教科書作りもなかなか大変だ(後編)

  『国語教科書の闇』川島幸希(新潮新書)

 さて、後編です。
 前回は、なぜ定番教材がよくないのかということについて触れていました。本書はなかなか説得力のある展開でした。
 本書紹介の次に進む前に、もう少しだけ補足をしてみます。

 そもそも定番教材の一等賞は何かといえば、芥川龍之介の『羅生門』だそうで、これは高校一年生が使う国語教科書九社二十三冊すべてに掲載されているそうです。(参考までに第2位は太宰治の『富岳百景』十一冊。)

 ……うーん、やっぱりこれはあかんやろー。あんたらほんまにちゃんと考えてんのかーと思わず呟きます。「闇」といわれても仕方なかろうという気がしますよね。

 その弊害については前回に簡単にまとめましたが、それ以外にも『羅生門』が定番として掲載されているせいで、他の芥川作品が取り上げられないという指摘もありました。
 なるほど、これは少しまずいですよね。つまり芥川の珠玉の短編『蜜柑』は、教科書に載らないということですよね。(『羅生門』なんかより遙かにこっちの方がいいと私は思うんですが。)

 そこで話しは、いよいよなぜ定番教材ができたのかに進んでいきます。
 しかし、これもなかなか複雑そうで(「都市伝説」なんかが出てきたりもしてます)、かつ即物的に結論だけを述べますと、それはまた少し実も蓋もなくなっています。(ぶっちゃけていいますと教科書会社の都合ということですか。ただし、教科書作りというのは、我々素人が与り知らぬ大変さがあることも本書では補足してあります。)

 最後に一つだけ、定番教材成立史の中に興味深い分析があったので触れておきます。
 前回に定番教材は「暗い」と指摘した件ですが、高校生に相応しいかよく分からないような暗さが定番教材にあることについて、「生者の罪障感」という説明をしています。(このオリジナルは本書の筆者ではありませんが。)

 まず定番教材が生まれ始めたのは第二次大戦後であることを述べて、以下、このように続きます。

 戦争を体験して自ら「敗戦後の罪障感」を抱えた教科書編纂者が、「生者の罪障感」をモチーフとした『羅生門』『こころ』『舞姫』の三作を採録し、同じ思いを共有した国語教師の支持の下で定番化の道を歩んだ(略)。

 実はこの説にも反対意見があるらしいのですが、いえ、私としては、なかなかロマンティックな説だなぁと、ひとしきり感心をしました。
 なかなか面白かったです。


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教科書作りもなかなか大変だ(前編)

  『国語教科書の闇』川島幸希(新潮新書)

 この本も、最近のわたくしのマイブーム、図書館で借りてきた本です。(本当に図書館って便利ですね。)
 前書き(「はじめに」)を図書館で立ち読みしていたら、こんなことが書いてありました。

 ある大学の近代文学専攻の学生十二人に尋ねたところ、『羅生門』『こころ』は全員読んだことがあるが、芥川の『地獄変』は二人、『河童』は一人、漱石『三四郎』も一人、『明暗』はゼロだった。そしてこれはどこの国文学科でも同じような現状である、と。

 これを読んで私は、まー、一応、若者の読書離れという月並みな感想を持ったのですが(そして面白そうだから図書館から借りるに至ったのですが)、本書は、なぜ『羅生門』と『こころ』だけが全員読んでいるかという点に着目し、高校国語教科書の「定番教材」というテーマに発展していきます。

 そもそも「定番教材」とは何かといいますと、簡単に言えばほとんどの教科書に載っている小説作品のことで、代表的なものを高校の学年ごとに言いますと(これ以外にもありますが)、一年生が『羅生門』、二年生が『こころ』、そして三年生が『舞姫』となるそうです。なるほど、確か私もそんな感じで習ったように思います。

