきた本です。(本当に図書館って便利ですね。)
 前書き(「はじめに」)を図書館で立ち読みしていたら、こんなことが書いてありました。

 ある大学の近代文学専攻の学生十二人に尋ねたところ、『羅生門』『こころ』は全員読んだことがあるが、芥川の『地獄変』は二人、『河童』は一人、漱石『三四郎』も一人、『明暗』はゼロだった。そしてこれはどこの国文学科でも同じような現状である、と。

 これを読んで私は、まー、一応、若者の読書離れという月並みな感想を持ったのですが(そして面白そうだから図書館から借りるに至ったのですが)、本書は、なぜ『羅生門』と『こころ』だけが全員読んでいるかという点に着目し、高校国語教科書の「定番教材」というテーマに発展していきます。

 そもそも「定番教材」とは何かといいますと、簡単に言えばほとんどの教科書に載っている小説作品のことで、代表的なものを高校の学年ごとに言いますと(これ以外にもありますが)、一年生が『羅生門』、二年生が『こころ』、そして三年生が『舞姫』となるそうです。なるほど、確か私もそんな感じで習ったように思います。

 ……で、これのどこがよくないの? 「闇」なの? と思って読んでいくと、これがなかなかよくないことであるようです。
 これについては、かなり丁寧な分析がされていますが、大筋をはしょって私の印象に残ったところだけでまとめますと、
  (1)定番化されることで教師が教材そのものをよく考えなくなる
  (2)定番化教材はそのほとんどが「暗い」
  (3)定番小説作家のイメージが固定化する

 ……というあたりですかね。なるほど、言われてみればその通りだなと思います。
 何にしてもワンパターンになってしまうと進歩がありませんし、上記の定番教材で描かれているのは強盗と自殺と後、『舞姫』は女性に対する酷い扱い(出世を取るか恋愛を取るか)であって、本当に高校生に相応しい作品なのか疑問ですよね。
 また、『舞姫』を読んだことで、森鴎外が大嫌いになったという話も聞いたことがあるような気がします。やっぱり、「闇」、ですかね。

 ……えっと、この読書紹介、もう一回続きます。すみません。


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文壇ゴシップをなぜ読む

 『病む女はなぜ村上春樹を読むか』小谷野敦(ベスト新書)

 また出所不明のことを書きまして誠に申し訳ありませんが、上記本のような新書のタイトルは、筆者が付けずに編集者が付けるというのを読んだことがあります。
 そーだろーなーと納得するような新書が、私の読書経験にも少なからずあります。(最近はさほどではありませんが、一時期はかなり新書ばかり読んでいました。)

 とはいえ、筆者に完全に断りなくタイトルを付けると言うこともちょっと考えられませんので、たぶん筆者は、まぁそのくらいのタイトルでいいかなと思ったということでしょう。その辺の感覚が、どうもよく分かりません。
 というのも、本書もそんな、タイトルと内容のかなり違うと感じる本だからです。

 この本に書いてあるのは、ざっくりとまとめると以下の2点だと私は思います。
  1、最近の小説に精神を病む女性が頻出するようになったのはなぜか。
  2、私小説のすすめ。

 かなりタイトルと感じが違うでしょ。(これはこれで面白そうでしょ。)
 この内容がなぜ、冒頭のタイトルになるのか、まぁ、あれこれ穿って考えると、一つや二つは理由が浮かばないわけではありませんが、かなり無理筋であります。

 でも、まぁ、いいです。内容の報告に移ります。
 といっても、この筆者の本は、どんなタイトルの本でも書いてある事は、基本的に文壇ゴシップであります。(そんな意味で言えば、確かにタイトルなんて何でもいいのかも知れませんね。)筆者ご本人がそんな方法を取って自分は書くのだと書いてましたから、その通りなのでしょう。「確信犯」みたいなものですね。

 はっきり言いますと、やや品位に欠けます。
 にもかかわらず、私はなぜこの筆者の本を重ねて読むのかと言いますと、一つは、まー、恥ずかしながら私も文壇ゴシップが嫌いではないということ。
 もう一つは、この筆者の文壇ゴシップに対する感じ方感想が、肩肘張らずにとても素直に感じられるからです。(時々、それは書き過ぎだろうという部分もありますが。)

 これはもちろん私の、いわゆる読書経験の貧弱さとか、頭のできの悪さとかが大きな原因なのでありましょうが、様々な評論の類の本に、あまりに外連味のありすぎる表現が横行しすぎているように思います。

 読む側もそんなハッタリだらけの表現、意味なんてほとんど無い表現に、怯えるように慣らされてしまって、とにかく分かった振りをするのがインテリなんだ、高級なんだと思ってしまうわけですね。
 今でもそんなところは残っていますが、かつての私はまさにそうでした。

