『スイートプールサイド』はいい映画ですね

 先日私は、私としては実に久しぶりに「新しい」映画作品を(DVDですが)、見ました。冒頭の映画、これは2014年に作られた映画ですね。

 原作は漫画作品で、原作・映画共にかなり「マニアック」な作品であります。
 しかし本当に「マニアック」かといえば、それはまー、カッコ付きの「マニアック」かなと思います。本当に本当のマニアックになると、たぶんそれはポピュラーな支持を広く受けにくいんじゃないかと思います。

 実はわたくし本映画をちょうど真ん中あたりで休憩し、前後半に分けて見ました。
 いえそれはたまたまなんですが、ちょうど休憩の真ん中で原作となった漫画を読んだのであります。

 原作漫画もとても面白かったです。
 ただ漫画は登場人物が中学生の設定であり、この設定が作品をコミカルなものにしていると同時に、10代前半の、人格としての未成熟さが感じられる展開となってマニア性はかなり欠けました。

 それを高校生の設定にしたのがこの映画でありまして、高校生にそのまま移したため少し違和感のある箇所もできたと同時に、その分マニア性は一気に開花しました。

 これは全く個人的な感想ですが、私は前半がかなり良いと思いました。
 ヒロインの体毛を剃髪するシーンに出てくる「処女森林」のようなイメージは、浪漫的でかつ重くなりすぎず(諧謔性もあって)、とてもよかったと思います。

 ただそんな前半のやや軽快かつマニアックな展開に後半が持ち切れず、「狂気」という少し別の分野のものを持ちこんでしまったように思います。
 もちろん狂気とマニア性は、現実には親和性あるフィールドでしょうが、そこを何となく繋いでしまうとオリジナリティにも瑕疵が生まれ、なによりマニアの「純粋性」が激減してしまいます。(と、私は思います。)

 ともあれ私は今回一連の作品を鑑賞し、まず現代日本の漫画メディアが持つ「懐の深さ」について、改めてはるかに深く広いものがあることを確認しました。
 原作の持つオリジナリティは素晴らしいですが、それは漫画メディアのキャパシティーとしてはたぶん想定される範囲のものでもあります。

 それにまして今回私が素晴らしく感じたのは、映画におけるマニアック作品に対する許容度についてです。
 もちろん映画にも、マニアな作品は古今数多くあったでしょうが、わたくしとしては、本作が久しぶりに身近にそれを感じられる一作でした。

 許容度とは「多様性」ということであり、少し大げさに言えば、これなしにはすべての物事・事象・存在は進化発展していきません。
 本映画を見た後私の心に残った満足感は、そんな許容度を確認できた満足感でありました。

 冒頭の記述からも分かるように、私は全く映画芸術に対する良質なシンパではありません。
 しかしそれでも、他人事ながら、そのジャンルがさらに発展していく「多様性」という予感を本作は感じさせてくれて、私は少し心温まる思いがしたのでありました。


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森田芳光監督の『それから』

 ふと、文芸映画を見たいと思い立ちまして、……いえ、私のしている事なんてその場の思い付きでほとんど前後の脈絡はないのですが、まー、そう思ったんですね。
 で、何作か、見ました。

 思い付きの取り組みでかつそんなに時間をかけたものでもないので、いきおい我がまま勝手な感想になると思いますが、何回か報告してみたいと思います。

 夏目漱石原作、森田芳光監督の『それから』の映画をDVDで見ました。
 いきなりですが、我が「文芸映画鑑賞企画」で取り上げた中では、今の所一番良かったと、わたくし、思いました。

 まず鑑賞回数を述べますと、『それから』は、たぶん3度くらい見たかなと思うのですが、そもそも私はヒロイン三千代役の藤谷美和子が好きなんですね。

 今回も同様、見方によっては内面性の見事に欠けた藤谷美和子の「特殊」な演技が見たいと、そんなつもりで見始めたのですが、途中から俄然森田芳光監督の手腕というのか、映画のトータルな造りについて興味の中心が移ってゆきました。
 結果、どっしりとしたとてもいい映画だなぁと、感心するに至りました。

