心を新たに「消す」

   『楽は堂に満ちて』朝比奈隆(中公文庫)

 古い文庫本であります。例によって、大型古書店で見付けました。
 筆者の朝比奈隆氏も、亡くなってもう十年以上になるんですね。

 朝比奈氏の日本のクラシック音楽界における業績は偉大なものがあるのだろう位は、私も知っていながら、お気楽な一クラシック音楽ファンとしては、実はさほどすっごい演奏をなさる方とは思っていませんでした。

 これはとても不遜ではありますが、申し訳ないながら、あらゆる芸術の享受者の小さな「権利」でもあります。ベートーヴェンなんて眠いだけでちっともよくないよとは、誰でも言って良いのであります。

 で、さて、冒頭の文庫本でありますが、中にこんな文章がありました。
 『第九交響曲』と言うタイトルで、こんな書き出しで始まっています。

 「二つ目の消しゴムがもう半分になってしまった。」

 筆者が消しゴムで何を消しているかというと、ベートーヴェンの九番の指揮者用の楽譜なんですね。幾十年かけてそこに書き込んだ様々な書き込みを、自分で全部消しているのであります。

 「私は心を新たにして演奏するための準備にかかっている。」と書いてあります。そして続いてこんな風に書いてあります。

 そこには私にとって長い年月がある。行と行の間を埋めるように細々とした記号、追加された音などが書き込まれている。その一つ一つに私にとって生々しい記憶がある。多くの文献から、権威ある大家の先例から、そしてまた自分自身の骨を刻むような苦しい迷いから得たものすべてがそこにしるされていた。それはまたこの巨大な音楽の神秘な内陣へ何とかして到達しようと、必死にその周囲をさまよった歳月の記録でもあった。

 それを筆者はすべて消しているんですね。
 ……何と言いますか、これにはひたすら頭が下がります。
 なかなか出来ることではありません。

 冒頭に私はとても不遜な書き方をしたのですが、その理由とは別なところで、改めて筆者の凄さを感じることができました。

 あたかも、ゴールデンウィーク中であります。
 朝比奈隆のベートーヴェンとブルックナーを、久し振りに聴き直してみようと私は思ったのでありました。


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同時代曲としてのマーラーの交響曲(後半)

 『マーラーの交響曲』金聖響+玉木正之(講談社現代新書)

 この本には、例えばこんな事が書いてあります。

 (略)『交響曲第三番』の作曲は、オーストリアのザルツブルクの東方約50キロのところにあるアッター湖畔の村シュタインバッハに作曲小屋を建て、そこで夏の期間の作曲に没頭したようです。
 ここもオーストリア・アルプスを望む非常に風景の美しいところで、この地を訪ねてきたブルーノ・ワルターが、聳え立つ岩山の素晴らしさに見とれていると、マーラーが「そんなに眺めなくてもいい。あの風景は全部、僕が音楽にしたから」といったそうです。

 この『交響曲第三番』に関してマーラーが書き残したキイワードだけを、第1楽章から順に書き並べてみると、次のようになります。「牧神」「森」「岩山」「夏」→「草原」「花」→「夕暮れ」「獣」→「夜」「人間」→「朝」「鐘」「天使」→「愛」「神」……このような展開(発展)を、マーラー自身、「一種の進化論的展開」ともいっています。

 指揮者としてのマーラーは相当に厳格な完全主義者で、自分の思い通りの演奏をしてくれないオーケストラのメンバーに対しては情け容赦なく罵声を飛ばし、自分に反発する古参の演奏家の多くをクビにし、若い演奏家に入れ替えたことでオーケストラと対立した、ともいわれています。
 じっさいベートーヴェンの交響曲の練習で、「手を入れた楽譜」に一部のメンバーが猛反発したときなど、マーラーは、「そうして怒り続けていてくれたまえ。そうすれば、いい演奏になる」といってのけたこともあったそうで、そういう言い方や態度に反発を感じるメンバーが存在したことは確かだったようです。


