様々な技芸の世界の中で

 世の中には様々な分野の技芸世界に、玄人がいて素人・趣味人がいますね。
 それは玄人紛いの素人がひしめく分野もあれば、玄人と素人の間に実力差などという考えがまるでない一種不思議な分野もあり、一方玄人素人間の実力差が天地間ほどもある技芸世界もあります。

 例えば今第一に挙げた技芸世界は、具体的にどんなものでしょうか。感覚的にはこの世界が一番たくさんありそうな気もしますが、案外そうでもないのかも知れません。そりゃそうでしょ、玄人と素人の間の実力差がそんなにないのなら、それで食えるプロの世界にみんな行ってしまいませんか。そんなには玄人の実力はあなどれないはずです。

 というわけで第一技芸世界は、それなりにプロアマ間に実力差のあるジャンルという言い方に変えます。こう変えてしまうといわゆる普通の技芸の世界ですよね。具体的に書きますとスポーツやいろんな芸術芸能界(音楽・美術・芸能・文学・演劇など)がそうだなんて言い方はアバウトすぎますか。まぁ一応、この技芸世界が玄人素人関係の定点です。

 次に第二の技芸世界。これはいわゆる日本的な習い事の世界、お茶お華というやつですね。ただこの世界は、そもそも玄人の人数が極めて少なそうな世界ですね。何人もの玄人がいるという分野ではありません。勢い世襲なんかが行われて、結果的に極めて特殊な世界ながら一度プロになれば結構長持ちのする世界のような気もします。

 そして最後の技芸世界。実は今回のテーマはこれなのですが、この分野はずばり具体的に指摘できます。以下の話題にでてくる友人に教わりました。

   相撲と囲碁将棋の世界

 さてやたらとアプローチの長い持って回った書き方をしましたが、今回のテーマは、わたくし生まれて初めてプロ棋士に「指導対局」をしていただいたというお話しです。

 いえ、私は特に将棋を趣味にはしておらず(中学生の頃友人に一時期教わった程度)、最初は万一プロの方にあまりに下手すぎる将棋をなめているのかという心にあらぬ疑いを掛けられると大変だと固辞したのですが「そんなこと絶対にあらへんから」と友人に説得され、はっきり言ってかなりこわごわ場に臨んだのでありました。

 ……えーっと結果から申しますと、4枚のコマを落としていただいてもちろん当方が負けたのですが、とてもとても楽しいひとときをエスコートしていただいた、と。

 それは、極めて上手にお教えいただき、極めて上手にお褒めいただき、そして最後には例の、噂に違わぬ途中局面を完璧に再現し差し手そのまま辿り直していくという究極のプロ棋士ミラクルテクニックを、わたくしの指したきわめて拙い一局においても披露していただきました。

 ……終わって、友人と一杯飲みつつ一日を振り返りました。
 なるほど、これが玄人素人間の実力差が天地間ほどもある技芸世界ということか、と。
 それは決して圧倒的な強さを誇るのではなく(もちろん圧倒的に強いのですが)、私たち素人にその世界の最高の魅力の一端を味わわせてくれるキャパシティのことである、と。

 そこから私たちの連想はさらに飛躍していったのですが、ひょっとしてこれこそが永遠に父性的なるものの発現ではないのか、と。
 永遠に女性的なるものが私を導くとは確かゲーテの表現だったなどと、わたくしと友人とはアルコールの酩酊も加わって、今日のとても楽しい世界に遊ばせて貰った余韻にいよいよ浸り続ける、そんな「初体験」の一日でありました。
 ……うーん、よかった。


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「文豪」の徹底的な「家学」

  『記憶の中の幸田一族』青木玉(講談社文庫)

 表紙の筆者名の下に「対談集」とあります。
 わたくしのかねてよりの疑問に、僭越ながらどうして対談集はお互いをあんなに褒め合うのかというのがありまして、本書もやはり少しそんなところがあります。

 まー、「対談集」という本が出るくらいの方が話し手であり聞き手であるわけですから、それなりの実績のある方であることは確かとしても、改めて褒め合うこともないのじゃないかと私は思ってしまうのですが、一般的にはそんなところに違和感はないのでしょうかね。

 という不満めいた事柄をまず書いてしまいました。そんな違和感があるのならなぜ読んだのだというご意見が浮かぶのですが、それはまぁ、「幸田一族」の話しであるゆえですね。