 ……で、これのどこがよくないの? 「闇」なの? と思って読んでいくと、これがなかなかよくないことであるようです。
 これについては、かなり丁寧な分析がされていますが、大筋をはしょって私の印象に残ったところだけでまとめますと、
  (1)定番化されることで教師が教材そのものをよく考えなくなる
  (2)定番化教材はそのほとんどが「暗い」
  (3)定番小説作家のイメージが固定化する

 ……というあたりですかね。なるほど、言われてみればその通りだなと思います。
 何にしてもワンパターンになってしまうと進歩がありませんし、上記の定番教材で描かれているのは強盗と自殺と後、『舞姫』は女性に対する酷い扱い(出世を取るか恋愛を取るか)であって、本当に高校生に相応しい作品なのか疑問ですよね。
 また、『舞姫』を読んだことで、森鴎外が大嫌いになったという話も聞いたことがあるような気がします。やっぱり、「闇」、ですかね。

 ……えっと、この読書紹介、もう一回続きます。すみません。


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「女の子を殺す」って?

 『女の子を殺さないために』川田宇一郎(講談社)

 なかなかショッキングなタイトルですね。
 一体どんなことが書いてあるんだろうと興味深く思いますね。
 でも少し考えれば、かなり想像がつきそうです。そしてその想像は、きっと当たっています。
 タイトルの意味の説明じみた文章は本文内に点在しているのですが、例えばこんな風に書いてあります。

 (片山恭一『世界の中心で、愛をさけぶ』に触れて)基本的に恋人の女の子が死んで「ぼく」が泣き崩れる、涙を売りにすれば簡単にベストセラーになる典型

 やはりそういうことでしたか。
 と、思って読み出すのですが、なかなか面白い展開が続きます。
 例えば恋人の女の子が死ぬに至る前に、もう一つのポイントがあるそうです。わかりますか?。

 それは、死ぬ前にその女の子と性的関係を持つかどうかということで、持っていないうちは基本的には女の子は死なない、と。
 なるほど言われてみればこれも何となく分かりますね。性的な関係というのは、まー、恋愛物語においては一つの山場(少なくとも中盤のクライマックス)で、それを過ぎてしまえば恋愛物語は、その物語が「純愛・熱愛」系であるほど後は「殺す」しかない、と。

 ただ、この性的関係を結ぶまでの展開についてもわりとバラエティーがあって、みんながみんな性的関係を目指して一心に頑張るばかりではないそうです。目指さない典型を、筆者は庄司薫の「薫君シリーズ」だと言っています。

 なるほどねぇ。確かに「薫君シリーズ」は、「女の子にも負けず、ゲバルトにも負けず」がキャッチフレーズでしたものね。
 そしてこの、女の子と性的関係を結ばないために頑張るという展開は、実はかなり広く読者に共感を生む心情であると分析してあります。「薫君」以外にも例えば『伊豆の踊子』もそうだし、フーテンの寅さんなんて典型的にそうだと触れてあり、納得というよりは、その着眼がなかなか興味深くあります。

 という風に始めの方は書かれてあるのですが、途中からなんだかよく分からなくなっていきます。
 もちろんそれは、わたくしめに文章読解力がないことがその主たる原因なんでしょうが、例えば、男の子は逃走する、女の子は下降するなんて表現があったりすると、読んでいてあたかも現代思想じみた論理展開で、「ああだからこうだよね」と押しつけられその時は確かにそんな気はしながらも後で見直してみると、言われた部分の論理性はともかく、全体としては論理ばかりがひたすら先走って中身はスカスカみたいな気がするんですね、わたくしとしては。

 というような本でした。後半よくわかんなかったです。
 でも前半は面白いところもいっぱいありました。
 例えば、村上春樹の『風の歌を聴け』に出てくるハートフィールドという作家は庄司薫のことであると、両者の細かな対照が書いてありました。面白かったです。


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フェイヴァレット関川作品について

 『昭和三十年代演習』関川夏央(岩波書店)