 今、三個所から引用しましたが(今回の報告は引用だらけになりましたが)、本書はこんなエピソードがいっぱい詰まっている本で、そしてそこに描かれるマーラーの佇まいはとても現代人的であります。

 1860年に生まれ1911年に亡くなったマーラーは、日本の元号で言えば江戸時代の終盤万延元年に生まれて、大正の始まる前年の明治44年に亡くなったことになり、まるまるの明治人であります。

 明治人である連想からか、本書には、共著として名前のある玉木正之が、マーラーの同時代人として夏目漱石を挙げています。漱石の作品『こころ』に「明治の精神」という有名な表現があるのですが、その連想なのかも知れません。

 かつてマーラーを聴き始めた時、私は、なんだか作品のイメージがとても偏執的に感じられたのですが、その偏執的であることも、上記のエピソードに見られるようないかにも人間的な人物像も、みんなひっくるめて、同時代人としてのマーラー、同時代曲としてのマーラーの交響曲という見方考え方を、本書を読んで私はとみに強く思い、そして改めて親しく感じるのでありました。


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同時代曲としてのマーラーの交響曲(前半)

 『マーラーの交響曲』金聖響+玉木正之(講談社現代新書)

 この金聖響と玉木正之の「交響曲」シリーズは、同新書で現在3冊出ています。
 「ベートーヴェン」と「ロマン派」とでありますが、今回の「マーラー」も含めまして、どれもとっても面白い本です。(本書の最後の方に、次はハイドンとモーツァルトという台詞がありますから、きっとまだ次も出るんでしょうね。楽しみです。)

 やはり指揮者・金聖響の語りという、実際にタクトを振っている人にしか気付かないような事柄がたくさんと書かれているからだと思いますが、また、作品から想像できる作曲家の人柄なんかにも多く触れているのがとても面白いです。

 ……えー、わたくし、交響曲が好きでありましてー。
 まぁ、交響曲はクラシック音楽の華と言われていますから、どなたもきっとそうであろうとは思いますが、では一体どの作曲家の作品が一番好きかと申しますと、これがなかなか難しく、甲乙付けがたいのであります。

 とりあえず、ベートーヴェンのは別格でありましょう。これについてはきっと皆様も御納得いただけると思います。
 交響曲は好きだが、ベートーヴェンのは嫌いだって人は、ちょっと聞いたことがないですね。(ベートーヴェンのオペラが嫌いだという話は、一度聞いたことがありましたよ、又聞きですが。その女性の曰く、くそまじめで全然面白味のないいかにもベートーヴェンの書きそうなオペラということで、なんともぼろくそですが、まーちょっとはなるほどという気も、確かにしますね。もっとも、ベートーヴェンのオペラは一作しかないですが。)

 一応「べ氏」の交響曲を別格にしますと、私は割と長い間ブルックナーの交響曲がとても好きだったんですね。CDもベートーヴェンについで持っています。
 あの、音の洪水のような、また、一種の「宗教的恍惚」の感じられるような交響曲ですね。とても心が癒されるようであります。

 職場に、かつて同じくクラシック音楽を趣味とする方がいらっしゃったんですが、ブルックナーが好きだというと、マーラーは聴かないのかと訊ねられました。同じような質問をそういえば複数者からされたような記憶があります。

 全然私のこととは関係ないのですが、もう亡くなられて数年になるドイツの指揮者ギュンター・ヴァントの文章にも、あなたはブルックナーの「権威」だがマーラーは振らないのかと聞かれたという話がありました。
 
 ブルックナーとマーラーって、なんか、ちょっと見には似ている感じがあるんでしょうかね。
 でも、もちろん、違います。二人の作曲者の人柄や個性をいえば、もっと違っています。

 今回冒頭の本を読んで私は、マーラーという人物について多くのことを知ったのですが、そんなエピソードの幾つかをご報告しようと思いますが、……あ、あと次回に。
 どうも、すみません。