 つまり近代日本文学に嗜好のある(造詣はありませんが)わたくしとして、幸田露伴について詳しく知りたい、と。それも実娘幸田文の本を何冊か読みますと、露伴という人物はかなり、かなり「特異」な方でありそうだ、と。
 本書にも当然ながら果たしてそれが書かれてありました。まずは、こんな感じ。

 それにしても幸田露伴が娘・文になした家学は、なまじのものではなかった。それは「父・こんなこと」(新潮文庫)一冊を読んだだけですぐ分かる。(略)家の中で、父と娘との間で、少しおいて孫娘も入れて、こんな激しい劇がくりひろげられたことがあったのだ。幸田家の家事、しつけは、肉体と心の格闘技であった、と言っていい。

 私が読んだ幸田文の本名も出ていますが、「家学」とありますね。簡単に言えば、家事全般をする際の挙措動作ということでしょうが、露伴という人物は、女は何をするにしてもまずそのサマ(様態)がよくなければならないというふうに考える人で、それを娘、孫に徹底的に仕込んだ(さらには母から娘にも)ということであります。

 それは実際徹底したもので、例えばここは比較的ユーモラスな部分ですがこんな事が書かれてあります。

 あたしが娘になって、女学校になるとグーッと背がのびる。母は、「あんたそこへ立ってごらん」といって自分がその前にやってきて、「断わりなしに、いつから大きくなった」(笑)。そういうとき、ぼんやり「うーん」なんて言ったらダメ。パッと「昨晩」って言うんです。祖父もしょっちゅうそのことを言ってました。パッと斬りかけたら鍋のフタをとってハッシと受ける塚原木ト伝流でないといけない(笑)。

 ……なんというか、なかなか難儀な祖父と母でありますね。露伴についてはさらにこんな風にも書いてあります。

 どこかつむじが曲がっていて、食えないと言えばこのぐらい食えないじいさんもいなかったです。とにかくすごい磁場をもってる人で、その中に入ると、バリバリッと感電するような目に会うんです。

 ……うーん、なんといっても天下の「文豪」ですからねぇ。
 「文豪」といわれるのにふさわしい人物を明治以降の文学者で指を折っていくと、漱石、鴎外ときてその次くらいの方でしょう。そして次4番目を指折るまでに一定の間隔があくような、圧倒的に他から抜きんでた一連の「文豪」です。
 やはり普通の方ではないですよねぇ。

 そんな「文豪」の驚き話が、本書にはいっぱい書かれてありました。
 ただ言わずもがなのことかも知れませんが、娘の幸田文にも孫の青木玉にも、心の深いところには溢れるばかりの露伴(父親または祖父)への「リスペクト」があることは、本書の内容から十分に共感されるものであります。


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芥川賞ゴシップ

『芥川賞の偏差値』小谷野敦(二見書房)

 私が以前よりぶらぶらと読んでいる「文学」周辺話の一冊であります。
 内容はタイトル通りのものなのですが、おそらくタイトルから想像するよりは、はるかに文壇ゴシップ、芥川賞ゴシップの書かれた本になっています。

 まず、偏差値という数字で各芥川賞作品を評価しているのですが、その評価の基準については、筆者は完全に居直っています。「まえがき」にこう書いてあります。

 なお、お前の判断基準は何なのだ、と問われるかもしれない。かねて言っている通り、文学にせよ音楽、美術、演劇にせよ、普遍的で科学的なよしあしの判断というのはできない。ただ多くの古典的なものや批評を自分で読んだりして、自己の責任で判断するものだ。もちろんその際に、さまざまな批評用語(これは「批評理論」のことではない)を用いて弁論するのは当然のことだ。

 まー、この文章の言っている基本的な論理については、一応私も納得できます。そんなものだという思いを私も持っています。ただ終わりの方に書いてある「批評用語」というものの本書での実践が、あまりに弱いというかしょぼいというかユニークというか、まぁそんな感じであります。

 第一、自分で書いた偏差値の値について(それが高くても低くても)、なぜそうなのかをそもそもほとんど「弁論」していない章が少なくありません。
 例えばこれは吉行理恵の『小さな貴婦人』を論じた章ですが、偏差値は「36」となっています。が、こんな感じで始まっています。

