トラック勝負のための「我慢」

   『ボクの町』乃南アサ(新潮文庫)

 仕事の関係の人で、元おまわりさんという人と知り合いになりまして、時々話をします。
 ある時読書の話になって、私はその時ほぼ読み終えたばかりだった高村薫の『マークスの山』の感想を言ったら、彼が持ち出してきた本がこれでした。
 で、折角元おまわりさんに推薦をいただいたので、読んでみました。

 面白かったですねー。
 こんな作品を「上質なエンターテイメント」というのじゃないでしょうか。

 いえ本当は、読み始めた時は、ダラダラとした展開と主人公の巡査見習い青年の私としてはもう一つ魅力を感じない性格設定で、それこそ直前に読んだ『マークスの山』のきちっきちっとした感じの書きぶりと大きく異なっていたこともあって、なんかだるいなーと感じながら読んでいました。

 重層的に物語が展開し始めるのが、全4章あるうちの3章の終盤あたりからでした。
 ということは、各章が120ページ位ずつありますから、340ページくらいまでは、まぁ、だるかったわけですね。(全部で510ページの文庫本です。)

 ……という風に書くと、なんだほとんどが面白くないんじゃないかと思われるかも知れませんが、……いえ、んー、やはりそうですね。4分の3くらいまでは、私としてはあまり面白くなかったです。

 でもね、一応私も何百冊かの本の読書経験がありまして、4分の3まで面白くない本なんて普通にあると思っているんですね。
 分かりやすい譬えでいえば、マラソン競技の鑑賞であります。
 あれは、スタートから41キロくらいまでのあまり面白くない部分をしっかり見ていないと、トラックに入ってからの展開がスリリングにならないんですよね。気持ちが入っていかない。

 マラソンの約42分の41が面白くないのに比べれば(いえ、プロが鑑賞すればもちろん41も十分興味深いのでしょうけれど)、4分の3が少々ダラダラしていても特に問題はありません。というより、そのダラダラは、作者にとっても読者にとっても、終盤のトラック勝負のための重要な意識的戦略的「我慢」なんですよね。

 というわけで、残りの4分の1になって、さてここからが、上手でしたねー。
 第3章の終盤から徐々に盛り上げていって、第4章始めに大きな事件を起こし、そして満を持したようにここから新しい登場人物を出してきました。

 ……えーっと、この「新しい登場人物」ですけれど、こんなに話もクライマックス近くになって新人物を出すのは、たぶんちょっと勇気のいることだと思います。
 荒唐無稽のご都合主義的展開になりかねません。
 私も読み終えて、この人物について、はたしてどうなんだろうと少し考えてみました。
 
 リアリティという意味では少し疑問も残りましょうが、私の感じたのは、そんな感覚を越えたエンターテイメントとしての物語運びのうまさでした。

 実は私は、筆者乃南アサの小説はかなり以前に一冊だけ読んで、そしてあまりよい印象を持たなかったんですね。
 でも今回は、よかったです。物語展開に乗っていけば、安心して読ませてくれる感じがしました。これは安定感のある文体も、ベテランらしくてよいせいでしょうね。

 そんな一冊を、元おまわりさんの知人に紹介されました。
 おまわりさんのビルドゥングスロマン(教養小説)です。
 そもそも教養小説が多く持つ瑞々しさも、もちろん本書(終盤4分の1)にたくさんあります。


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様々なる読書感想顛末

 『夜のピクニック』恩田陸(新潮文庫)

 よく知らないのですが、この作家は今わりと売れている方だと、あちこちで読んだような気がします。確か、直木賞も最近受賞なさったように記憶します。
 今回読んだこの作品も、新潮文庫にいつも付いているカバーの裏表紙の「宣伝文」によると「本屋大賞を受賞した永遠の青春小説」とあります。

 本屋大賞といえば、あの名作小川洋子の『博士の愛した数式』が受賞したものではありませんか。そして青春小説というのは、小説の持つ本来のエネルギーの源のことでありましょう。
 そこで、私も勇んで読んでみました。