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クラシック音楽コンサートとは何か・後半

  『グレン・グールド――孤高のコンサート・ピアニスト』中川右介(朝日新書)

 上記の本の読書報告の後半であります。
 前回書いていたのは、グレン・グールドはコンサート・ピアニストを自らの意志でドロップ・アウトしたピアニストであり、コンサート活動にかなり嫌悪感を抱いていたと言うことを本書から読んだということでした。

 しかし私はそれを読んで、まぁグールドはちょっと「奇矯」な感じの方だからなぁと思ったのですが、さらにこんな表現を本書から見つけました。

 「前列左手ではご婦人がブレスレットをじゃらつかせ、右手では誰かがスコアを追いつつ(ただしページが間違っている)、プログラムで拍子を取っている(ただし狂っている)。後ろの席では、誰かが駐車場が確保できなかったらしく、そのことを隣の客にぶつぶつとこぼしている」

 これもコンサートに対する不愉快さを語った部分ですね。
 ただし、これはグールドの発言ではなくて、カラヤンの言葉だそうであります。
 もちろんカラヤンは、終生精力的にコンサート活動もしましたし、またこんな発言もあると書かれています。

 「音楽を愛する人たちとの直接的なふれあいをもたないとしたら、われわれの職業に、そして音楽に対するわれわれの不断の努力に、何の意味があろう」

 しかし私が考えたのは、やはり前者の方の発言でありまして、そもそも演奏者が聴衆に対してこのような感覚を抱くクラシック音楽のコンサート活動とは何なのか、ということであります。

 例えば、ポップスのコンサートの場合、演奏者はやはりこんな事を思うんでしょうか。本書にも、ビートルズがコンサート活動をやめたことについて触れてありますが、あれは今後一切行わないと言うのではなくて、事実ビートルズ解散後の4人は普通にコンサート活動をしていたようです。

 さらに例えば、お芝居なんかの場合はどうなんでしょうか。お芝居関係者は、上記のような感想を持つんでしょうか。
 持つような気もしますし、しかし持つとしても、もう少し自分たちの側を見つめ直すようなニュアンスのものが付着するように思うのですが、いかがでしょう。

 しかしこれが、例えば日本の古典芸能と呼ばれるものになったらどうでしょうか。
 なにか、かなり「やばい」感じがしますね。
 実際私もクラシック音楽のコンサートに行って、騒ぎこそしませんがうとうとしたことなど数えきれずありますし、うとうとしてはいけないと必死に我慢したことも多いです。

 そんな風にあれこれ考えていきますと、現代におけるクラシック音楽コンサートというものの位置取りが見えてくるように思います。
 それは、グールドが感じ、コンサート活動をドロップ・アウトした理由とは異なるものではありましょうが、現代においてはやはりかなり特殊なたたずまいであり、今更ながら私は、その未来に少々ネガティブなものを見るのでありました。


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クラシック音楽コンサートとは何か・前半

  『グレン・グールド――孤高のコンサート・ピアニスト』中川右介(朝日新書)

 グールドについて基礎知識をお持ちの方なら、この本のタイトルの副題の方を見て、ちょっとおやっ?と思われると思います。なぜなら、グールドは、コンサートを嫌い、音楽活動の半分くらいの時にコンサート活動をやめたからですね。グールドは、コンサート・ピアニストをやめたピアニストなんですね。

 本書のはしがきに、簡単なグールドの年譜があります。

  1932年 誕生
  1944年 一般の聴衆の前にデビュー
  1956年 レコードが大ヒット
  1964年 コンサートから引退
  1982年 死去

 こんな感じになっています。だからまぁ本書は、あえてみんなの逆を行く、というコンセプトの本であります。
 私は全体としてはとても楽しくこの本を読んだのですが、読んでいる途中、細かい部分について何度か、ふーむと考えることがありました。
 例えばこんな個所なんですが、これは、グールドが、同じくピアニストであるアルトゥール・ルービンシュタインと対談した時のやり取りだそうです。