 大学で、教授の息子や娘が大学院へ入ってきたら、その親である教授は論文審査では欠席するのが普通である。高橋源一郎の前の妻が文藝賞の最終選考になった時も、高橋は選考会を欠席した。しかし吉行理恵については、この前に候補になった時、兄の淳之介は棄権の態だったが、欠席はしなかったようだ。あまり騒がれなかったのは、当時、世間が芥川賞にあまり関心がなかったからだろう。

 ここまででこの章の冒頭から4行です。以下この章はあと10行続くのですが、そこには吉行理恵の話も『小さな貴婦人』の話も全くありません。
 まー、上記引用部からでも批評は微妙に読みとれないわけではないですが、それだけで偏差値「36」の弁論とするのは、あまりといえばあまりに乱暴じゃないですかね。

 そんな本でした。ただ冒頭でも触れましたが、芥川賞ゴシップはいっぱい書いてあります。けっこう面白い話が。


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心なごむ懐かしさ

  『中島らもエッセイ・コレクション』中島らも(ちくま文庫)

 たまたま最近続けて図書カードを貰うことがあり、あれは基本的に本屋以外では使いようがないんですよね。
 わたくしは、ここ数年(十数年?)新刊書を扱っている本屋にはあまり行かなかったのですが(だって、近所の新刊書の本屋がどんどん潰れていったものですから)、久しぶりにダラダラと何度か本屋に行きました。

 貰った図書カードなので、普段ならまず買わないだろうなと思う本(自腹の時は、「欲しいけれど、うーん、高いなー」と思う本)を何冊か買って、そしてさらに本屋の中をぶらぶらしていた時に見つけたのが冒頭の文庫本です。

 後書きに書いてあるのですが、中島らもが突然の事故で(しかし生活習慣としては一貫して酒のせいでともいえる形で)亡くなってもう十年以上になるのだなぁと少し感慨を持ちました。

 かつて私は、かなり中島らものエッセイを読んでいました。筆者のエッセイはとっても面白かったです。それに比べると、小説については私はさほど良質な読者じゃなかったことを自認します。もちろん何冊かは読みましたが、どうもかっちりとはそれにはまらなかったです。

 思うに(本当に私が勝手に思っているだけなんですが)、この方はかなり頭の良い人で、併せて読書家ゆえの博覧強記さがあって、しかし小説の実作者としてはそれが想像力を「天翔ける」ところにまで持っていくことを少し邪魔をしたように感じました。なんか、理に落ちたような思いが少なからず残りました。(もちろん知識の集積が想像力をキックするタイプの小説家もいるでしょうが。)
 とにかくわたくし的には少なくない長編小説が、後半失速するように感じました。(私の読み損ないのせいもありましょうが。)

 ところがエッセイの場合は、上記の私の違和感の原因がそのまま魅力の源泉になるように思えます。そしてその頭の良さや博覧強記さを導いているとでも言えそうな「嗜好の方向性」が、私にとってらもエッセイの魅力の中心でした。

 本書においては筆者自身が、「今の自分の中核にあるもの」として「低俗ではなくて反俗、高まいさを求めるのではなくてエンターテインメントを、ヒューマニズムよりはニヒリズムを、涙よりは笑いを」という風に述べています。

 以前何かの本に、どんな人なら親友になれるかという条件の中でもっとも本質的なものは「羞恥心の方向性」ではないか、という文章を読んだことがあります。
 なるほど、何に喜ぶかということも友人を選ぶ際には大切なことでしょうが、何に恥ずかしがるかが大きく隔たった人とずっといる状態というのは、確かに心なごまない気がすると思います。

 エッセイにおいてもそれと同じなのかどうか少々分からないところもありますが、久しぶりに「らも話し」を読んで私は、古い友人と懐かしい心なごむ話をしたような気がしました。


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多様性がいかに大切か

  『人間にとって寿命とはなにか』本川達雄(角川新書)

 えー、名作『ゾウの時間 ネズミの時間』の作者です。私も読んでたいそう感心、啓発されました。でも本書はちょっとそうでもなかったです。内容がちょっとばらばらな感じがしました。
 それについては筆者自身後書きに書いていますが、もともと5本の講演録をまとめたものである、と。じゃあ、まぁ、ちょっとやむなしかな、と。

 しかし興味深い話題はたくさん入っています。
 筆者の元々の研究対象であったナマコの話しはもちろん面白かったですが、例えば、「ムシ」と「息子」「娘」は関連言語であるとか(本当かなー、と少し私は疑っているのですが)、そんなこんながいっぱい書かれてある中で、特に前半部の大きなテーマは「多様性」という言葉だったように思います。
 例えば地球上の生物について、筆者はこの様に説きます。

