少しずつイタリア人……オペラを聴き始めた頃のこと(6)

 ……えー、毎度ながら、あれこれだらだら述べていた話であります。(ごめんなさい。)
 前回最後に引っかかっていたのは、こういう事でありました。

 「イタリア人がイタリア語を、ドイツ人がドイツ語をしゃべる時の感覚と、日本人が日本語をしゃべる時の感覚は、生理的に大いに異なっているのではないか。そして特にイタリア語はそうじゃないかと思うのだが、『語る』と『歌う』の間にそんなに差がないのではないか。」

 そんなことを考えたわたくしはさらに、だからしゃべる代わりに曲を歌うという構造のオペラに、イタリアの人はさほど違和感を感じないのではないかと思ったのでありました。
 そして、それではイタリア人が、常住坐臥「歌う」ように言葉を「語る」というのは、いったいどんな感覚のものなのだろうかと、大いに興味の湧くところでありました。
 で、ちょっと、いろんなことをしてみたりするんですが……。

 えー、そもそも私は、ひじょーに影響を受けやすい人間でありまして、すぐ「まねしー」をしたくなるんですね。かつて、バッハのカンタータをよく聴いていた時、自分も歌ってみたいものだとすぐ思っちゃうんですね。ところが、根が怠け者である私は、そこでドイツ語をちゃんと学ぼうなどとは決して思わないんですね。
 そこで、聴きながら発音をカタカナでメモしたりしました。

   ジ オン ヘル フィ フェッシャー ズィーンゲン
   ダス フェッフ ビーヴォー フローイデン スプリーンゲーン


 なんてやってました。(上記は『カンタータ140番・第4曲コラール』のつもり)
 この間も、『カルメン』を聴いていて、同じことをやってました。

   ラムー ェ タン ファ ドゥ ボ エーメ イル ナ 
   ジャメスコ ヌ ドゥ ロワ


 (これは『ハバネラ』のつもり。これはフランス語やね。)
 で、こんなことしていると、少しずつ少しずつ、感じてしまうんですね。
 いえ、少しずつ少しずつ、イタリア人になってしまうのですね、これが。
 そして、やっと、私は、このことに気が付いたのでありました。

 「違和感なんて、やっぱりないやん。」

 そしてつくづく、やっぱり本当にドイツ語・イタリア語がしゃべれるとええなぁー、と。


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村
スポンサーサイト

テーマ : クラシック - ジャンル : 音楽

比較言語論もどきを……オペラを聴き始めた頃のこと(5)

 ……えー、前回の続きであります。同一テーマの文章の4回目になっていますので、今回は必ずや終了させるべく、前回までのまとめはナシにして進んでいきます。すみません。

 さて、日本語オペラ初体験でありました。
 正直、すごく違和感がありました。
 例えば、「さぁ、屋敷に帰ろう」なんて言う発言が、レチタティーボというんですか、高低が付いて

 「や↑し↑き↓に→か↑え→ろ↓う」

 なんて具合になってしまいます。
 イタリア人はこんな感じでヴェルディの『椿姫』を、ドイツ人はこんな感じでモーツァルトの『魔笛』を聴いているのでしょうか。
 そうだとすれば、めっちゃ、変な気がするんですが。もしそれが変じゃないとすれば、……。

 ……うーん、あれこれ、ぐずぐずと、考えたんですがね。
 よくわからないんですがね。
 ただ、少しだけ、こんな事を考えてみました。

 それは、イタリア語・ドイツ語という言語の属性のせい(おおざっぱな言い方をすると、特にイタリア語なんてそうじゃないかなと思うのですが、「語る」と「歌う」の間にそんなに差がないんじゃないかということです)、あるいは、イタリア人がイタリア語を、ドイツ人がドイツ語をしゃべる時の感覚と、日本人が日本語をしゃべる時の感覚が、生理的に大いに異なっているせいではないか、と。

 昔、こんな事を何かの本で読んだのですが。
 例えば、英語の「I」は「私」と訳される。でも、英文には必ず主語が必要なようには日本文には主語が必要ではない。だとすれば、多くの場面で英文に必須とされる「I」と、一般的な日本文においてあまり必要とされない「私」は、吾々は便宜的に対応する単語と理解しているが、この二つの言葉の持つ生理的な感覚は、実はかなり大きく異なっているのではないか、という主旨の文章であります。