 450ページほどもある長い話ですが、あっという間に読めました。
 読後直後感想、面白いと思いました。
 でも、高校生が主人公の小説なんて読んだのはいつ以来だろう、いや、そもそもそんな小説を私は今までに読んだことがあるのかしらと考えて、思いついたのは庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』でした。

 すると、するすると次に浮かんだのがサリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』だったので、ああ、高校生主人公小説にも名作はあるのだと気が付きました。

 と、そんな読後感をあれこれ考えていたちょうどその時、我が読書友達がわが家を尋ねてきまして、いきおい本作の話になりました。
 どう思う? と尋ねたのですが、うーん、何というか、まぁ、控えめに言ってもさほど高い評価を聞くことができませんでした。

 そもそも一つの作品にどんな感想を持つかは、読者のまったき自由であります。
 自分と意見が異なっても、普段はそんな読み方もあるのかと思い、むしろその多様性に感心したりするのですが、ちょっと今回は彼の評価が低すぎたので、別に私がそれをするべきだとは思いませんでしたが、少し「弁解」をしてみました。

 何といっても、作者はストーリーテラーだとは思わないかい。主人公の女子が隠していたと思っていた重大な家庭の事情を、友人がいきなりすっぱ抜く場面なんて実にスリリングな展開じゃないか。
 そもそもが夜を徹して80キロ歩くだけの話なんだから、ずっとそれを描写して飽きさせないのはなかなかの力業の構成力だろう。

 いや、だから、分析の拙さや感覚の鈍感さや発想の幼さは、高校生主人公の心理に寄り添っているからで、君が「ヘン」だという微妙にオリジナルな「三人称文体」も、実験小説めいた工夫のなせるものだよ、と。

 とまぁ、あれこれ言いあったのですが、これだけはうーんと唸って私も賛成の意を表したのが、昔の直木賞は(いえ、本作は直木賞受賞作ではありませんが)もっとどすんと心に来なかったか、という彼の主張でした。

 でも昔の何たらはもっとよかったなんて発想は、精神の老化、何の意味もないと思い直し、やはり私は本書をとても印象深く読んだと「総括」したのでありました。


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「歴史」と「歴史小説」の間で

    『漱石の妻』鳥越碧(講談社)

 まず、こういう小説は「歴史小説」というのですかね。
 わりと小説が好きで、まーまーの数の小説を読んでいるつもりですが、「歴史小説」には(そういえば「時代小説」というのもありますね。「歴史小説」と「時代小説」はまたどう違うのでしょうか)、さほど興味がないせいで、分からないことが幾つかあります。

 あ、そうだ。これは歴史小説と関係があるのか、まぁ、少しはかすっていると思うのですが、『小説・だれそれ』というタイトルの小説も、わたくしは意味が分かりません。

 そもそもそんな本がたくさんあるのかどうかもよく知らないのですが、今思い出した範囲で言うと『小説・永井荷風』という作品を、佐藤春夫が書いていたのじゃなかったかしら。でも私はそれも読んでないので、だから『小説・○○○○』という一連の作品群の「立ち位置」が分からないのかも知れませんが。

 ……えーっと、この件に深入りしてしまうとちょっと取り止めがなくなりそうなので、やめます。「歴史小説」に戻ります。「歴史」と「歴史小説」の違いについてです。

 とりあえず私が今のところわりと納得している「歴史」と「歴史小説」の違いは、
(1)「歴史」は事実を書く。
(2)「歴史小説」は事実と、事実かも知れないと推測できるものを書く。

 こんな感じでしょうか。一応納得できそうな感じはしますよね。でも具体的に当たっていくと「事実」と「事実かも知れないと推測できるもの」の差異は、限りなくグラデーションです。なかなかすぱっと割り切れるものではありません。

 さてこの度本書を読みながら、わたくしはこの定義めいたものの実践的な姿を考えていました。そして思い当たったのは、「説得力」ということでした。

 なぜ「説得力」なのかというと、「歴史小説」はむしろ事実であることを重視しない形のものだからです。その場での我々の興味の対象は、事実か否かではなくて、例え事実であっても説得力のない事実は小説内では認められないということです。