 思い返すに、まず時代考証が、……いえ、細かなことはわたくしよく分かりませんが、とてもよかったと思いました。
 主人公長井代助の一族のブルジョワジーな豪邸と、尾羽打ち枯らして関西地方から東京へ舞い戻ってきた代助の友人平岡常次郎の借家との対比が、水際立って素晴らしいと感じました。

 平岡の家の中がまた、とっても暗いんですね。
 それは夫婦仲がよくないから雰囲気的に暗いんでしょうが、今回私が感じたのは、明治時代の日本家屋の、なんといいますか圧倒的物理的即物的な、「非文化的」暗さであります。

 そしてそれは、つい最近とは言わないまでも、やはり日本歴史の上では現在に極めて近い所に位置する時代のことであります。
 司馬遼太郎が、「坂の上の雲」を追いかけてゆく時代と書いた、国がまるごと青春時代のような明治という時代は、現実には、ほとんどの国民の文化度でいえば、ただひたすらに暗く、そして侘びしく苛烈な時代であったのだと思います。

 そういった世相を、藤谷美和子がとぼけて悲しく演じ、松田優作がちゃっかり余裕で抑えて演じます。
 森田芳光監督の確かなセンスと眼力が、思わずうならせる、いい映画だと感じ入りました。まずは、よかったものから。


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……ビミョウに非常識(?)

 えー、久しく触れませんでしたが、この間も、わたくし「古い日本映画を見る会」の一人会員といたしまして、実は何作かの古い日本映画を(もちろん厳密に申しますと、古い日本映画のDVD版を)見てまいったのでございます。

 最近の私のテーマは「シリーズ作」でございまして、シリーズ作の「巨人」としてはやはり『男はつらいよ』がありましょう。ということは、あのシリーズはわたくし全編鑑賞済みですから、まぁ後はこわいものなし何とかいけるんじゃないかと密かに考えつつ、しかし実際はそんな長いシリーズ物には手を出さず、かつ、「大作」めいた物にも手を出さず、所謂エンターテイメントっぽいので幾作か見ました。

 そんな鑑賞の中で、ひとつ面白かったというか変わり種っぽいものとして、「シリーズ作」ではないのですが、いわゆる「はやぶさ」もの3作品がありました。

 「はやぶさ」ものというのは、例の「独立行政法人宇宙航空研究開発機構JAXA」が2003年に打ち上げた小惑星探査機「はやぶさ」の話でありまして、その小惑星探査の事業における人間的すったもんだの出来事と、そして最後には何と言っても日本中を大感動させた「はやぶさ」の地球への帰還をもとにした、まーあれはやはり、かなり虚構化した映画でしょーねー。

 で、その「はやぶさ」ものの何が面白かったかといいますと、同じ実在の出来事をもとに、2011年から2012年にかけて3つの映画配給会社がばらばらに3つの映画を作っちゃったという、とても珍しいパターンの「競作」になったってことですね。

 同じ原作の映画が何回か作られることは結構ありますが、それがほぼ同時に作られたというのはかなり珍しいでしょうね。
 例えば川端康成の『伊豆の踊子』は6度も映画化されているそうですが、それは数年~数十年くらいの間隙(第一作昭和8年、第六作昭和49年)があってのことであります。

 ところが「はやぶさ」ものは、同じ原作(というか実際の出来事)をほぼ同時期に複数作映像化したという、なんといいますか、かなり信じがたいといいますか、非常識といいますか、ウケそうならなんでもええんかいといいますか、まー、とにかくその結果、3つの同じ事実を踏まえた映画が同時にできたということであります。……うーん。

 で、それをわたくしこの度見比べた、と。
 そして結論から言いますと、見比べて、結構面白かった、と。
 やっぱりビミョウに違うんですね。つまり、映画によって微妙にプッシュしたい登場人物や出来事が違うわけです。
 その差が、このように同時期に競作されますととってもよくわかって、「はやぶさ」3作品なかなか楽しい鑑賞体験でありました。


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漫画原作の映画を考えてみました

 さてわたくし、「古い日本映画を見る会」の一人会員といたしまして、これまでもぽつぽつと古い日本映画のDVDを借りてきているのでありますが、ここんところ、いわゆる「B級」日本映画を続けて見ました。