 オペラを聴き始めた頃の私は、同じような感じのものが、ここにもなんとなくあるような気がしたのでありました。
 そしてそこから、さらに別の好奇心が、むくむくと生まれてくるのですが……、あ、終わらない。

 ……居直って、次回に続きます。


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

テーマ : クラシック - ジャンル : 音楽

イタリア人やドイツ人のように……オペラを聴き始めた頃のこと(4)

 ……えー、前回の続きであります。テーマは、小林秀雄のこのフレーズでありました。

 「彼の音楽は、声帯による振動も木管による振動も、等価と感ずるところで発想されている。」(『モオツァルト』)

 つまり、本当に声と音は、音楽の中で「等価」なものかということなんですが、いくら小林秀雄大先生の主張であっても、どうも私はよく分からないんですね。
 これって、例えばドイツ・リートを聴いていて、単にドイツ語の意味が分からないってことに過ぎないんじゃないか、って思うんですがね。

 もっとも、第三者的に見たほうが物事の本質がよく分かるってことは、いかにもありそうにも思いますが。
 でも実際の所、イタリア人やドイツ人は、歌曲を器楽曲と同じに聴くなんて、そんな聴き方はしているんでしょうか。イタリア人やドイツ人にとって、イタリア語やドイツ語の歌詞は、やはりまずリアルな意味を持つ言語でしょう。器楽曲とは、違いませんかね。

 じゃあなぜ彼らは、なぜ違和感がない(ように見えますね)のか、と。(えーっと、遡っていきますと、この「違和感」、セリフを歌で表す芝居であるところのオペラへの違和感が、もともとのテーマでありました。)

 で、実験してみました。
 どんな実験か。
 大体ご想像がつくとと思いますが、イタリア人にとってのイタリア語オペラ、ドイツ人にとってのドイツ語オペラと同じ状況を体験する、つまり、日本語のオペラを聴いてみたんですね。

  『有間皇子』 福田恒存・原作、松原正・脚本、別宮貞雄・作曲

 間違いなく日本語のオペラです。
 このオペラを、オペラを聴き始めてまだ間がなかった私は、聴いてみたのでありました。

 えーっ! めちゃめちゃ、違和感あるやんけー。
 めっちゃ、きしょく悪いやんけー。

 ……すみません。
 極めて愚かな者の、何にも知らない頃の、何にも考えていない感想ですので、どうか許してやってください。
 とにかくそのころの私は、ごく正直に素朴なところ、そんな風に思ったのでありました。

 えー、次回には、終わりますから……。どうもすみません。続きます。


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

テーマ : クラシック - ジャンル : 音楽

「上演されても眼をつぶって聞く」……オペラを聴き始めた頃のこと(3)

 モオツァルトは、当時の風潮に従い、音楽家としての最大の成功を歌劇に賭けた。そして、確かに、彼の生前にも死後にも、最も成功したものは歌劇であったが、何もその事が、歌劇作者モオツァルトの名を濫用していい理由とはならぬ。わが国では、モオツァルトの歌劇の上演に接する機会がないが、僕は別段不服にも思わない。上演されても眼をつぶって聞くだろうから。僕は、それで間違いないと思っている。
 (略)
 彼の歌劇は器楽的である。更に言えば、彼の音楽は、声帯による振動も木管による振動も、等価と感ずるところで発想されている。彼の室内楽でヴァイオリンとヴィオラとが対話する様に、「フィガロ」のスザンナが演技しない時にはヴァイオリンが代わりに歌うのである。(『モオツァルト・無常という事』小林秀雄)


 この有名な文章を初めて読んだ時(特に「上演されても眼をつぶって聞く」って所ですよね)、私はどんな風に感じたんでしょうか、実はよく覚えていません。
 今読んでみると、いかにも小林秀雄一流の逆説的表現(まー、ちょっと「ハッタリ」めいていますよね)という感じがとてもするんですけれど。