 なるほどねー。
 それは言い換えれば結局、「そーだよねー」とか「わかるわかる」が多くなければ小説は楽しめない、ということでありましょうか。なんだ、こうまとめてしまうと、ごく初歩的な小説論ではないかとも思いつつ、……では、本作を読んでいて、それはどうだったのか。

 いえ、とても面白かったです、本当に。
 ただ、上記にも触れました「説得力」が、どんな読者を対象としての「説得力」かということも考えると、そこに少々「ホームドラマ」重視的読者層が浮かび上がってくるようで、なるほどそうであったのか、(もちろんそれは作品のよしあしということではありません。想定すべき様々な読者層は、ほぼすべての出版物に存在するはずでありましょう。)ではそのように読めばよいのだな、と。

 ただ、「漱石の妻」を主人公に持って来るというのは、そこに作者の最大のオリジナリティがあるとはいえ、小説に仕上げるにはなかなか難しそうな感じがしました。

 だって、ここだけのこっそり私見ですが、わたくし漱石はフェイヴァレット作家ではありますが、そもそも彼は人間的に弱い部分もたくさん持っていた方のように思え、その一つの女性差別と学識教養差別は骨絡みであったように思います。
 ……でも一方で、そんな自分を客観的に見る眼も、漱石は持っていたようですが。


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しっかり書き込まれた金田一耕助デビュー作品

  『本陣殺人事件』横溝正史(角川文庫)

 横溝正史の金田一シリーズといえばもはや推理小説の古典になるんですよね、きっと。
 でも実は私は、推理小説についてはほとんど無教養状態であります。

 我が貧弱な読書遍歴を遡ってみますに、かつて私が厚顔の(美)少年だった頃、小学校の、今思い出せば結構小さくて蔵書もさほどなかった図書室で、ドリトル先生シリーズと一緒にルパンシリーズを借りて読んでいました。

 ルパンと並ぶホームズシリーズは、少し年長向けだったように思い出します。ホームズシリーズは今考えてもわかりますが、かなりルパンより知的ですよね。トリックが理詰めで大人向け的であります。

 しかし頭のアバウトな少年時の私には(今もアバウトな頭のままですが)、浪漫的で超人的でその分リアリティには少々欠けるルパンシリーズのほうがわくわくとおもしろかったんですね。

 その後私は大人になってから、ホームズシリーズを少しまとめて読みました。そして同時期に冒頭の金田一耕助シリーズも、こちらはかなりはまって読みました。当時の年賀状にそんなコメントを書いたのを覚えています。「これからは私のことを金田一中年と呼んでくれ」とかなんとか。

 さてそんな読書遍歴の、たぶん過去に2回は読んだ記憶のある本書です。
 本書は金田一耕助の記念すべきデビュー作だそうですが、そんなこともあってか、筆者がかなり気合を入れて書き込んでいるのを感じます。何を頑張って書き込んでいるかといえばトリックです。

 日本推理小説界に本格推理小説第一人者の呼び声高い横溝正史らしい、見事に人の意表を突く、かつ理詰めにきっちりと構成されたトリックです。

 で、……で、さて3回目本書を読んで、よくできた作品であるなーという感想は今回も獲得しましたが、それに加えてなんとなく私が感じたのは、本作品の「地味」さでありました。
 ……うーん、この地味さ加減はいったいどこから来るのでしょうか。

 わたくし少し考えたんですけれどね、でもそもそもが小学校当時からアバウトな造りの頭の上に、年をいたずらに重ねた結果様々な偏向がいっぱい掛かった考え方しかできなくなっているもので、……まー、そんな頭で考えたのですが、よーするに不自然さなんですね。

 不自然さ具合とは何かというと、犯罪動機の不自然さです。
 誤解を恐れずに言いますと、いかに本格推理小説第一人者の横溝作品とはいえ、やはり少なくない作品に動機の不自然さが感じられます。それはまー、仕方がないともいえるところで、でも優れた横溝作品にはその不自然さをものともしないエネルギーがあるんですね。