 私がこんなことをいうのもおこがましいですが、しかし実に悲しくなるほど出来の悪い映画というものが存在するんですね。
 私は一方で小説が好きなのですが、小説についても、もちろん同じことが言えると思います。ただ小説の場合、私のほうが先に怖気づいてしまって、ここ十年ほどはすでに評価の定まった(かなり定まりつつある)小説ばかりを読んでいるので、この度久しぶりに悲しくなるほど出来の悪いフィクションに接して(それも連続して出会って)、ちょっと戸惑っていました。

 で、今回報告する古い日本映画ですが、これは「B級」と私は評価したわけではありません。ただ、見る前は何となくそれっぽい感じがしていました。まぁ、そんな報告。

 見たものは『ねじ式』であります。
 この作品の監督も登場俳優も私は知りませんでした。(監督の名前は何となくどこかで聞いたことがある程度でした。)
 よーするに、例の漫画界の空前絶後の「名作」、つげ義春の『ねじ式』の映画化であるから見たんですね。

 いえ、結構面白かったです。
 映画は、冒頭のわけのわからないパフォーマンスの部分と、しばらく続くつげ義春の私小説風な部分の後は、原作のつげ漫画『もっきり屋の少女』『やなぎ屋主人』そして『ねじ式』をほぼそのままになぞっています。

 それが結構面白かったのではありますが、同時にそれが、この映画の「限界」もまざまざと感じさせました。
 一番私が気になったのは、原作の、セリフからセリフへと続いていくシュールな連続が、映画では理解が間に合わないということでした。

 発声された時の状況が、理解を助けないシュールなセリフは、文字として定着していれば、そのシュールな意味が分かってから読み進めることができますが、映画だとセリフは言った端から消えていきますから、音からとてもそんな意味(シュールな意味)を読み取っていけません。

 速さという意味においてもそうですが、また、漫画は視線を少しずらすとすぐに遡って書かれていることを再確認できますが、映画ではそれも不可能です。

 それは例えば「メメクラゲ」なんていう一言についてもそう感じるのですが、文字として漫画の中にしっかり定着している「メメクラゲ」と、映像の中に発声されるやすぐに消えていくセリフとしての「メメクラゲ」では、インパクトがまるで違ってくると思います。

 ……なるほど、シュールな漫画は映画にならない。
 少なくとも原作漫画そのままの展開だとセリフに意味がついていかないということを、このたび私は知ったのでありますが、これって、どうなんでしょう。

 どうなんでしょうって、つまり、間違っていないでしょうか、また、ひょっとしたら当たり前の話なんでしょうか。
 このあたりが、わたくし、映画未熟者のせいで、よくわからないのでありますが……、ねぇ。……。


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古いアメリカ映画を見た・その2

 以前に、映画の致命的な欠点は短すぎることだという「暴論」を、わたくし、吐きました。自分で言うのも何ですが、まー、「暴論」でしょーなー。例えばこれを、「短編小説の欠点は短すぎることだ」と言い換えれば、この論の無意味さ加減は際だって見えます。
 しかし私は、もう少ししつこく考えちゃうんですね。

 「短編小説の欠点は短すぎることだ」というテーゼの馬鹿馬鹿しさは、一方で長編小説があるからですね。長編小説があるからこそ、馬鹿馬鹿しいのなら長編小説を書くなり読むなりすりゃいいじゃないかという運びになるのであります。
 でも映画の場合は、いくら長い映画だといっても長編小説と比較すれば(そんな比較が可能としてですが)、やはり短いという言い方はほぼ妥当ですよね。だから、映画の欠点は短いことである、と。
 ……うーん、この理論、論理的な整合性がありますでしょうか。

 というわけで、今回見たアメリカの古い映画は『ダーティーハリー1』であります。
 なんだ、難しそうなことを言っておいて、娯楽アクション映画じゃないかとお思いの貴兄、いえ、誠にあいすみません。全くその通りであります。
 でも見ていて、この映画にどこか感じる「いびつさ」具合は、やはり映画が短いからだと私は感じたのであります。

 さて、この映画ももう40年以上も前の作品ですが、映画を見る限り、当時のサンフランシスコ警察も凶悪犯も、そしてキャラハン警部でさえも、おまぬけといいますか牧歌的といいますか、その行為はもっと悪い結果を招く可能性が考えられただろうというようなチョイスを次々に行い、しかしストーリーとしては全く「僥倖」としか言いようのない展開で「めでたし」に終わります、一応。