 さて、本文章は前回の続きであります。
 前回私が述べていたのはこんな事でした。
 高校時代演劇部でぶいぶいいわせていた知人の女性がオペラについて、「しゃべる代わりに曲を歌うってすごい違和感だわ」と言ったのに対し、私は反論も出来ず(いかんせん、オペラを聴き始めた頃のことですから)、さらに私自身がオペラを聴いているうちに、確かに彼女の言っていた違和感と同種のものがなくなってきていたことに対して、「そんな簡単に違和感がなくなっていいのか」と思ったという話でありました。

 で、まず思い出したのが、冒頭の小林秀雄の文章だったということであります。
 なるほど改めて考えてみますに、当時の日本の第一流の評論家が(小林秀雄といえばなにしろ、たった一人で日本の近代文芸評論を作ったようなえらい人ですから)、眼をつぶって鑑賞して、それで間違いないと言っているオペラとは、どこかよく分からないところがあるなと、まー、聴き始めたばかりの私はやはり少し考えたのであります。

 問題は、やはり、「歌詞」ですよね。
 小林秀雄は上記文章で声帯も木管も変わらないと言っていますが、これはいくら何でも筆が滑っていませんかね。
 (昔小林秀雄は、文学の神様の様にいわれていた時期があって、とても「批判」なんてできそうもない雰囲気があったんですが、さすがに最近読み直してみますと、とても巧妙に「筆を滑らせて」いることが分かるようで、何といいますか、少し微笑ましくもあるんですがー。)

 ともあれ、本来「意味」を持つ「歌詞」を、音楽的にどう考えるか、というのがポイントではないかと、私は考えました。
 そして、ある「実験」(ってほどのものでは全然ないんですが)をするんですが、……えー、その顛末は、また次回に。すみません。


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

テーマ : クラシック - ジャンル : 音楽

あの違和感は、何?……オペラを聴き始めた頃のこと(2)

 話はやはり、オペラを聴き始めた頃のこと。
 そのこと(つまり「ぼくサー、最近、オペラ聴いてんだよねー」って、呆れる軽さのことです)を、友人の女性に話しました。
 彼女は、高校時代演劇部でぶいぶいいわせていた方やそうですが、その彼女の曰く、

 「あの、しゃべる代わりに曲を歌うって感覚、わたしすっごい違和感!」

 思いがけない襲撃に驚いた私は、まぁ、ごにゃごにゃと適当に答えまして、この話からトンずらしました。

 でも後で考えてみたんですが、かつて私も、確かに彼女のいっていたような感覚を抱いたことがあった、と。
 でも、いくつかオペラを聴いているうちに、知らない間に、そんな違和感はなくなってきたんですね。なんとなく、これはこんなものだこれでええやん、という感覚になってきたわけです。

 だって、それがまっとうな感覚ですよね。そうじゃなければ、世の中にオペラ・ファンなんて、いなくなっちゃうじゃないですか。
 だから私も、そのように正統的一般的汎用的プロセスを辿ってきたんですよね。
 しかしこの度、彼女にそういわれて、私ははっと思ったわけです。

 そんな簡単に違和感がなくなっていいのか、と。

 なぜ、そんなに簡単に、現実にはあり得ない状況に違和感がなくなるのか。
 それは要するに、そもそも現実自体をしっかり観察してグリップしていないからではないのか。だからそんな曖昧な現実に、たとえ変わった要素が入ってきても、気も付かなければ気にもならない、違和感など覚えようがない、という「軽薄」な状況が現前するのではないか、と。

 ……、まー、本当は、もうちょっと丁寧にあれこれと考えてみたんですがね。
 まず思ったのはこんな事でした。

 例えば、そもそも演劇は現実の疑似空間であるが、一方オペラは音楽会の異空間であるという説明。オペラを聴き始めた頃から、一応は持っていた簡単な私自身の納得事項なんですね。
 つまり、私はオペラの歌詞を言葉として理解しておらず、器楽曲と同様に、またはそれに準ずる音として歌曲を聴いているのだ。だから、この不自然さに違和感がないのだ、と。