 それは、これもさらに誤解を恐れずに重ねて書きますと、不自然な犯罪動機にまるで無茶ぶりのような愛嬌が見えるところであります。
 それは呪いであったり怨念であったり血筋であったりそして伝説であったり、というこの無茶ぶりさこそが実は横溝推理作品の(そして金田一耕助の)愛嬌であり、最大の魅力の一つであると、私はそう思っているのであります。

 いえ、人は本当に、様々な愛する理由を考えるものですねー。


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学びなおしの文学理論へ

 『超入門! 現代文学理論講座』亀井秀雄・蓼沼正美(ちくまプリマー新書)

 わたくしいよいよ人生の黄昏を間近に迎え、この度よく言われるところの「学びなおし」を考えたのであります。
 そして、さて何を学びなおせばいいのかと考えまして、少々迷いもしましたがやはり一番好きな学問は文学かな、と思い至りました。

 今「人生の黄昏」と書きましたが、実際のところあれこれ煩わしいこともまだありまして、もう少しの間は結構忙しい、と。
 しかし、その日々の終了を待ってからというのではちょっと遅いのではないかという気もありまして、そうだ予習をしようと思い立ったのであります。

 実はわたくし、結構予習の好きなタイプなんですね。
 いえ、学生時代の頃の勉強については、まったくそうではありませんでした。
 おそらく多くの方々と同様に、予習復習なんて大嫌い学生でした。

 予習が好きなのは、趣味の活動についてなんですね。
 例えば、今度コンサートでブルックナーの交響曲を聴きに行くとなりますと、朝比奈隆のCDを先に聴いてみるとか、モディリアーニ展に行く前にちょっとネットで調べてみるとかであります。

 文庫本を買う時に、解説を先に読む方がいらっしゃると思いますが、わたくしもそのタイプでして、これはまぁ、言ってみれば「予習」をしているわけですね。
 だから、予習好きな方は本当は世間には結構いらっしゃるはずだ、と。

 ということで、この度わたくしは何冊かの文学理論の本を読んでみました。
 思い返せば、文学理論なんて大学時代にも誰にも教えてもらわなかったような気がします。あるいは積極的に学べば、その時代にも学べたのかもしれませんが、いかんせんその頃は「予習復習大嫌い学生」でしたので、うーん、無駄な日々を送っていたものですなー。(そして、現在においても多分同様。)

 だから、当面は極めて極めて初心者用の本をチョイスしようということで、とりあえず本屋さんの棚で眼についた冒頭の本書を選んだわけです。

 本書に書かれている「文学理論」はとりあえず4つでありまして、

 「ロシア・フォルマリズム」「言語行為論」「読書行為論」「昔話形態学」

 と、順に説明されているのですが、細かい部分は置いて一言で言いますと、作品の表現を可能な限り作者から独立させて、作者を外したところで様々なもの(社会情勢とか先行するあるいは同時代の文学作品とか心理学とか)と比較しながら読んでいこうというものです。(たぶん。)

 なるほどねぇ。確かにこうしたほうが学問ぽくはなりそうな気がしますね。
 作品理解について作者の考えこそを最重要要素としてしまうと、特に現存の作者の作品については、何を論じても作者の鶴の一声で決定してしまい、学問的客観性がもたない気がします。

 という「文学理論」の本でした。
 「超入門」ですから。
 これから、おいおい、難解なものに……。(「難解」は、たぶん、ないな。頭がもちません。)

 最後に少しだけ別のことをいいますと、私が本書を選択したのは前書きに中島敦の名作『山月記』について、あっと思うような読みが書かれていたからでもあります。
 しかしこれについては、説明が少々煩瑣になりそうなので控えておきます。
 でも、本当にあっと思うような読み方だったんですよ。


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あの事件から、もうすぐ半世紀になるんですねぇ……

   『木橋』永山則夫(河出文庫)

 永山則夫ってのは、例の永山則夫ですね。1968年、四件の連続ピストル射殺事件の永山です。
 ……うーん、事件からもうすぐ半世紀になろうとしているんですねぇ。
 1997年に東京拘置所で永山の死刑が執行されてからでも、もうすぐ20年なんですものねぇ。