 先日テレビを見ていたら、美術作品の解説をしていましたが、(まー確かに、美術作品の解説は難しいだろうなとは思いますが、)よく聞いていますと、ハッタリだらけの解説でした。あれって、視聴者を惑わすこと以外に何の意味もないと私は思うのですがねー。

 さて戻って、私にとってのこの筆者の本を読む意味は、そういったところにあります。
 そんな意味では、かなり納得のできる内容です。
 ただ、そんな本ばかり読むことが本当にいいことなのかどうかは、やはり、まぁ、若干細かな判断の必要なところではありましょうが……。


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トラック勝負のための「我慢」

   『ボクの町』乃南アサ(新潮文庫)

 仕事の関係の人で、元おまわりさんという人と知り合いになりまして、時々話をします。
 ある時読書の話になって、私はその時ほぼ読み終えたばかりだった高村薫の『マークスの山』の感想を言ったら、彼が持ち出してきた本がこれでした。
 で、折角元おまわりさんに推薦をいただいたので、読んでみました。

 面白かったですねー。
 こんな作品を「上質なエンターテイメント」というのじゃないでしょうか。

 いえ本当は、読み始めた時は、ダラダラとした展開と主人公の巡査見習い青年の私としてはもう一つ魅力を感じない性格設定で、それこそ直前に読んだ『マークスの山』のきちっきちっとした感じの書きぶりと大きく異なっていたこともあって、なんかだるいなーと感じながら読んでいました。

 重層的に物語が展開し始めるのが、全4章あるうちの3章の終盤あたりからでした。
 ということは、各章が120ページ位ずつありますから、340ページくらいまでは、まぁ、だるかったわけですね。(全部で510ページの文庫本です。)

 ……という風に書くと、なんだほとんどが面白くないんじゃないかと思われるかも知れませんが、……いえ、んー、やはりそうですね。4分の3くらいまでは、私としてはあまり面白くなかったです。

 でもね、一応私も何百冊かの本の読書経験がありまして、4分の3まで面白くない本なんて普通にあると思っているんですね。
 分かりやすい譬えでいえば、マラソン競技の鑑賞であります。
 あれは、スタートから41キロくらいまでのあまり面白くない部分をしっかり見ていないと、トラックに入ってからの展開がスリリングにならないんですよね。気持ちが入っていかない。

 マラソンの約42分の41が面白くないのに比べれば(いえ、プロが鑑賞すればもちろん41も十分興味深いのでしょうけれど)、4分の3が少々ダラダラしていても特に問題はありません。というより、そのダラダラは、作者にとっても読者にとっても、終盤のトラック勝負のための重要な意識的戦略的「我慢」なんですよね。

 というわけで、残りの4分の1になって、さてここからが、上手でしたねー。
 第3章の終盤から徐々に盛り上げていって、第4章始めに大きな事件を起こし、そして満を持したようにここから新しい登場人物を出してきました。

 ……えーっと、この「新しい登場人物」ですけれど、こんなに話もクライマックス近くになって新人物を出すのは、たぶんちょっと勇気のいることだと思います。
 荒唐無稽のご都合主義的展開になりかねません。
 私も読み終えて、この人物について、はたしてどうなんだろうと少し考えてみました。
 
 リアリティという意味では少し疑問も残りましょうが、私の感じたのは、そんな感覚を越えたエンターテイメントとしての物語運びのうまさでした。

 実は私は、筆者乃南アサの小説はかなり以前に一冊だけ読んで、そしてあまりよい印象を持たなかったんですね。
 でも今回は、よかったです。物語展開に乗っていけば、安心して読ませてくれる感じがしました。これは安定感のある文体も、ベテランらしくてよいせいでしょうね。

 そんな一冊を、元おまわりさんの知人に紹介されました。
 おまわりさんのビルドゥングスロマン(教養小説)です。
 そもそも教養小説が多く持つ瑞々しさも、もちろん本書(終盤4分の1)にたくさんあります。


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「ゴッホ展」で考える(後半)

 前回は、先日京都まで行って「ゴッホ展」を観てきたという話しをしていました。
 しかしそこで、普段から落ち着きのない私がさらに落ち着きのない絵画鑑賞をしたという展開になり、その原因を探っていたのが前回のあらすじです。

 問題は、たまたまですがゴッホ展のすぐ前に、椹木野衣「感性は感動しない」という文章を読み、そこに、美術鑑賞をするのにオーディオ・ガイドみたいなちゃらちゃらしたものの力を借りるなということが書いてあったことでした。
 で、ここから後半です。