 どうです。良い考えではありませんか。立派な説明になっていますよね。
 でも少し考えたら分かりますが、それって、単に私がイタリア語・ドイツ語がわからないってことを言っているだけじゃん、って。

 ……うーん。
 更に私は、あれこれぼつぼつと、考えるのでありました。続きます。すみません。


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

テーマ : クラシック - ジャンル : 音楽

まだまだ修行が足りない……オペラを聴き始めた頃のこと①

 さて先日、私は某音楽関係大学に行って、オペラの歌を聴いてきました。
 最近はやりの(最近ってこともなく、かなり前からいろんなところで行なっていますが)、様々な大学が「生涯教育」の一貫として行っている社会人向け講座であります。

 何回かのシリーズなんですが、今回行っていたのでいうならば、講師の先生の話、例えばモーツァルトのいかにも天才めいたエピソードの話とか、謎に包まれたチャイコフスキーの亡くなった原因だとか、そんないろんな音楽家のエピソードの話を交えつつ、演奏や歌唱を聴くというもので、先日はちょうど「オペラのプリマドンナ」というテーマで行なっていました。

 私は客席の一列目のど真ん中に座っていたんですが、ちょうど目の前、3メートルほど離れたところで歌手の方が歌っていらっしゃいました。

 曲は、
  ・『カルメン』より「ハバネラ」「闘牛士の歌」
  ・『椿姫』より「ヴィオレッタとジェルモンの二重唱」
  ・『トスカ』より「歌に生き、恋に生き」
  ・『蝶々夫人』より「ある晴れた日に」「手紙の二重唱」「可愛い坊や」
など、まー、オペラの有名どころの曲ですね。

 最初は私も、「すごい声だなー」と、単純にひたすら圧倒されていたんですが、だんだんと圧倒され慣れてきましてー(ヘンな言い回しですがー)、……しかし、あれ実際、あんまり間近で聴くもんやないですな。
 あの声は、それこそ「メトロポリタン・オペラハウス」みたいなバカでかい劇場で聴くもんであって、3メートルの距離で聴く声やないような気がしました。

 というのも、目の前にいる人は間違いなく日本人、少なくとも東洋人の姿形をなさっていますが、イタリア語の歌を「ベルカント唱法」ってんですか、あれで朗々とお歌いなさっておりまして、初めは素直に圧倒されていたんですがね、なんだかだんだん暑苦しーに思えてきた私は、とうとう最後の方は、少し悲しい気持ちにまでなってきてしまったのを、今でも少し憶えています。
 ……という思い出、実は私がオペラを聴き始めた頃のものであります。

 「まだまだ音楽鑑賞修行が足りない。」

 そんな頃のお話を、もう少し書いてみます。


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

テーマ : クラシック - ジャンル : 音楽

人気者のグッズをゲット!

 えー、少々前のことですが、親戚の家に行きましてぐずぐずと遊んでおりました。
 小学生の姪がいるのですが、この度修学旅行に行くといいます。
 「どこに行くんや」という会話があって、姪が出してきた行き先のパンフレットなど見ていましたら、思わぬ物が写真に写っていまして、つい私は、小学6年生の姪に向かって大声で「あー、これ! おみやげに、これ、欲しい!」と、幼子の如くねだってしまいました。

 後日、いたいけな十一歳の少女は、訳のわからんおじさんに「恫喝」されて、これを買ってきてくれたのでありました。
 (あのー、いいわけがましいですが、もちろん私は、彼女にお土産代+現地でのお小遣い代は渡していたんですよ。)
 これです。↓

take01.jpg

 で、さてこれが何かといいますと、えー、正式名称をご存じでしょうか。(「取説」みたいな紙に書いてあるんですが、でもこれって正式名称なんでしょうかね。)
 「竹パンフルート」と言うのだそうです。ルーマニア、または南米にも同種の物があるという民族楽器やそうです。

 なぜ私がこれを欲しがったかというと、それは言うまでもありませんね。
 モーツァルトの名曲オペラ『魔笛』中の人気者、「鳥刺しパパゲーノ」であります。

 そっと吹いてみると、『魔笛』の劇中のと同じ音がしました。
 「わー、この音やー。」と、私は感激いたしまして、ぴーぴーと鳴らし、ひとしきり姪娘と遊びました(というか、姪からはあきれられてしまいました)。