 グールドが「二度とコンサートはやりませんよ」と断言すると、「君は本当に、聴衆が発する、あのきわめて特殊な気といったものを、ほんの一瞬でも感じたことがなかったのかい」と質問した。
 グールドはきっぱりと言った。「本当になかったのです。実際、聴衆がいるせいでいつも演奏がよくなかったんです。」


 ……どうですか。まぁもっとも、グールドはちょっと、というか、かなりかなり独創的な性格の方であったようですから(もちろん優れた芸術家は、そのほぼすべての方が「独創的な性格」と言えるような気もしますが)ごくごく特殊な意見なんだろうとは、普通は考えるんですけれど。

 ところが、別の個所にこんな事が書いてありました。

 「前列左手ではご婦人がブレスレットをじゃらつかせ、右手では誰かがスコアを追いつつ(ただしページが間違っている)、プログラムで拍子を取っている(ただし狂っている)。後ろの席では、誰かが駐車場が確保できなかったらしく、そのことを隣の客にぶつぶつとこぼしている」

 ……っと、いうところで、すみません。
 次回に続きます。


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人類の希望の姿

  『ベートーヴェンの生涯』山根銀二(岩波ジュニア新書)

 『ベートーヴェンの生涯』といえば、何といってもロマン・ロランの同名の作品が有名でありますね。私は確か大学生の時に読んだ気がします。そんなことをよく覚えているのは、同じくロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を一巻目でケツ割りしてしまって、その代わりにせめて『ベートーヴェンの生涯』くらいは読んでおこうという、今考えたらよく分かるような分からないような読書動機であります。

 さて、冒頭の「べ氏の生涯」ですが、ジュニア文庫ということで、とても読みやすかったです。考えれば「ベ氏の生涯」といった本は、わたくしは既に何種類か読んでいて、今回は内容の確認を改めてしたようなものですが、それでももちろん、新たな(忘れていた)発見はありました。それはベートーヴェンが、その人生のいろんな時期にこのように事を言っていた(手紙に残していた)ことです。

 苦しんでいる貧しい人たちに私の芸術をもって奉仕しようという熱意は、幼い子どもの頃からのものですが、それに反する妥協は決してしたことがありませんし、また、貧しい人たちに奉仕することにいつもつきまとう内心の満足感以外に、私は何物も求めはしませんでした。

 しかし、こういった音楽理解は、優れた音楽家はすべて持ち合わせているものなんでしょうか、それともベートーヴェン特有のものなんでしょうか。
 例えばモーツァルトなんかは、こんな事考えなかったような気もしますし(完璧なバイアスの掛かりようですかね)、一方で、芸術は突き詰めていけば必ずこの境地に到達するという気もします。

 ところで、太宰治は私のフェイヴァレットな小説家のひとりなんですが、彼の作品に『畜犬談』というとっても出来のいいお話があって、そこにこんな一節があります。

 「(略)芸術家は、もともと弱い者の味方だった筈なんだ。」私は、途中で考えて来たことをそのまま言ってみた。「弱者の友なんだ。芸術家にとって、これが出発で、また最高の目的なんだ。こんな単純なこと、僕は忘れていた。僕だけじゃない。みんなが、忘れているんだ。(略)」

 この部分はいわゆる太宰文学の「泣かせどころ」なのかも知れませんが、ベートーヴェンと異口同音に述べられる真摯な思いのほとばしりは、やはり偉大な芸術が共通項として持っている「人類の希望の姿」を示してくれているようでありませんか。

 この度「べ氏の生涯」を読んでいて、思いがけなく発見されたこの符帳の一致は、私にとって、とてもとても心温かくなるものでありました。


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いつもクラス委員に選ばれる少年のように

  『第九』中川右介(幻冬舎新書)