 なんか少し変な感じの構成の本です。
 タイトルに「演習」と書いてありますが、どこかの大学での講義をもとにしたものでもなさそうでありながら、時々、そんな講義のやり取りめいた場面が出てきます。
 最後の「あとがき」のような文章になって初めてわかるのですが、本書で講義めかして語っている聴衆は、出版元岩波書店の数名の編集者であるようです。
 本当にそうしていたのかどうかはともかく、そんなスタイルを取っています。こんな書き方があるんですねぇ。
 しかし、これって、一体何のためにそうするのでしょうか。

 と、そんなことから書き出したのは、このちょっとした「違和感」について、構成だけでなく内容についても気になることがあることを、私は読みながら感じていたからです。

 本書の筆者について、私はかねてより個人的にとても信頼の置ける作家と思ってきました。そう感じながら幾冊かの本を読んできました。特に文芸評論のような著書の場合は強くそう思ってきました。
 しかし本書を読みながら少しずつ思い出してきたのは、かつて私がこの筆者の作品を読み始めた頃は、さほど好きな作家ではないなと感じつつ読んでいたということでした。

 私が本書から感じたものは、本書には昭和三十年代の様々な社会事象が取り上げられていますが、あるタイプの社会事象並びに思想に対してだけ、正面からの批評ではなくてシニカルに侮蔑の表情を向けるニュアンスが感じられたことです。
 (少しだけ補足します。そもそも近過去を現在から振り返ると多くの事象にいわゆる「欠点」があるものですが、私が気になったのは、ある事象には「その時点ではやむなし」言動があるのに、ある種のものにはそれがないという事です。)

 それは、この筆者の作品を読み始めた頃の私には強く感じられた事でありました。でもそのことをなぜかすっかり忘れていて、本著者のことをずっと「フェイヴァレット」だと思いこんでいたのでした。
 しかしなぜ私がそうであったのかという事も、合わせて気づきました。

 それは例えば、昭和三十年代松本清張の作品がとても売れたことをこんな風に書いている部分。

 彼の書く現代小説だけではなく、その時代小説もいわゆる「社会派」に分類されるのでしょうが、どうもピンとこなかった。松本清張作品がどこか救いがたく暗いことも気になりました。それは彼が登場した時代、雑駁で、矛盾をはらんでいるけれど、総体としては明るいと印象される昭和三十年代という時代のセンスにそぐわないのです。
 松本清張作品の特徴は、現代小説にしろ時代小説にしろ、「他責的」であることだと思います。


 ……いかがでしょう。
 私がかつて角川文庫の「ある『小倉日記』伝」に収録されたいくつかの短編小説を読んだ時、強烈に感じながら言葉にしきれなかった感情が、本文章に「他責的」の一語で見事に表現されています。

 こんな惚れ惚れするようなアクロバティックな論評が、私にとって関川夏央作品の最大の魅力でした。
 そしてそれは、本書を読んで改めて筆者についていろいろと考えた今でも、やはり変わっていない私の感じ方でもありました。


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『こころ』のタイトルを読み替える

  『夏目漱石、読んじゃえば?』奥泉光(河出書房新社)

 わたくし、本書を図書館で見つけたんですが、どうも少年少女用の書籍であるようです。
 いえ、本当はその事は分かっていました。だって、そんな少年少女用の書棚から見つけたんですから。(それに本書の中表紙の上の方に「14歳の世渡り術」と、たぶんシリーズ名でしょう、書いてありましたし。)

 というわけで読みましたが、さすがにとても読みやすかったのと、特に『こころ』の解説でしたが、目から鱗が落ちるように衝撃的に内容理解ができたように思いました。
 その、私が衝撃的に『こころ』が理解できたと感じた説明表現は、この一文です。

 『こころ』というタイトルは「こころが読めない」という意味なんだよ。

 どうですか。そんなの『こころ』について極めて常識的な説明じゃないかとお思いの方もいらっしゃるでしょうが、例えば『こころ』というタイトルをすべて『こころが読めない』に置き換えた上で読書していくとイメージすると、なんだか物語の奥の奥まで見通しよく読めていくように感じるのは、私だけでしょうか。