 私も例に漏れず、このパパゲーノが大好きなんですね。
 『魔笛』というのは現在でも世界中で最も多く公演されるオペラだそうですが、その理由の7割くらいはこのパパゲーノという人物設定(そしてもちろんモーツァルトの曲の素晴らしさのおかげ)ではないかと。
 それくらいにとっても魅力的な人物ですね。

 ともあれ、そんな楽器をお土産にねだってゲットし、そして現在、私の「自慢のオーディオ」(ギャグですがー)の上に飾ってあります。


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

テーマ : クラシック - ジャンル : 音楽

眩暈のしそうな遙かなる隔たり

 さて、前々回の続きの話であります。
 前々回の話は、オペラ『椿姫』を見た私は、相変わらずのオペラの「非人間的」ドラマツルギーにとっても恥ずかしくあきれた、というところまででありました。

 その中心は、第二幕第一場の馬鹿息子を思う馬鹿親父の理論展開であります。
 全く、あんなエゴイスティックな理論はありません。
 そしてそんな理論がスルーして、何となくそのまま展開してしまうところが、私のイヤなオペラのドラマツルギーの典型的な「非人間性」であると、私はずっと思い続けてきたわけですね。

 ところがしかし、今回はそんなドラマツルギーの「破綻」を見ながらも、その後どんどんよくなる法華の太鼓のように最終幕までいって、その挙げ句私は、とっても面白かったわけですね。そしてその時、突然私は理解したのでありました。

 あのー、ちょっと極端な例えでもって描いてみますが、怒らないでくださいね。それは、こういう事であります。

 「吉本新喜劇を見て、人間が描けていないと怒るものがいるか。」

 いきなり関西系のローカル話題になってしまいました。
 でも何となく、テレビなどに出ている全国レベルの関西お笑い芸人をご覧になって想像がつくと思うんですが、たぶんその想像が正解ですので、どうぞよろしくお願いいたします。つまりこういう事ですね。

 吉本新喜劇→お笑いによる娯楽の徹底的追求
 オペラ→音楽による娯楽の徹底的追求


 こう考えることで私は、以前よりずっと悩んでいた、『蝶々夫人』や『コシ・ファン・トゥッテ』のストーリーの「非人間性」についての考え方が、今回やっと体験的に納得できました。
 それは別の言い方をすれば、オペラにおける音楽以外の要素は、悉く娯楽として音楽にのみ奉仕するものである、ということであります。あたかも、吉本新喜劇の舞台上のすべての物事が、ただ「お笑い」のためだけにあるように。

 ストーリーの非人間性など、気にする方が愚かである。
 音楽の精神性など、犬に喰われてしまえ。

 ということで、私の積年の疑問「その1」が、やっと氷解しました。
 考えてみれば(というより改めて考えるまでもなく)、『蝶々夫人』に描かれる人間性と、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏の精神性の、眩暈のするような遙かな隔たりが意味するものは、二者は全く異なるジャンルの芸術・芸能であると言うしかありませんよね。
 愚かなのは、ひとえに私でありました。

 そしていよいよ次は、私の音楽をめぐる疑問の本丸(積年の疑問その2)、「音楽的才能は人間性に連動しないのか」という件なんですが、これについても、そろそろ何となく「答え」は見えてはきているんですがねー。………。


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

テーマ : クラシック - ジャンル : 音楽

『椿姫』は太宰治か

 先日、オペラの公演に行って来ました。
 『椿姫』であります。とってもよかったです。

 ネットで音楽系のブログなどを見ていますと、みなさん、様々な音楽作品をとっても上手に誉めたり批判したりなさっていますが、いかんせん、無知の悲しみ、そんなことが私は上手にできません。

 しかし、タイトル・ロールの女性を始め、だんだんよくなる法華の太鼓のように、幕が重なるほどにどんどんよくなってきたように思いました。後半はとっても盛り上がってきました。
 そして、私は突然気が付いたのですね。
 「うーん、そういうことだったのか」と。