 サブタイトルに「ベートーヴェン最大の交響曲の神話」と書いてあります。
 それを加えてタイトルを読みますと、一応内容は分かるようになっていますね。
 ベートーヴェンが第九を作り出すに至る部分と、音楽は再現芸術ですから、それがその後の各時代に、どのようにして再現されていったかが書かれてあります。

 その結果何が分かったかといいますと、この作品に付いている様々な色合いは、結局のところなぜ付いたか分からないし、よく分析してみると、その「色合い」も、決して時代万人に共通理解のあるものではない、ということだそうです。

 そして、再三よく似たフレーズで書かれているのですが、第九の演奏は、この曲が我々に訴えてくる「人類への永遠のメッセージ」じみたものの対極の、混沌と混乱と困惑にまみれた場面でしばしば演奏された、とあります。(名演か否かは別です。例えば1951年のバイロイトで、フルトヴェングラーが振った第九のように。)

 ……うーん、これは優れた作品の持つ運命なのかも知れませんけれどねー。
 つまり、ひとつの演奏会、一続きの音楽祭、ある年度の音楽シーズンのなかで、「トリ」に演奏されるべき名曲だから、あるいは、歴史的シーンで必要にされてしまう名曲だから、我こそはボスであると考える複数の演奏者=指揮者が、どろどろとした権力争いの後に演奏をする、というわけですね。

 そんな風に考えると、ちょっとうんざりしてしまいますね。
 でも結局のところ、そんな旗振り役に選ばれてしまう曲って、ありそうです。クラスの中で、いつも委員長に選ばれてしまう性格みたいなものですかね。

 あれもねー、小学校からずーっとそうだったりすると、いい加減イヤになってくるでしょうねー。当人に取っては、必ずしも誇らしい評価とばかりもいっていられません。むしろ、「性格の悲喜劇」といった方がいいのかも知れません。
 (「性格の悲喜劇」というフレーズは、太宰治の『お伽草子』にありました。太宰って、こんな表現がとっても上手であります。)

 ところで本書に書いてあったのですが、第九を作曲したことで(演奏会の利益や出版料などで)、取りあえずベートーヴェンはいくらほどの収入を得たか?
 どれくらいだと思います?

 「4560フロリンに、フランス金貨40枚」

 ただ「フロリン」という貨幣単位を現在の「円」に換算して考えるのに、二説あるそうで、1フロリン→約2000円、あるいは約5000円だそうです。

 これって、二説でかなり違うんですけどー。
 大雑把に、一千万円か、三千万円ってところですか。
 ベートーヴェンが一年近くかけて作った作品ですけれども、さてこの額、どんなものなんでしょうねぇ……。


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グレン・グールドについてのごく個人的なこと

 『「草枕」変奏曲・夏目漱石とグレン・グールド』横田庄一郎(朔北社)

 バッハについての本を、何となく続けて読みました。
 読んでいると、カール・リヒターとグレン・グールドの名前は、バッハ作品の演奏史にどうしても外せない事がよく分かりますね。そこいら中にいっぱい出てきます。

 改めて言われるまでもなく、ピアニストならずとも例えば『ゴールドベルグ変奏曲』を今後演奏してみよう(CDにしてみよう)と思ったら、よかれ悪しかれ、グールドを一つの定点観測地にせざるを得ませんものね。(と、言うようなことも書いてありました。)
 まー、勿論、どちらの方もバッハにまつわる有名人でありますから。
 でも、リヒターのバッハ関係のお話は、今回は少しおいておきます。

 ごく個人的な話ですが、そもそも私がグレン・グールドの名前を初めて知ったのは、私がクラシック音楽鑑賞を趣味の大きな部分にする以前でした。
 グールドはデビューレコードの『ゴールドベルグ変奏曲』から、一躍センセーショナルに有名になったそうですが、私はそんなことはつゆ知らず(クラシック音楽鑑賞を主な趣味とはしておらず、また年齢的に言ってもリアルタイムでは知り得ず、後年、吉田秀和がこのレコードについて書いている一文を読みました)、30年くらい前に、村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』を読んだ時、そこにグールドの名前が出てきて、初めて知りました。(たぶん)