 主人公「先生」の言動、それは理解できないとはいわないものの、もっと別の言い方仕方があるんじゃないかと、いいいーっとなるような感覚と共に読み進めていたものが、ああ、「先生」はまたここでも目の前の人物のこころが読めなかったんだと、とてもするりと私の中に入ってきた感じがしました。

 また、こんな風にも説明してありました。
 そもそも人間とは、何を考えているか分からない他人と一緒に生きていかねばならない存在で、人に認められたいとか愛されたい(逆の認めたい、愛したいも)という欲求を満たすためには、あたかも暗い崖から飛び降りるような決死の勇気を持って臨まねばならない、と。
 そして『こころ』とは、その崖を飛ぶことに失敗した人の話です、と。

 実は漱石の小説は、晩年の深刻さがどんどん表面に現れてくるものだけでなく、『猫』や『坊ちゃん』の時からそんなコミュニケーション障害の、そしてそれが主人公の孤独を加速させていくという話ばかりだとの指摘もあります。

 『猫』や『坊ちゃん』の寂しさは、確かに二度三度と読めばじわじわと感じてくるものであり、その正体が「コミュ障」であるというのは、なるほど大いに納得できるものでありました。

 しかし、漱石自身は実際は「コミュ障」だったのでしょうか。
 そんなはずはないだろうとも思いますし、いや、やはりそう言えるかもしれない(特に奥さんとの関係において)という気もしますね。


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多様性がいかに大切か

  『人間にとって寿命とはなにか』本川達雄(角川新書)

 えー、名作『ゾウの時間 ネズミの時間』の作者です。私も読んでたいそう感心、啓発されました。でも本書はちょっとそうでもなかったです。内容がちょっとばらばらな感じがしました。
 それについては筆者自身後書きに書いていますが、もともと5本の講演録をまとめたものである、と。じゃあ、まぁ、ちょっとやむなしかな、と。

 しかし興味深い話題はたくさん入っています。
 筆者の元々の研究対象であったナマコの話しはもちろん面白かったですが、例えば、「ムシ」と「息子」「娘」は関連言語であるとか(本当かなー、と少し私は疑っているのですが)、そんなこんながいっぱい書かれてある中で、特に前半部の大きなテーマは「多様性」という言葉だったように思います。
 例えば地球上の生物について、筆者はこの様に説きます。

 生物の種は、記載されているものだけで190万種ほど、実際には1000万~3000万種の生物がいると言われています。既知の種は全体の1/5以下であり、地球に存在している全生物のカタログ作りはまだ済んでいません。
 われわれが知っている生物は、全体のほんの一部だというのに、今、ものすごい勢いで種が絶滅しています。知る前にいなくなってしまうことが起きているのです。


 そして同一種の生物についてもいかに多様性が大切なのか、こんなエピソードが書かれています。

 19世紀アイルランドに起こったジャガイモ飢饉は、遺伝子の多様性の少ない品種を広域で栽培したため、一気に病気が蔓延して起こった悲惨な例です。このような事態が起きないためにも、遺伝子の多様性を保っておくことは重要なのです。

 と、ここまでお読みいただいて、多くの方がおそらく今の世界情勢がまるで反対の方向へ舵を切りそうに見える現状にどきりとしているのじゃないかと思います。
 筆者もそういった危うい状況を、「好き好き至上主義」と名付けて述べています。

 それの典型例がインターネットの「お気に入り」で、自分の好きなものにしか興味を示さない、自分と同じ考えの文章しか読まない、そんな情報の遣り取りしかしない、そんなニュースしか見ない、等々の状況です。

 かつてインターネットは、劇的に多様な情報の受発信を簡便にしたことの素晴らしさが説かれましたが、現在において人々は、そんな多様性ある情報の元にはいません。
 そんなことも、説かれています。

 実は私は、時々手に負える範囲の「理系」の本を読むのですが(でも手に負える範囲が極めて狭いのでとても悲しいのですが、しくしく)、私にとってそんな書籍の魅力はまさにこんな論理展開にあります。
 そしてそれは、一自然物としての「人間」「社会」「自分」ということを再確認させてくれます。