 えーっと、わたくし、何となくこの作者には興味がありまして、今となってはほぼ昔になりますが、かつて同作者の『無知の涙』とか『人民を忘れたカナリアたち』とか、はたまた確か佐木隆三だったと思いますが、永山の事件のドキュメントなんかを読んでいます。
 今回は、ブック・オフ108円本ではありますが、なかなか興味深く読めました。

 とはいえ、この小説集を純粋に文学作品としてのみ読むことは、まー不可能でしょう。殺人犯作者の作品という予備知識を外すことはできません。でもそう言った思いで読むと、それはそれでまた興味深いものがあります。
 それは、かつて誰の文章で読んだ言い回しか、よくわからないんですが、こんな趣旨の言葉。
 
 「子供が15歳になるまで社会がその子を守ってやらなければ、その次には、その子から社会を守らねばならなくなる。」

 この言い回しの意味するものが、永山の生い立ちを読んでいるとそのまま描かれていることがわかります。
 永山少年が、徹底的に社会から保護されることのない少年期を送っていたことが、これらの作品から痛々しいほど読みとれます。全く、一人の人間をスポイルすることは、ひょっとしたらぞっとするほど簡単なことなのかも知れません。

 そんな人間としての尊厳を徹底的に認められなかった少年の記録は、或る意味、永山則夫のような存在にしか書けない部分が確かにあると思われ、いろいろと異論はあるとは思いますが、永山の死刑執行にはやはり「惜しい」ものがあったという思いを、この度の読書で改めて確認しました。

 1983年、本短編集の総題になっている小説『木橋』で、永山則夫は第19回新日本文学賞を受賞しています。
 そんな本でした。なかなか面白かったです。




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自殺者を生み続けるシステム

  『幽霊人命救助隊』高野和明(文春文庫)

 知人に勧められて、上記の小説を読んでみました。
 こういう小説のジャンルって、何というんでしょうかね。裏表紙に書かれてある宣伝文(と言うんでしょうか)には、「傑作エンタテインメント」とあります。
 ただ、私のイメージの「エンタテインメント」とはちょっと感じが違います。
 かなりバイアスの掛かった言い方ですが、ずっと真面目な、かつ地味な小説という感じがしました。

 お話は、ほぼタイトルの意味するままに、自殺して亡くなった4人の男女の幽霊が、「神」に命じられて、これから自殺を企てる人々のレスキューをするという話で、なるほどこんな風にまとめてみると、「エンタテインメント」という感じはしますよね。

 結構長い小説です。文庫本で600ページほどもあります。
 しかし、想像するようなアクションもアドベンチャーもあまりありません。(読めば分かるのですが、自殺企図者を救助する方法が、考えようによってはとってもコメディアスな方法なんですね。)
 彼らは多くの自殺者を救助していく過程で、畢竟人はなぜ自殺をするかという原因究明に乗り出して行かざるを得ず、そしてそれが、私が上記に書いた「真面目」「地味」に繋がっていきます。

 つまり、現代日本人が自殺する原因というのは、当然ながら、現代日本国家の持つもっとも先鋭的かつラディカルな社会の歪みの現れであるわけです。

 自殺実行の最後の引き金は、ほぼ100%そこに「鬱状態」があるものの、至るプロセスは千差万別であり、しかしまた、きわめて類型的とも言えます。
 その共通項をおおざっぱにいえば、「ストレス」と「お金」であり、それを抱え込む側(自殺企図者)に共通する性癖は「勤勉・真面目」であります。

 ただここまでの解説なら、マスコミなどですでに幾度となくコメントされている内容でありましょう。
 しかし本書は、長いお話の終盤あたりから、「お金」を巡る自殺企図者の原因を追求していく中で、日本という国の経済のあり方そのものが、たえず自殺者を生産し続ける原因となっていると言うことを、実際の資料を話に組み込んでいきながら、明快かつきわめて高い説得力で述べていきます。このあたりは、実に圧巻でありました。

 それは説かれてみれば当たり前とも思えることで、年間三万人もの人々が多年にわたって自殺し続ける原因が、個人の責任や資質だけに求められてよいわけがありません。
 「日本人は真面目で勤勉だから」などの言い回しの後ろに隠れている国家体制の暗部の存在と、浅薄なマスコミなどの知識だけに踊らされてはいけないということを知ることが、本書を読んでの、私の第一の感想でありました。