 ついでの話ですが、村上春樹の『風の歌を聴け』の中の、グールドの名前の出し方がまた、とってもおしゃれなんですね。主人公の男性は、レコード店で一気に3枚(!)のレコードを買うんですが、そのラインナップが、ビーチ・ボーイズとマイルス・デイビスと、そしてグレン・グールドであります。

 というわけで、冒頭の本について、以下簡単に読書報告をしてみます。
 今回いろいろ読んでいると、なるほどグールドは噂に違わず、とても面白そうな(エキセントリックな)人物ではありますが、特に本書の主題は、グールドが後半生、憑かれるように『草枕』を読んでいたというものであります。

 かなり読み込んでいたようで、ノートを取っていたり、そもそも日本語本も含めて4冊ほど『草枕』を持っていたそうです。
 グールドが死んだ後、彼のベッドルームの枕元には、『聖書』とならんで『草枕』があったと書かれてあります。

 彼は漱石の説く「非人情」にあこがれた、いや、「非人情」にあこがれたというより、単純に言えば『草枕』の主人公の画工の生き方に自分を重ね合わせていたようであります。
 彼の理解した『草枕』の画工がどんなものであったのか、今となれば少々疑問の残るところではありますが、でもこれだけでも、グールドという人物は、なかなか興味深そうではありますね、特に日本人にとって。

 しかし、この本のトータルな感想としては、少々ベースの所にグールド・ファンの感情が強すぎる気がしました。
 だから、とりあえず私も面白かったといえますが(私も同じようなものですから)、少し下世話に言えば、女性週刊誌的興味だといえないわけではありません。
 まぁ、そんな本です。私はとても楽しかったんですが……。


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執念深く作曲家の高い幸福度について

  『ロマン派の交響曲』金聖響+玉木正之(講談社現代新書)

 上記の本の読書報告の三回目になってしまいました。前々回の最後で、作曲家は年齢と共に作品の完成度が増してくるという本文中の個所について、これは作曲家にとってはとても幸福な特徴ではないかと取り上げました。
 そしてその「幸福な」特徴を、他の芸術と比較しながら述べようと思ったところまで書きました。

 しかし今回、いざ書こうと思った時に、私は比較の対象として、かなり見当違いなものを頭に浮かべていたんじゃないかと言うことに気づきました。
実は、私が音楽以外のジャンルの芸術家として頭に浮かべていたのは、画家の青木繁であり小説家の芥川龍之介だったんですね。
 で、この両者がなぜ「見当違い」なのかというと、それはつまり、芸術家としての「レベル」の問題とでもいうべきでありましょうか。

 前回私が例示した作曲家は、ブラームス、シューベルト、モーツァルト、ベートーヴェン、ブルックナーなどで、この面々といえば、人類が生み出したすべての作曲家の中で、時代と場所を遙かに振り切ったベストテンに含まれるような方々ばかりであります。

 一方青木繁は、日本では有名な画家であり『海の幸』という名作もあり(この作品を、私はベルリオーズの『幻想交響曲』に例えたかったのですが)、という方ですが、時代と場所を越えた世界史レベルの作曲家と比較するのは、いくら何でも少し無理があるのではないか、ということで、芥川龍之介についても、小説家としては青木繁以上に日本ではポピュラリティある方ではありながら、やはり同じようなものであろう、と。

 例えばベートーヴェンと比べるのなら、せめてゲーテあたりではないのかと思いついたのですが、時既に遅し。何より私は、ゲーテについては通り一遍の読書しかしておらず(読んだのは確か『ファウスト』『若きウェルテルの悩み』そして『ヘルマンとドロテーヤ』くらいでありましょうか)、比較すべき材料を持っていません。