 生物の種は、記載されているものだけで190万種ほど、実際には1000万~3000万種の生物がいると言われています。既知の種は全体の1/5以下であり、地球に存在している全生物のカタログ作りはまだ済んでいません。
 われわれが知っている生物は、全体のほんの一部だというのに、今、ものすごい勢いで種が絶滅しています。知る前にいなくなってしまうことが起きているのです。


 そして同一種の生物についてもいかに多様性が大切なのか、こんなエピソードが書かれています。

 19世紀アイルランドに起こったジャガイモ飢饉は、遺伝子の多様性の少ない品種を広域で栽培したため、一気に病気が蔓延して起こった悲惨な例です。このような事態が起きないためにも、遺伝子の多様性を保っておくことは重要なのです。

 と、ここまでお読みいただいて、多くの方がおそらく今の世界情勢がまるで反対の方向へ舵を切りそうに見える現状にどきりとしているのじゃないかと思います。
 筆者もそういった危うい状況を、「好き好き至上主義」と名付けて述べています。

 それの典型例がインターネットの「お気に入り」で、自分の好きなものにしか興味を示さない、自分と同じ考えの文章しか読まない、そんな情報の遣り取りしかしない、そんなニュースしか見ない、等々の状況です。

 かつてインターネットは、劇的に多様な情報の受発信を簡便にしたことの素晴らしさが説かれましたが、現在において人々は、そんな多様性ある情報の元にはいません。
 そんなことも、説かれています。

 実は私は、時々手に負える範囲の「理系」の本を読むのですが(でも手に負える範囲が極めて狭いのでとても悲しいのですが、しくしく)、私にとってそんな書籍の魅力はまさにこんな論理展開にあります。
 そしてそれは、一自然物としての「人間」「社会」「自分」ということを再確認させてくれます。

 最後にそんなことを感じながら読んでいて、たいそう感心したフレーズがあったので引用してみますね。

   「死は、私の多様性である。」

 どうですか。このままでもう、一篇の詩のようではありませんか。


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貧困であることを運命づけるとは

  『貧困世代』藤田孝典(講談社現代新書)

 もう2.3年前になりますか、本書でも少し触れられている「日比谷公園年越し派遣村村長」をなさっていた湯浅誠氏の講演会に行きました。
 とても面白かった印象はあるのですが、既に何年かが過ぎ覚えているのは下記の二つの話しだけです。確かこんな内容です。

 1.「ないものねだり」から「あるものさがし」へ。
 2.貧困は普通に暮らしていては見えない。

 この二つの話しがなぜか私の記憶に残っているのですが、さて、同種のテーマの本書です。なかなか厳しいテーマで、読んだからといって元気の出るものではありません。
 まず筆者は「貧困世代」をこの様に定義づけます。

 貧困世代とは、「稼働年齢層の若者を中心に形成される世代であり、貧困であることを一生涯運命づけられた人々」である。概ね十代から三十代を想定しており、本書で使用する「若者」も、この年代の人々―わたし自身を含む―である。

 そして「適切な支援が不足すれば、一生涯貧困から抜け出すことが難しい人々が、将来的に大量発生することはまず間違いない。」と続けます。

 ではその原因は何か、様々なことが書いてありますが、おおざっぱにまとめるとこの二点じゃないかと思います。

 1.急激な社会構造や雇用環境の変化
 2.若者に対する福祉システムの未整備


 なるほどねぇ、社会のひずみが一番弱いところを突いて現れることがよく分かるまとめ方ですね。
 筆者はその中でも、特に若年者層の教育環境の劣悪さを再三指摘します。例えば、

 経済協力開発機構は加盟国の教育状況の調査結果を2015年に発表したが、2012年の日本の国内総生産に占める教育機関への公的支出の割合は3.5%で、加盟国で比較可能な32カ国中最下位だった。(略)すでに日本は他の先進国と比較しても、教育を大事にしない、人に投資しない珍しい国になった。

 そして投資されなかった若者達は、この様な状況へと進んでいきます。

 首都圏・関西圏の8都府県に住む、年収200万円未満しかないワーキングプアと呼ばれる層の若者達(略)の雇用形態である。非正規雇用が47.1%、無職が39.1%であり、正規雇用はわずか7.8%にすぎないという衝撃の事実だった。無収入や低所得の若者が、とてつもなく分厚い層を形成している。

 本書には、そんな現代日本の暗澹たる状況がこれでもかと書かれているのですが、しかし本書終盤には、それに対する提言も書かれています。もちろん特効薬などありませんが、地道な取り組みの必要性を説いた文章です。

 この部分を読んで私は、冒頭に湯浅誠氏の講演会の記憶が二つしかないと書きましたが、もう一つ忘れていたことに気がつきました。
 それは、なるほどそういうことだなと、つくづく思う言葉でありました。いわく……

  ピンチはチャンス


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湧くごとく 犇めきて咲く 桜かな

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  ……満開。満開。満開!