 最後にそんなことを感じながら読んでいて、たいそう感心したフレーズがあったので引用してみますね。

   「死は、私の多様性である。」

 どうですか。このままでもう、一篇の詩のようではありませんか。


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貧困であることを運命づけるとは

  『貧困世代』藤田孝典(講談社現代新書)

 もう2.3年前になりますか、本書でも少し触れられている「日比谷公園年越し派遣村村長」をなさっていた湯浅誠氏の講演会に行きました。
 とても面白かった印象はあるのですが、既に何年かが過ぎ覚えているのは下記の二つの話しだけです。確かこんな内容です。

 1.「ないものねだり」から「あるものさがし」へ。
 2.貧困は普通に暮らしていては見えない。

 この二つの話しがなぜか私の記憶に残っているのですが、さて、同種のテーマの本書です。なかなか厳しいテーマで、読んだからといって元気の出るものではありません。
 まず筆者は「貧困世代」をこの様に定義づけます。

 貧困世代とは、「稼働年齢層の若者を中心に形成される世代であり、貧困であることを一生涯運命づけられた人々」である。概ね十代から三十代を想定しており、本書で使用する「若者」も、この年代の人々―わたし自身を含む―である。

 そして「適切な支援が不足すれば、一生涯貧困から抜け出すことが難しい人々が、将来的に大量発生することはまず間違いない。」と続けます。

 ではその原因は何か、様々なことが書いてありますが、おおざっぱにまとめるとこの二点じゃないかと思います。

 1.急激な社会構造や雇用環境の変化
 2.若者に対する福祉システムの未整備


 なるほどねぇ、社会のひずみが一番弱いところを突いて現れることがよく分かるまとめ方ですね。
 筆者はその中でも、特に若年者層の教育環境の劣悪さを再三指摘します。例えば、

 経済協力開発機構は加盟国の教育状況の調査結果を2015年に発表したが、2012年の日本の国内総生産に占める教育機関への公的支出の割合は3.5%で、加盟国で比較可能な32カ国中最下位だった。(略)すでに日本は他の先進国と比較しても、教育を大事にしない、人に投資しない珍しい国になった。

 そして投資されなかった若者達は、この様な状況へと進んでいきます。

 首都圏・関西圏の8都府県に住む、年収200万円未満しかないワーキングプアと呼ばれる層の若者達(略)の雇用形態である。非正規雇用が47.1%、無職が39.1%であり、正規雇用はわずか7.8%にすぎないという衝撃の事実だった。無収入や低所得の若者が、とてつもなく分厚い層を形成している。

 本書には、そんな現代日本の暗澹たる状況がこれでもかと書かれているのですが、しかし本書終盤には、それに対する提言も書かれています。もちろん特効薬などありませんが、地道な取り組みの必要性を説いた文章です。

 この部分を読んで私は、冒頭に湯浅誠氏の講演会の記憶が二つしかないと書きましたが、もう一つ忘れていたことに気がつきました。
 それは、なるほどそういうことだなと、つくづく思う言葉でありました。いわく……

  ピンチはチャンス


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ゴシップ精神は文学研究

 『近代作家エピソード辞典』村松定孝(東京堂出版)

 わたくしごとですが、人生晩年の学び直し学問としての「文学」シリーズの読書報告です。
 しかし自分でそのように決めながら、実際にはなかなか本格的な学問研究に突入できず(まぁ、「食い扶持」の用事もありますし)、学問の周りをただぐるぐる回っているだけなのですが、今回の書籍も図書館でぶらぶらしているときに見つけた本です。
 前書きにこんなことが書いてあるのを、まず立ち読みしました。

 「(略)島村抱月が、まことに好都合な意見を残している。それによると、文学者は、日常で、ふとPassing Word(ゆきずりの言葉)をもらす、それは、かれの素顔であり本音を反映しており、その言葉からわれわれは作家の特質や思想に迫ることができるというのである。すなわち、これを以てすればパッシングワードをとらえることで、作家研究の糸口を見出しうることになるのである。」