 オーディオ・ガイドはよくないんじゃないかについて、結局の所、椹木野衣はこの様にまとめます。

 けっきょく芸術作品は自分で観るしかない。それは誰にも肩代わりができない、あなただけの体験だ。言い換えれば、個が全責任を負って観ることができるのが芸術だ。

 芸術作品とは自分がなにものであるかを映し出す鏡なのであるから、汚れた自分のままがよいのだ。むしろ自分の汚れを絵に映してしっかりと見届け、そこから先へ進んでゆく糧にすればよい。


 ここまで読んでわたくしは、「…なぁる、ほど」と、何となく筆者の主張と文脈に対して、どーも気に掛かっていた違和感の正体が分かりました。

 先日の土曜日わたくしは、女房と一緒に京都の「ゴッホ展」に行ったのですが、会場はけっこう混み合っていて、入る前に少し並びました。並びながら私は実は心の中で、こんなの並んでまで観てないで、隣の岡崎動物園でペンギンでもぼーっと見ていた方が気持ちがいいんじゃないかと思っていました。

 まず入場料が、大人二人で行きますと決して馬鹿にできない金額になります。
 で、入場したら入場したで、並んでいるといっこうに前に進まず、私は最初のゴッホの自画像に到着するまで10分ほどもかかりました。

 何が言いたいのかと言いますと、よーするに、一般庶民はそんなところでゴッホを鑑賞しているということであります。(たぶんそうだと思うんですがー。きっとわたくしだけの鑑賞事情ではないと思います。)

 振り返りますれば、ウイークディはずーっと、うんざりするようなストレスに曝されての仕事の日々であり、やっと訪れたウィークエンドに女房に誘われての「名画鑑賞」であります。

 それがいつの間に、「全責任を負って観」て「自分の汚れを絵に映してしっかりと見届け」、さらにそこから生まれたネガティヴな感情を「そこから先へ進んでゆく糧に」せよなんて、ちょっと待ってくださいよ、話が違わなくないですか、と。

 ……「オーディオ・ガイド」から始まる椹木野衣氏の主張は、たぶん絶対的に正しいのでしょうが、一方それは「さしずめインテリ」の人が各自でやって下さいよという感情も決して間違っていないと思うものであります。

 それが証拠(?)に、翌日職場でわたしは、「オーディオ・ガイド」受け売りのゴッホ知識を、まるまる自前の教養のように若い女子社員に鼻高々に吹聴したのですから、ねぇ。
 名画鑑賞って、そもそも、そんな時のためにあるんじゃないんですか?
 えっ? 違うの?


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「ゴッホ展」で考える(前半)

 先日、京都まで行って「ゴッホ展」を観てきました。
 展覧会終了一週間前の土曜日だったせいか、けっこう混み合っていて、落ち着いて絵画鑑賞するという雰囲気はなかなか抱きにくかったのですが、それとは別に私は一つのことが気になって、やはり集中して絵画鑑賞ができませんでした。

 気になっていたこととは何かといいますと、「オーディオ・ガイド」であります。
 最近何の展覧会に行ってもオプションで用意されている、鑑賞のための解説をしてくれるヘッドフォンのことであります。
 なぜそんなものが気になったかと言いますと、先日ネットをふらふらしていた時に、たまたまそれについて書かれた文章を読んだんですね。椹木野衣「感性は感動しない」という文章で、オーディオ・ガイドについて、こんなことが書いてありました。

 最近、やたらオーディオ・ガイドとやらが発達して、美術館に行くと、みなヘッドフォンを掛けて絵を観ている。あれはいったい、本当に絵を観ていることになるのか。肝心の絵のほうが、解説を聞くためのイラスト風情に成り下がっていはしないか。あんなものを付けて絵を観せられるなら、ひたすら何も考えずじっと絵を睨みつけたほうがずっといい。

 ……なるほど、はばかりながらわたくしも、確かに以前より何となく思っていた感想であります。筆者はその理由についてさらに以下のように述べます。

 知識や技術は鑑賞の助けにはなっても、それがあるからといって本当に心が動かされるとはかぎらない。
 
 芸術をめぐって感動の源泉を知識や技術にもとめようとすると、どうしてもわかりやすい基準に頼りがちだ。

 これらの主張についても、一応納得できるものではありますよね。
 なぜ納得できるか、筆者はそもそもと遡り、優れた美術作品とはいったい何かについてこの様にまとめています。

 すぐれた美術作品とは、(中略)観る人の心を動かすものにほかならない。

 ……えっと、ここまでは何の問題もない、ですよね、たぶん。
 問題は(それが「問題」だとすれば)ここからなんですね。筆者は「人の心を動かすもの」をさらにこんな風に分析していきます。

 要は、ある絵を観て、「うわ、なんてみにくい絵なんだろう」「こういう絵はもう二度と観たくない」「こんな絵を描いた人物は、きっとどこか変なのだ」といった反応をすることを、芸術は排除するべきではない。世間的にはネガティヴだとされるこうした感情も、もしかするとその人の心の奥底に眠り、ずっと押さえつけられていたなにかに気づき、それを解放するきっかけになるかもしれないからだ。