                              秀水

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文士のゴシップ話し

  『文士の私生活』松原一枝(新潮新書)

 この間何となく坂口安吾について書いてある本を読んでいたら、安吾の家は新潟県屈指の資産家であったと書いてあり、へえーっというか、やっぱりねというか、ちょっとそんなアンバランスな感想を持ちました。

 安吾と共に「無頼派」して並び称された太宰治の家も津軽随一の大資産家でありましたし、そもそもそんなことを意識して近代日本文学者のことを調べていると、多くの作家の実家がいわゆる「ブルジョワジー」であるようことに気がつきます。

 しかしそれは、歴史的なものを考えますと、当たり前とも言えそうですね。
 近代明治国家成立以降、昭和30年代くらいまでですか、日本国全体が貧しい中で(最初のうちは後発国として貧しく、後のほうは敗戦国として貧しく)、より上位の学歴を身につけることのできる若者は、資産家の子弟以外にはありません。(もちろん全くないわけではないですが圧倒的少数でしょう。合わせてやはり、最高学歴出身者以外の作家(大学中退者含む)も極めて少数でしょう。)

 というわけで本書ですが、まずこの作者を私は寡聞にして存じ上げませんでした。
 たまたま古本屋で見つけて読んだのですが、昭和初年から昭和40年代くらいまで、筆者がその濃淡はかなりありながら、触れあった文学者の周辺を綴ったものです。
 副題に「昭和文壇交友録」ともあり、その通りだなとも思える、しかしなんと言いますか、やはり「ゴシップ集」のような内容の本です。

 まず登場人物が、文人と金持ちと東大出身官僚しか出てきません。(後、それと被ったり被らなかったりしながら「名家」の人々ですね。)
 そして、そんな趣旨の本ですからそれで好いんでしょうが、例えば、遠藤周作は飛び切りのマザコンであったとか、広津和郎が萬暦赤絵皿を手に入れて自慢していたら志賀直哉に一目で偽物と見破られたとか、そんな面白いと言えば面白い「ゴシップ」が載っています。

 でもそんなのばかり読んでると、少々自己嫌悪になってきます。
 しかしその「自己嫌悪」も含めて、つまりゴシップ話をあまり沢山聞いていると自分が何だかつまらない存在になったような気がする、ということもまた書かれています。

 そんな本です。
 私の書き方も、なんか微妙にむにゃむにゃしたものになってしまいました。
 自らの「スケベ心」を見透かされたようで、……えーっとそれは、ブーメラン現象とも言え、なかなか困ったものです。


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「やむにやまれず、嘘をつく」

  『やむにやまれず』関川夏央(講談社)

 私には、文学関係の随筆または評論で、フェイヴァレットかつこの人の言うことならと思っている作家が何人かいます。この関川夏央氏もその一人です。漱石や二葉亭四迷、白樺派などのことを書いた何冊かの文春文庫は素晴らしく、とても面白く読みました。

 一方そんな筆者が、文芸評論ではなく時々本にまとめているのが、今回取り上げた趣旨の本で、短編小説のようなエッセイのようなといった文章をいくつか集めたものです。
 タイトルの「やむにやまれず」というのはその後に「嘘をつく」とつながるのだそうですが、実は「嘘」をついている小説めいたところは、今回はあまりおもしろくなかったように思います。

 何と言いますか、何か「テレ」があるんですね。たぶん、「文学」に自分の嗜好があることに照れているのだと思いますが、何かとにかく照れています。
 だから(「だから」というつなぎが適切なのか分からないですが)、小説っぽく描かれる点景に、なんともいいようのない素っ気なさがあり、そしてストーリーも禁欲的に抑えられています。(氏がストーリーテラーとして優れたものをお持ちなのは、名作漫画『坊っちゃんの時代』の原作者としての実力に明らかであります。)