 というわけで、何とも竜頭蛇尾なみっともない結びとなってしまいました。
 しかし、にもかかわらず、(執念深い)私は、作曲家の、画家や小説家に対する高い「幸福度」に執着いたしております。

 それはもはや、根拠を失った暴論でしかないかも知れませんが、なぜ私がそんなことを思うのかと言いますと、それは楽器技術の習得、特に極めて音楽性と拘わるピアノとヴァイオリン技術の習得の開始時期が幼年期から始まるものであり、遙かに個人の人格形成に先立っていると言うことを、今度は逆説的な根拠として取り上げたいのですが、いかがでしょう。

 そこにどんな理論性があるのかと問われれば、少々説明に困るのですが(戸惑ってずるずると長くなってしまいそうなのですが)、その一部を一言で述べますと、技術的側面の強い芸術は、それに携わっている期間の長短が作品の質と高い相関を持つ、とでも言えましょうか。
 いえ、この奇妙な理論も、十分な根拠を持たないものであるのは、わかりつつ……。


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幸福な彼等達

  『ロマン派の交響曲』金聖響+玉木正之(講談社現代新書)

 前々回の文章の続きであります。前々回、上記の本の読書報告をしていました。
 その時私が引用していたのは、こんな部分でした。

 ふつう作曲家というのは、年を経るとともに円熟した作品を残すものですが、感受性の強すぎた永遠の青年ベルリオーズは、青年時代の『幻想』をついに越えることができなかったようにも思えます。

 ここを読んで私は、「そーなんだー」と思ったと記しました。そしてさらに読んでいて、今度はこんな表現に出会いました。

 ベートーヴェンの存在と格闘して完成させた『第一番』、それが世間に受け入れられて大喜びして気分の赴くままに書いた『第二番』、そこから6年の間隔を置いてつくった『第三番』、最後の交響曲となった『第四番』と、すべての交響曲を連続して指揮してみると、そこにはあきらかに( A )の人間的成長、音楽的(作曲技法的)成長とともに、彼の人生というか、自分の人生に対する自問とか、死への諦念といったものが感じとれます。

 問一・文中の( A )に作曲家の名前を入れよ。

 ……って、思わず設問を付けてしまいました。こんな設問を付けるのが目的ではなかったのですが、でもこの設問はあまりに易しすぎましたよね。

 というわけでブラームスについての記述ですが、ここにも、作品(交響曲)と年齢の関係が書かれています。私はここでも、作曲家はそうなんだ、という感想を持ったのですが、いわれてみれば、なるほど、ほぼその通りですね。

 シューベルト、チャイコフスキー、ドヴォルザーク、などはみんな最後の交響曲作品がベストと評価されていますし、モーツァルトは最後の一作品とはいわないまでも終わりから三作をもって「三大交響曲」と言われています。

 ベートーヴェンは? ……これもたぶん9番をベストといって大過ないと思います。(金聖響氏は前作『ベートーヴェンの交響曲』の中で、音楽性で言えば完璧なのは5番と書いていたようですが。)
 ブルックナーは? ……これも8番か、ちょっと好みで5番辺りがベストでしょうか。9番は未完ですからやはり最終作品となります。
 マーラーは? ……うーん、これはちょっと私にはよく分からないですね。マーラーの場合は、なんか横に比較しにくい感じがします。

 というふうに挙げていくと、まさしく作曲家が年を経ると共に、作品の完成度が上がっているではありませんか。
 ……でもこれって、わたくし、少し考えてみたのですが、もしこのことが一定の規則性としてあるならば、芸術家としての作曲家とは、なんと「幸福な人々」ではないでしょうか。

 今私は、作曲家を「幸福な人々」と書きましたが、彼等のことをなぜそう言っていいのかは、他のジャンルの芸術家と比較してみれば明らかだとは思うのですが、……えー、次回、冒頭の書籍の読書報告から少し離れて、それをちょっと考えてみたいと思います。
 すみません。また、続きます。


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