 でもこの都合の良さも、もう少しじっくり時間をかけて場面を作っていけば、何とかなる部分はあったかなと私は思い、そこで冒頭の「暴論」発言となったわけでありました。

 しかしまー、人ごとみたいに言いますが、私のようにそんな少々「ひねくれた」風に考える人間も世間にはいて、なかなかクリエイティブな仕事とは難しいものですね。

 ところで、この映画の中でとっても魅力的なシーンの一つに、キャラハン警部がハンバーガーをほおばりながらマグナムを撃つ場面があります。
 ハンバーガーを咀嚼しながら右手にマグナムをぶら下げて、大通りを渡っていくイーストウッドの、なんとかっこいいことか。

 そういえば、この間見た『卒業』では、家の玄関口でフライドポテトを口にするキャサリン・ロスがいましたが、あれもかわかいったですねー。
 うーん、何かを食べているシーンが好きだというのは、きっと私に何かコンプレックスがあるんでしょうね。
 どなたか、お教えいただければ幸いであります。


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古いアメリカ映画を見た

 わたくし、「古い日本映画を見る会」の一人会員でありまして、今までにも何度か本ブログにそういった駄文を綴ってきましたが、ある日ふと気づきました。
 別に、日本映画でなくてもよかろう、と。

 実際よく考えたら、私が若かりし日には、日本映画より洋画を中心に見ていたではないか、もっと言えば日本映画はどちらかといえば馬鹿にしていたではないか、と。(日本映画を馬鹿にしていたうんぬんは、もちろん若かりし日の私がひとえに愚かであったせいで、何ら日本映画のせいではありません、……と、思います。)

 ということで、早速『卒業』のDVDを見ました。
 なぜ『卒業』かというと、冒頭にあるように私は「古い日本映画を見る会」の一人会員であるんですが、同時に「古いロックンロールを聴く会」の一人会員でもあったりなんかして、ちょっと前にアマゾンでサイモン&ガーファンクルの古いCDを買ったばかりだったからです。

 ということで、『卒業』でありますが、うーん、キャサリン・ロスはやっぱりめっちゃかわいいやんけーという感想を得ました。
 
 次にミセス・ロビンソンですが、この女はかなり「悪者」やねという感想も得ました。この女の欲望が、2つの家族の崩壊と2人の未来ある若者を路頭に迷わせたのは確かであります。

 しかし、どーも私の若き日の記憶には、この方がそんなに「悪者」であったという印象がないんですね。ちょっと火遊びの度を超してしまったマダム、というくらいのイメージ。
 ……ふーむ、なぜなんでしょう。私は考えたのでありました。

 しばらく考えて、わかりましたね。
 なんだそんなことかと思ったのですが、初めてこの映画を見たときの私は、20歳のベンジャミンであったということです。

 主人公ベンジャミンは20歳の青年として作品に現れ、一週間後に21歳になる設定で、そしてその頃ミセス・ロビンソンと不倫の関係になります。
 彼が童貞を失うシーンは、実に穿って面白いです。

 作品の後半ベンジャミンは、ミセス・ロビンソンとの関係は全く無意味だと言いますが、童貞青年が熟女の手ほどきに従ってそれを失うという物語は、古来より世界に広く共同幻想のように分布する、実に「有意味」な「神話」であります。

 わたくし思うんですが、ベンジャミン青年は、人生の入り口で待ち伏せられていた「悪意」の塊のようなミセス・ロビンソンのことを、20年、30年、いえ50年後には、若き日の戦友のように、生死をかけた戦場を共に経験した親しみを込めて、きっと懐かしく思い出すに違いありません。
 それとも、こんな私の感想は、無意味なものでありましょうか。


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『網走番外地』を見る

 先日内田樹さんのブログを読んでいたら、映画について触れられた一文がありまして、そこにこんな事が書かれてありました。

 詰まらない映画とは、そんな映画を見たことを忘れてしまいたいという映画ではなくて、そんな映画を見たことが思い出せない映画のことである、と。

 ……うーん、なるほどねー。流石に上手に説明なさるものだなーと、わたくしはとても感心いたしました。

 実はわたくし、ここんところの古い日本映画鑑賞マイブームの許、けっこうあれこれとDVDで過去の日本映画を見ています。
 先日は『網走番外地』という、言わずと知れた高倉健主演の映画を見ました。