 なるほど、「好都合」な感じのする表現でありますね。やや下品に申しますれば、ゴシップを喜ぶ精神は文学研究としてあながち間違っているわけではない、と。
 えっ? そこまでは言っていませんかね。

 ともあれ、この言葉に勇気を得て、私は本書を借りてきて読みました。
 筆者についてはどんなお方なのか全く存じ上げないのですが、文学博士のえらい大学の先生です。(平成3年初版発行の本なので、今でもご存命でいらっしゃるのか分からないのですが。)
 だから、というのか、何というのか、まー、思ったほどゴシップぽくなくて、期待はずれというか、いえそも、そも学び直しの「文学=学問」でありますから。

 この一冊に、100人の文学者や国文学者のエピソードが収録されているんですね。一人分の分量は、平均2ページと少しくらいでまとめてあります。
 だから、(というのか、ここも迷いますが)そもそもエピソードが少し物足りない感じがしました。
 ……しかしまー、「Passing Word(ゆきずりの言葉)」ですから。……。

 最後に一つだけ、内容の紹介をしてみますね。太宰治のエピソードです。
 筆者が太宰治と一緒にビールを飲み、その後お茶漬けが食べたいという太宰の言葉に誘われて太宰宅まで尋ねます。トイレを借りたあと部屋に戻ろうとしていると、太宰と夫人が、ごはんが3杯分しかないという相談をしているのをつい聞いてしまいます。しかしいかんともしがたく、申し訳なくも太宰が1杯、筆者は2杯のお茶漬けをごちそうになったというエピソードでした。
 そして最後に、こうまとめてありました。

 「その年から十年して太宰氏は夫人と愛児三人を残しての他界だった。ご長男は成人前に亡くなられたが、長女は大臣夫人となり、次女は女流作家津島佑子、『斜陽』のかず子のモデルの愛人太田静子の子治子も文壇に在る。地下の霊も満足に違いない。」

 なるほど、心中自殺をした太宰の霊が、子供達が文人になったことで満足したかどうか、今までそんなことは考えたことがなかったですが、確かに少しおやっとする問いかけでありました。


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原稿が書けない理由の面白さ

 『〆切本』(左右社)

 久しぶりにリアルな本屋に行きました。
 かつて家のそばにあった本屋さんが廃業なさいまして、その当座は不便だなぁと思っていたものの、ネットでも買えるし全国展開チェーン古本店が比較的家のそばにあるしということで、関係者の方には申し訳なくも、そのうち不便さを忘れてしまいました。

 ところがここに一つ困ったことがありました。
 それは図書カードを使う機会が無くなったことです。かつて誕生日に家人がプレゼントしてくれたカードで、その後財布の中に長く眠っておりました。
 今回久しぶりに本屋に行ったのも、実は開演時間を間違えて早く行った音楽会の、その一時間をどう潰そうかと考えてカードのことをたまたま思いついたという経緯です。

 で、買ったのが冒頭の一冊ですが、少し前に少し話題になりましたね。
 今回読んでみて割りと面白かったです。いえ正確に言いますと、面白い文章とそうじゃない文章とがあったというべきですが、90以上の文章(随筆、書簡、対談、漫画など)が収録されていますから、3割くらいが当たっていればまずまずじゃないか、と。そして私はそのうちの30作くらいを面白く読みましたから、これは「割りと面白かった」でいいんじゃないか、と。

 ちょっとその面白さを考えてみますね。例えばこんな文章。

 私は頼まれたものは一応その人の親切さに対しても、引き受けるべきだと思つてゐる。が、引き受けた原稿は引き受けたが故に、必ず書くべきものだとは思つてゐない。何ぜかと云へば、書けないときに書かすと云ふことはその執筆者を殺すことだ。執筆者を殺してまでも原稿をとると云ふことは、最早やその人の最初の親切さを利慾に変化させて了つてゐる。引き受けて書かないでゐると、多くの場合、後で品格下劣な雑誌は匿名で悪戯をする。しかし、さう云ふ雑誌は必ず朦朧雑誌に限つてゐる。しかし、それとは反対に、気質の高邁な記者に逢ふと、例へ書けなくて不義理をかけても、必ずいつか気に入つたものの書けたときこちらから送らねばすまなくなる。かう云ふ意味でもいい原稿の集まつてゐる雑誌には、必ずどこかに清朗な人格者がひそんでゐるにちがひないのだ。(『書けない原稿』横光利一)