 そんなやや中途半端な感じの本ですが、その中に含まれる文学に関わる蘊蓄と見識は、やはりとても素晴らしいと私は思います。(一つのお話の中に、そんな部分がけっこう出てくるんですね。)
 例えばこれは、三島由紀夫が自殺の日に完成させたとされる『天人五衰』について触れたところですが、こんな感じに書かれています。

 その朝、三島由紀夫は『天人五衰』の第二十六章から末尾まで、百四十枚分の原稿を新潮社の編集者に託した。おそらく原稿そのものはもっと前に書かれ、その日に記されたのは〈「豊饒の海」完。/昭和四十五年十一月二十五日〉の二行だけだった。
 私はゲラはどうしたのだろう、と考えた。ゲラはとらないで死んじゃうのか。初校に直しを入れて、ようやく原稿になるのが普通だというのに。ゲラなしで百四十枚分の完成原稿とは、そいつは過剰な完璧さだ。おい、よせよ、それじゃ疲れるだろう。同情に堪えない。


 こういった、知識と感覚と見識がセンチメンタリズムにくるまれて描かれるところに関川作品の際立った特色があると私は考えるのですが、きっと関川氏自身はそこにこそ「テレ」を覚えるのでしょう。
 その感性もまた、極めて文学的な表現のあり方だと思うのですが……。


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ゴシップ精神は文学研究

 『近代作家エピソード辞典』村松定孝(東京堂出版)

 わたくしごとですが、人生晩年の学び直し学問としての「文学」シリーズの読書報告です。
 しかし自分でそのように決めながら、実際にはなかなか本格的な学問研究に突入できず(まぁ、「食い扶持」の用事もありますし)、学問の周りをただぐるぐる回っているだけなのですが、今回の書籍も図書館でぶらぶらしているときに見つけた本です。
 前書きにこんなことが書いてあるのを、まず立ち読みしました。

 「(略)島村抱月が、まことに好都合な意見を残している。それによると、文学者は、日常で、ふとPassing Word(ゆきずりの言葉)をもらす、それは、かれの素顔であり本音を反映しており、その言葉からわれわれは作家の特質や思想に迫ることができるというのである。すなわち、これを以てすればパッシングワードをとらえることで、作家研究の糸口を見出しうることになるのである。」

 なるほど、「好都合」な感じのする表現でありますね。やや下品に申しますれば、ゴシップを喜ぶ精神は文学研究としてあながち間違っているわけではない、と。
 えっ? そこまでは言っていませんかね。

 ともあれ、この言葉に勇気を得て、私は本書を借りてきて読みました。
 筆者についてはどんなお方なのか全く存じ上げないのですが、文学博士のえらい大学の先生です。(平成3年初版発行の本なので、今でもご存命でいらっしゃるのか分からないのですが。)
 だから、というのか、何というのか、まー、思ったほどゴシップぽくなくて、期待はずれというか、いえそも、そも学び直しの「文学=学問」でありますから。

 この一冊に、100人の文学者や国文学者のエピソードが収録されているんですね。一人分の分量は、平均2ページと少しくらいでまとめてあります。
 だから、(というのか、ここも迷いますが)そもそもエピソードが少し物足りない感じがしました。
 ……しかしまー、「Passing Word(ゆきずりの言葉)」ですから。……。

 最後に一つだけ、内容の紹介をしてみますね。太宰治のエピソードです。
 筆者が太宰治と一緒にビールを飲み、その後お茶漬けが食べたいという太宰の言葉に誘われて太宰宅まで尋ねます。トイレを借りたあと部屋に戻ろうとしていると、太宰と夫人が、ごはんが3杯分しかないという相談をしているのをつい聞いてしまいます。しかしいかんともしがたく、申し訳なくも太宰が1杯、筆者は2杯のお茶漬けをごちそうになったというエピソードでした。
 そして最後に、こうまとめてありました。

 「その年から十年して太宰氏は夫人と愛児三人を残しての他界だった。ご長男は成人前に亡くなられたが、長女は大臣夫人となり、次女は女流作家津島佑子、『斜陽』のかず子のモデルの愛人太田静子の子治子も文壇に在る。地下の霊も満足に違いない。」

 なるほど、心中自殺をした太宰の霊が、子供達が文人になったことで満足したかどうか、今までそんなことは考えたことがなかったですが、確かに少しおやっとする問いかけでありました。


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