 ねっ。けっこう真面目な本でしょ。


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三島由紀夫の天才性について

 永いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言い張っていた。それを言い出すたびに大人たちは笑い、しまいには自分がからかわれているのかと思って、この蒼ざめた子供らしくない子供の顔を、かるい憎しみの色さした目つきで眺めた。それがたまたま馴染みの浅い客の前で言い出されたりすると、白痴と思われかねないことを心配した祖母は険のある声でさえぎって、むこうへ行って遊んでおいでと言った。

 上記の文は、三島由紀夫の『仮面の告白』の冒頭であります。
 とっても有名な書き出しで、なぜ有名な書き出しかというと、さすが三島由紀夫くらいの天才になると、書かれているとおり、やはり生まれた時から人とは違っているんだなー、生まれた時の記憶があるくらいだから、とみんなに思わしめるような記述であるからであります。(まー、それほど単純でもないでしょうが。)

 しかし少し前ですか、私はネットで、母親のお腹の中にいた時の自分の状態や、聞こえた音や声、周囲の状況などを覚えているという人は、結構たくさんいるという記事を読みました。

 記事によりますと、こうした「胎内記憶」を持つ日本人は、成人では1%程度、未成年では7%程度、幼児になるとその数字は跳ね上がるとあります。

 長野県の保育園児へのアンケート結果によると、胎内記憶があった園児は33%、生まれ出た時の「誕生記憶」のある園児は20%いまして、さらにそのうち、自ら「記憶」を語ったのは9%、残りの大部分はこちらから聞いたら答えたというケースだったという、なかなか興味深いものであります。

 しかし、えー、とすると、何ですか、生まれた時の記憶があるというのは、さほど珍しいものでも何ともないと言うことですかね。
 うーん、困ったものですねー。(別に困りませんか。)

 三島由紀夫の天才性の「証拠」が一つ減っちゃったような気がして、……いえ私は別に三島由紀夫の小説のファンと言うほどのものではないんですが、なんとなく自分が若い時に凄いなーと思っていた人は、やはりいつまでも凄いままでいて欲しいという、ちょっとしたノスタルジアゆえであります。

 ただ、冒頭の文の少し後に描かれる表現は、さすがに三島由紀夫らしいとっても明晰な描写であります。

 が、私には一箇所だけありありと自分の目で見たとしか思われないところがあった。産湯を使わされた盥のふちのところである。下したての爽やかな木肌の盥で、内がわから見ていると、ふちのところにほんのりと光がさしていた。そこのところだけ木肌がまばゆく、黄金でできているようにみえた。ゆらゆらとそこまで水の舌先が舐めるかとみえて届かなかった。しかしそのふちの下のところの水は、反射のためか、それともそこへも光りがさし入っていたのか、なごやかに照り映えて、小さな光る波同士がたえず鉢合せをしているようにみえた。

 どうです、目の前に見えるが如くとっても上手に書いてありますよねー。
 なるほど、当たり前ながら、彼の天才性は「誕生記憶」故のものではなく、この抜群の筆力故のものでありました。

 一方、上記のネットの記事によりますと、「おなかの中のことを覚えている」と答えた幼児の見た色は、「赤だった」というのが一番多いそうです。


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思いがけないタフなファンタジー

  『星の王子さま』サン=テグジュペリ(新潮文庫)

 確かむかーし、この本を女の子の誕生日プレゼントに送ったような覚えがあるんですがー、錯覚かしら。

 「ラ・プチ・プランス」。
 「プチ」は「小さい」。「プチ家出」なんかの「プチ」ですね。「ペチコート」なんかの「ペチ」でもあります。ついでに、日本で最も有名な汎用的犬の名前「ポチ」も、この「プチ」が語源とされています。