 上記の随筆を私は本書の中でもとっても面白いと感じたのですが、その理由は二つあると思います。

 (1)愚にも付かないような理由を、本人がそのまま信じているわけではないでしょうが、本当にあれこれと考えていること。
 (2)一方文章を書く(原稿を書く)ことに対しては、一字一句たりともゆるがせにするつもりはないと思っていること。

 この2つの理由は、激しく(2)であるほどに、(1)が面白くなるという構造を持っています。だから、(2)について少々「(時間もないし)仕方がないか」と感じていそうに思える作家の文章は、(1)が空回りしているように感じます。
 つまり一言で言えば、「純文学作家」の文章がより面白いとわたくしは結論づけました。

 本書冒頭に田山花袋の随筆が載っています。
 大の男が「ああ、いやだ、いやだ、小説なんか書くのはいやだ。」と子供のように口に出す一方で、何かの拍子で筆が走るようになった時の「恍惚感」を描くアンバランスの面白さ(=すばらしさ)は、横光の場合と同様に、正に(2)が強くあっての(1)だと実感されます。

 本書は全体としては少々ヴォリュームが大きすぎないかと思うのですが、その中の純文学作家の文章は、私にはほぼ全編とても面白かったです。


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文学は錯覚に過ぎない

 『文学の読み方』さやわか(星海社新書)

 少し前にも触れましたが、人生において何だかテンカウントを聞くのも近くなってきた今日この頃、はたと思い立っての人生の「学び直し」に、わたくしは「文学」を選ぼうと思ったのでした。

 しかし、テンカウント間近で「学び直し」もないだろうという囁きは何より自らの耳に届いており、その後細々と何冊か文学関係の本を読みましたが、いっこうに学問深化はならず今日に至りました。(あたりまえですか。)

 今回も、退屈しのぎに図書館に行ったらたまたま見つけた本ということで、真面目でひたむきな学習意欲が今ひとつ感じられないのですが、ともあれ借りて帰って読むことにしました。

 本書のオビにこうあります。

   文学は『現実』も『人の心』も描けない。
   すべては”錯覚”にすぎないのだ。


 まー、オビのコピーとは、ひたすら売るために煽ることがその目的の文章でありますから、別にかまわないとも思うのですが、しかしテンカウント間近の者が折角ああでもないこうでもないと迷った末に一応選んだ学問ジャンルを無価値のごとくに書くコピーは、やはり微妙に不愉快で、本書を読むに至ったということです。

 本書の主張はこの一冊の中に何回となく書いてありますので、簡単にまとめることができます。それはこういうことです。

 ①「文学とは、人の心を描くものである」とか
 ②「文学とは、ありのままの現実を描くものである」というのは錯覚だ。


 ……うむ、「文学シンパ」を自称するわたくしとしては、これは放っておけぬ、非道の極み乱暴狼藉の如き論調、これは降りかかる火の粉は払わねばならぬ、と押っ取り刀で読んだのですが、……結論的には、とても面白かったです。

 まー、何といいますか、よーするに、勝手に言葉に価値判断の色づけをしてはいけない、ということでいかがでしょう。
 あまりあれこれ書いて本書への人々の読書意欲をそぐのもよくないと思いますので、一言だけ付け加えますと、「錯覚」とは必ずしもマイナスイメージの言葉ではない、というあたりですかね。

 後は、よく分かる近代日本文学史のおさらいなんかが書かれてあって、私は一つ賢くなりました。それははしなくも学び直しの文学学習を行ったのと同じで、まずはめでたく……。


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