 何が「そういうことか」と蒙を啓かれたかと申しますと、私にとっては本当に、目から鱗が落ちるように、一気に視界が明るくなったことなんですが、一言で言うとこういう事です。

 「オペラと器楽曲とは全く別物である。」

 何を今更と、お思いの方もいらっしゃると思いますが、いえ全くその通りで、私の不徳の致すところとしか申しようがございません。
 えーっと、もう少し丁寧に順を追って説明してみますね。

 事の起こりは、『椿姫』第二幕第一場の、ジェルモンの論理であります。
 ジェルモンは、椿姫=ヴィオレッタの恋人であるアルフレードのお父さんですね。
 パリですっかり「遊び人」になっちゃった「馬鹿息子」アルフレードを田舎に連れ帰るために、ヴィオレッタに「息子と別れてくれ」という、その論理のことであります。

 私は、この場のあの「ねじくれた」論理展開を見ながら、思わず太宰治の『家庭の幸福』を思い出しました。例の有名な結句。

 「家庭の幸福は諸悪の本」

 太宰治は、独特の嗅覚で家族団欒に潜む「非人間性」を抉っていくのですが、しかし、この『椿姫』の「馬鹿親父」ジェルモンの論理は、全く実も蓋もありません。
 こんなあまりにあっけらかんとしたエゴイズムの発露は、見ていてこちらがひたすら恥ずかしくあるのですが、えー、続きは、次々回に。


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

テーマ : クラシック - ジャンル : 音楽

学生オペラ歌手の実力や如何に

 ある芸術系大学のオペラを、先日見てきました。
 以前その大学の文化行事の招待券を貰って見に行って以来、なかなか面白かったものだから時々ホームページを覗いていて、それで知りました。学生による舞台です。

 そもそも芸大学生によるオペラというものは、どの程度に芸術性があるのでしょうかね。なかなか一概には言えないものでありましょうが、今日の公演の帰りにこんな風に考えていました。

 まず楽団、つまりオーケストラについて考えてみます。しかし、比べるといってもウィーン・フィルとかベルリン・フィルとかと比べるのはいくら何でも酷というものだろうから、とりあえず国内の一応プロのオケを比較の基準としてみます。

 野球に例えて考えてみると、オーケストラについては、まぁ、プロ野球と実業団チームくらいの違いでしょうかね。個人的にはなかなか聴ける感じがしました。

 しかし「オペラ歌手」について。これはちょっと実力差が歴然という感じがしましたね。
 プロ野球と高校野球くらいかもしれませんね。いや、もう少し差があるかも知れません。
 「一生懸命のプレーですから、エラーは仕方ありません」という、高校野球のアナウンスの、あの感じですかね。

 そう言えばモーツァルトほどでなくとも、ピアノやバイオリンの神童というのはよく耳しますが、歌唱の天才少年(少女)ってのはあまり聞きませんね。(特に少年は、変声期という大きな「試練」がありますから。)それこそ美空ひばりくらいなモンですかね。

 学校唱歌みたいな曲を単純に歌うだけならともかく、オペラとなると、表現力とか説得力なんかにやはりキャリアが必要になってくるんでしょうね。
 と、まぁ、そんな風に考えていたのですが、でもなかなか面白かったです。

 また、今回のオペラでは、日本語翻訳の歌を歌っていましたが、でも思っていたよりも違和感は感じなかったです。
 そもそも歌詞なんてものは日本語であっても、一度聞いたくらいでは隅々まで分かるものではありませんので、ドイツ語イタリア語の場合とかなり似通った感じで聴けたんじゃないかなと、「瓢箪から駒」に思いました。

 小林秀雄は『モーツァルト』の中で、木管も声帯も同じだと、かなり極端なことを書いていましたが、いくらなんでもそこまではいい過ぎとしても、音としてのすばらしさだけでかなりいいんでしょうね。

 しかし本当は、今回のオペラについて、何よりこっそりすばらしかったのは、料金が全席自由席で「激安」だったことにあります。おかげで僕は、前から十列目あたりのど真ん中で見ていました。


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

テーマ : クラシック - ジャンル : 音楽