 この映画がまた、何と言いますか、まとまった一作品として考えますと、前後半が分裂している如くなんですね。
 いえ、少なくとも私はその様に感じてしまったんですが、そんなことありませんかね。

 後半が、やけにぶっ飛んだ感じになって、いわゆるリアリティに難があるように思いました。そしてなにより高倉健演ずる主人公の性格設定が、前後半で統一感のないものになってしまったように思いました。

 本当は最初から後半のような、少々人間性に難のある主人公の設定にしておいたらよかったのかも知れませんが、前半は「健さん」のストイックイメージに乗っかかっちゃったものだから、後半との乖離がヘンになってしまったのかも知れません。
 後半中心の、少し小ずるい感じもある主人公像で冒頭からやっていただいたほうがきっともっと面白かったろうになどと思いました。

 ……と、そんなことを考えていたら、先日の文化の日に、高倉健さんが文化勲章をお貰いになりました。その時のご感想に、私は撮ってきた映画の半分以上が前科者の役であった、というニュアンスの表現があったように聞きました。

 これはきっと巧まぬユーモアというものではなくて、充分に考えられた発言なんだとは思いますが、たまたま私は極めて初期の高倉健の映画を見終わったところであったものだから、とても説得力のあるユーモラスな発言だったと実感しきりでありました。


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日本映画をぼつぼつ観ているんですが……

 少し前からぼつぼつDVDで過去の日本映画を見たりなんかしています。
 読んだ本については、わりとあっさりと本ブログに報告するのですが、映画に関して少し二の足を踏むのは、やはりこなした場の数の違いを我がごととしても感じるからでありましょうか。私はたぶん読んだ本の数の20分の1も映画を観ていません。

 自分の感想にもう一つ自信が持てないんですね。
 しかし一方で、そんな自信なんてクソ食らえという気もしています。ネット空間を見てみろ。アマゾンの書評欄を見てみろ。読み始めて10ページほどでイヤになってやめた、この作家の作品は最低だ、二度と読まない、みたいな文章がしゃあしゃあとアップされています。(このことについては以前にも少し触れましたが、わたくしとしてはそんな感性には完璧についていけてません。)

 とにかくこの度私は『あ、うん』という過去の日本映画を見ました。
 本作チョイスの理由は、単純にまー、高倉健の作品である、というのが取りあえずの理由ですかねー。

 ただ、観ていて、女を挟んで男二人の「三角関係」の描き方に、微妙に違和感を抱くことが再三ありました。
 それは、簡単にいえばこんな設定ってありかなと言うことですが、それをうまく評価できないんですね。なぜかというと、私がさほど映画を観ていないせいで、作品評価をする前に分からない点がいくつか現れるからですが、それはこんな点です。

 まず、そもそもこの映画は出来が悪いんじゃないか、という事ですね。
 万人が不出来と認める映画を改めて不出来と言っても仕方なかろう、と言うことです。

 二つ目は、この違和感はこの映画固有のものではなくて、映画というメディアそのものの持つ限界ではないのかと言うことなのですが、映画というメディアの限界とは、簡単に言うと「短い」と言うことであります。
 つまり、あれも説明不足これも説明不足で判断ができない、でもそこまで表現し始めればトンデモナイ長さになってしまいそうだ、という。

 と、まぁ、そんな感想を持ちました。
 実はすでにここまで書いたことによって、本作について、一定の評価はしてしまっているようにも思います。(すみません。)

 ただ、作品のラストシーンで、男達の真ん中に挟まれた女が暗示的な一言を言いますが、この台詞は、なるほど本当の地獄はここから始まるということでありましょうか。
 もしそうであるならば、これはなかなか広がりを持つ面白い作品だと思いました。


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ヴィジュアルが抽象性を明らかにする。

   篠田正浩監督、郷ひろみ主演『舞姫』

 さて、上記のDVD鑑賞報告の3回目になってしまいました。
 いつもの事ながら、ずるずると牛のよだれのごとき文を書き続けて、誠に面目もありませんが、なんとか今回で終わりにします。がんばります。