 エンジンの故障でサハラ砂漠に不時着した飛行士が一人で絶望していると、子供に声をかけられます。
 それが星の王子さまで、王子と羊とバラだけが住んでいる小さな小さな星からやってきたんですね。6つのヘンな星を巡る話が前半で、後半は地球で、ヘビ、きつね、そして遭難した飛行士と友達になるという話であります。

 かつて私が読んでいたのは岩波書店から出ていた内藤濯・訳のでした。
 数年前に日本での翻訳出版権が切れて、一気にどっと新訳が出ました。上記の新潮文庫版もその一つであります。

 むかーし、私がこの本をガール・フレンド(だったと思いますが、違っているかも。ガールフレンドになって欲しいな欲しいな女の子、だったかも知れません。)にあげた時は、私はこの本をどう理解していたのでしょうねー。

 この度読み直してみると、何といいますか、叙情の後ろにひどくペシミスティックなものを感じるんですがねー。
 もっともそれは、そもそも人生がそうであるからだと言えば、その通りではありますけれども。

 なるほど、そう考えると、このお話は割とタフなファンタジーだなと言う気がしますね。ひょっとしたら、ちょっと軟弱かつあっさり系のメイドインジャパン・ファンタジーとは一線を画するような。

 ともあれ、人生の長距離走の折り返しを既に過ぎて少々久しくなった今回の再読では、昔のなーんにも考えていなかった私よりは、おそらく筆者サン=テグジュペリよりの理解ができたと思います。

 そして今なら、ひょっとしたら、好きな女の子にはこの本は、プレゼントしないかな?
 ……いや、それはまた、別の話かも、知れませんが。

 (そう言えば、これも今は昔。付き合っていた女の子に、太宰治の『お伽草子』の「浦島さん」を薦めたら、それを読んだ彼女から「別れましょう」と言われたこともありました。きっと、私の性格的な問題のせいだとは思いますが。)


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「恋愛小説」ナンバーワンとは

  『夜は短し、歩けよ乙女』森見登美彦(角川書店)

 少し長く夏休みを取りましたら、結構ヒマになりまして、久し振りに近所の図書館に行ってきました。
 クーラーの利いた館内で、ぶらぶらといろんな本を見ていたのですが(落ち着いて「本を読んで」はいません)、以前知り合いの女性から薦められた覚えのある本がありまして、それで借りて帰ったのが冒頭の本であります。

 「オビ」には、

  ・面白い!なんて面白いんだ!(松田哲夫・編集者)
  ・大傑作。文句なしに今年の恋愛小説ナンバーワン(大森望・文芸評論家)
  ・大変愛らしゅうございますの。(豊崎由美・書評家)


と書いてあるのですが、まず編集者がオビのコピーを書くってのが、私にはよくわかりません。この編集者は、なんか有名な方なんでしょうか。
 後のお二人は、少し前に流行った(そして最近また、そのシリーズ本を出版なさった)『文学賞メッタ斬り』の人ですね。

 で、読んで、どう思ったかというと、まーそれなりに感じるところなきにしもあらずなんですが、例えば稲垣足穂の文体模写のような書きぶりは、なかなか才人だなと思ったりもいたしました。
 しかし、これをもって「今年の恋愛小説ナンバーワン」と言い切るコピー(もっともコピーはもとより宣伝ですが)には少し首を傾げましたが、どんなものなんでしょうね。

 で、今度は、この作品よりの立場に立って考え直してみますと、そもそも私が「恋愛小説」の秀作として頭に浮かべるのは、例えば谷崎潤一郎の『春琴抄』であり、例えば漱石の一連の「三角関係」小説であり、比較的近いところでも、水村美苗の『本格小説』であったりと、そんな小説などであるわけですね。
 で、そんな歴史上の名作や傑作と比べて判断するのは、そんな比較をするヤツの方が悪いとの指摘を受ければ、なるほどその通りでございますと思わざるを得ません。

 と、そんなわけで、私にはこの作品を批評する資格があまり無いことが分かりました。

 いえ、そう考えてみますと、上記にも触れた足穂の『一千一秒物語』を彷彿とさせるパスティーシュと作品舞台は、我が青春の「京都」をやはり懐かしく思い出させてくれるものであるなと、わたくしは、改めて思い直したのでありました。


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