 ……何だか少し面白く(ヘンに?)なってきたでしょ。
 もっとも私は、ゴッホ展でそんなことばかりを考えていたわけではもちろんなかったのですが、ともあれ、後半に続きます。


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ある女性指揮者のこと

 既に少し以前の話なんですが、クラシックの音楽会に行きました。
 クラシックの音楽会に行くについては、実はわたくし、ちゃんと演奏曲を「予習」(あらかじめ家でCDを聴いておくという安易な「予習」)をして臨む場合と、当日演奏される曲名すら知らないで行くという、まー、ちょっとどうかと思うような姿勢の場合がありまして、その時は、後者でした。

 曲名を確認しないで行くくらいですから、誰が指揮者なのかも調べていません。
 会場について簡単なパンフレットを見て初めて知ったのですが、おや、今回は女性の指揮者ではないですか。

 そもそも私は、さほど頻繁にクラシック音楽会に行くわけでもなく、また、最新音楽事情にはほぼ完璧に疎くあります。

 ……えー、ここで少しだけエクスキューズさせていただきますが、上記のわたくしの状況は、はばかりながら一般的なクラシック音楽ファン(コアなファンは除きます)の感覚ではないでしょうか。(違うのかな)

 例えばわが家にあるクラシック音楽CDの多分半分以上は、既に亡くなった方の指揮であったり演奏であったりします。だって、音楽誌の薦めるいわゆる「名盤」みたいのを集めていけば、そうならざるを得ないではありませんか。(違うのかな)

 というわけで、私はわが国にいったい何人の女性指揮者がいるのか見当もつかないのですが、音楽会で女性指揮者の演奏に当たったのは2人目でありました。
 いきおい前回の方と比較をしてしまうのですが、今回の女性指揮者は、とっても元気がよかったですねー。

 腕だけではなく躰全体を使って、ややオーバーアクション気味とも見えそうですが、小さい体に(日本女性としては多分平均的身長かと思いますが)元気いっぱいのしなやかな指揮ぶりで、なにより、演奏者一人一人に直接向ける満面の笑みがよかった。私はとても好感を持ちました。

 演奏のポイントポイントのタイミングで、演奏者をさっと見て、にっこりしながらまなざしで指示・許容・激励・応援・期待・称賛などをなさっていました。(たぶん)
 それは客席から見ていて、こちらも元気が貰えるような指揮ぶりだったと思います。

 ところがそんなに指揮者が見ているのに、演奏者はほとんど彼女を見返さないんですね。
 もちろん、いちいち指揮者を見ていたら譜面が読めないじゃないかということもありましょうし、微笑まれたのだから微笑み返せよとまで言うつもりはありませんが、でもあんなに愛の告白の如くにじっと見ていても、彼女は演奏者からあまり見返されない。

 ……うーん、それって、いったいどんな気持ちなんでしょうね。
 指揮者になったことがないのでよく分からないのですが、そもそも両者は、そんなに見て見られるという関係ではないのかも知れませんね。

 以前私は、演奏者から指揮者への視線について、一曲中ずっと観察をしたことがありました。そしてその結果、一曲中(もちろん曲の長さは関係しますが)演奏者は指揮者を本当に数回しか「チラ見」しないという「恐るべき」結論を得るに至りました。(ほとんど指揮者無視。)

 だから、彼女もプロの指揮者なんだから、見返してもらえなくってもいいのかなとも思います。でもあれだけのアクションと満面の笑みを駆使して思いを乗せた視線を送っているのだから、もう少し演奏者の側も、愛想があってしかるべきじゃないですか、ねぇ。
 一瞬の微笑み返しで、そんなに演奏に支障が出るわけでもありますまいに。(いや、支障が出るのかな。)

 ……そして、演奏が終わりました。
 何度か行われたカーテンコールに、私は、あなたのお気持ち、私だけはよーく分かっていますよ、つらいでしょう、わかります、わかりますという万感の思いを籠めて、掌が痛くなるばかりに女性指揮者に拍手を送ったのでありました。

 あの女性指揮者は、よかった。……うん。
 ……えっ? 曲のでき?
 ……えっと、はらはらしながら見ていたので、よく分かりませんでした。


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鍋友に 贈る 二月の 甘味かな

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 友チョコというものが
 あるという事で、
 わたくし(年齢ウン十歳男)も贈ってみました。

 いくらなんでも
 同性に贈るのは
 ナンだなと思いましたので、
 ここ数年毎年いただいている
 職場の異性にお贈りしました。

 鍋友です。
 三月に鍋に行こうと約束しました。

                   秀水


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