 えっと、こんな話でした。
 森鴎外の小説『舞姫』(1890年・明治23年)と、それを原作にした篠田正浩監督の映画『舞姫』(1989年)とには、作品構造に大きく関わる相違点が、三つあるという話であります。原作との違い、それはこの三つです。

  (1)豊太郎の母は死ななかった。
  (2)赤ん坊は流産してしまった。
  (3)エリスは発狂しなかった。


 どうですか。この三つは、こうして揃ってしまいますとかなり作品構造が変わってしまうと思いませんか。
 最初の豊太郎の母に関する指摘は、原作では母の死が、豊太郎と日本をつなぐ最後の糸が切れたことを見事に表しているのですが、母が死なないで生きているとすれば、明治時代の倫理観で考えれば、豊太郎は現代より遙かに「親不孝者」となってしまいます。(まして映画では、この母は、豊太郎のことが原因で自殺未遂までするんですね。)

 ところが、二つ目と三つ目の相違は何を意味しているのでしょうか。
 原作ではエリスは豊太郎に裏切られたことで発狂し、豊太郎はそんな狂女とお腹の中の子供を置いて日本に帰るということになっています。

 なぜ百年後の『舞姫』は、このように構造を切り替えたのでしょうか。
 わたくし考えたのですが、それはこういう事ではないでしょうか。
 つまり、百年間に家族関係が著しく変化した結果である、と。

 母親に対する「親不孝度」が上がることについては、さほど抵抗はない、しかし、女性を妊娠させて発狂させてさらに棄てさるなどという状況設定では、とてもリアリティが持たない、ということであります。

 どうでしょうか。
 百年離れた二つの『舞姫』に、私は日本の家族観の大きな変化を読んでみたのですが、私は全く久しぶりに一本の映画(DVD)を見て、ヴィジュアルは、むしろこういった抽象的な細部を明らかにしてくれる、という感じが大いにしました。
 やはり、映画は、あなどれませんよね。


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リザ・ウォルフは好演すれど……。

   篠田正浩監督、郷ひろみ主演『舞姫』

 さて前々回は、上記のDVDを私がとっても楽しく鑑賞しました、って所まで書きました。(ちょっとニュアンスが異なっているかも知れませんが、まぁ、いいか。)

 でも、本当にとても面白かったのですが、その鑑賞が終わった後、私はごそごそと原作である森鴎外の『舞姫』を取り出しました。
 実は、つい最近、私はこの小説を読んでいたんですね。

 例えば、鴎外は主人公「太田豊太郎」を、法学を学ぶために留学したとしているのですが、映画では医学生となっています。
 この変更は、よく理由が分からなかったですね。
 もちろん原作者森鴎外は、医学生としてドイツに留学しているのですが、それに倣う必要は特にないと思います。それどころか、医学生にしたことで、豊太郎が医学を取るかエリスを取るかの選択がやや不自然に感じられました。これが法学だと、原文に書かれてある「むかしの法令条目の枯葉を紙上に掻き寄せし」という表現(死んだ知識としての法学よりもエリス)が生きてくるんですがね。

 また、エリスの容色を捉えて鴎外はこのように書いています。

 「常ならず軽き、掌上の舞をもなしえつべき少女」

 エリス役はリザ・ウォルフという女優が演じているのですが、なかなか好演だとは思うんですが、さすがに「掌上の舞」のイメージはムリですねー。

 というより、先日私は芥川龍之介の『舞踏会』という小説を読んでいて、突然、これこそが「掌上の舞をもなしえつべき少女」だと思いました。
 それは、明治時代、鹿鳴館で行われた舞踏会にやって来たピエール・ロティが、日本少女と踊るという話ですが、彼が日本女性の人形のような美しさに感動するシーンを読んでいきなり気づいたのであります。
 「掌上の舞」とは、西洋人が日本の踊り子に対して用いるべき表現ですよねー。

 と、こんな細かな小説と映画の相違を挙げていけば切りがないのですが、私が本当に挙げたかったのは、これではありません。
 作品の世界観の根幹に関わる相違を見つけた(!)という話でありますが、……えー、次回に続きます。
 すみません。


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