多様性がいかに大切か

  『人間にとって寿命とはなにか』本川達雄(角川新書)

 えー、名作『ゾウの時間 ネズミの時間』の作者です。私も読んでたいそう感心、啓発されました。でも本書はちょっとそうでもなかったです。内容がちょっとばらばらな感じがしました。
 それについては筆者自身後書きに書いていますが、もともと5本の講演録をまとめたものである、と。じゃあ、まぁ、ちょっとやむなしかな、と。

 しかし興味深い話題はたくさん入っています。
 筆者の元々の研究対象であったナマコの話しはもちろん面白かったですが、例えば、「ムシ」と「息子」「娘」は関連言語であるとか(本当かなー、と少し私は疑っているのですが)、そんなこんながいっぱい書かれてある中で、特に前半部の大きなテーマは「多様性」という言葉だったように思います。
 例えば地球上の生物について、筆者はこの様に説きます。

 生物の種は、記載されているものだけで190万種ほど、実際には1000万~3000万種の生物がいると言われています。既知の種は全体の1/5以下であり、地球に存在している全生物のカタログ作りはまだ済んでいません。
 われわれが知っている生物は、全体のほんの一部だというのに、今、ものすごい勢いで種が絶滅しています。知る前にいなくなってしまうことが起きているのです。


 そして同一種の生物についてもいかに多様性が大切なのか、こんなエピソードが書かれています。

 19世紀アイルランドに起こったジャガイモ飢饉は、遺伝子の多様性の少ない品種を広域で栽培したため、一気に病気が蔓延して起こった悲惨な例です。このような事態が起きないためにも、遺伝子の多様性を保っておくことは重要なのです。

 と、ここまでお読みいただいて、多くの方がおそらく今の世界情勢がまるで反対の方向へ舵を切りそうに見える現状にどきりとしているのじゃないかと思います。
 筆者もそういった危うい状況を、「好き好き至上主義」と名付けて述べています。

 それの典型例がインターネットの「お気に入り」で、自分の好きなものにしか興味を示さない、自分と同じ考えの文章しか読まない、そんな情報の遣り取りしかしない、そんなニュースしか見ない、等々の状況です。

 かつてインターネットは、劇的に多様な情報の受発信を簡便にしたことの素晴らしさが説かれましたが、現在において人々は、そんな多様性ある情報の元にはいません。
 そんなことも、説かれています。

 実は私は、時々手に負える範囲の「理系」の本を読むのですが(でも手に負える範囲が極めて狭いのでとても悲しいのですが、しくしく)、私にとってそんな書籍の魅力はまさにこんな論理展開にあります。
 そしてそれは、一自然物としての「人間」「社会」「自分」ということを再確認させてくれます。

 最後にそんなことを感じながら読んでいて、たいそう感心したフレーズがあったので引用してみますね。

   「死は、私の多様性である。」

 どうですか。このままでもう、一篇の詩のようではありませんか。


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貧困であることを運命づけるとは

  『貧困世代』藤田孝典(講談社現代新書)

 もう2.3年前になりますか、本書でも少し触れられている「日比谷公園年越し派遣村村長」をなさっていた湯浅誠氏の講演会に行きました。
 とても面白かった印象はあるのですが、既に何年かが過ぎ覚えているのは下記の二つの話しだけです。確かこんな内容です。

 1.「ないものねだり」から「あるものさがし」へ。
 2.貧困は普通に暮らしていては見えない。

 この二つの話しがなぜか私の記憶に残っているのですが、さて、同種のテーマの本書です。なかなか厳しいテーマで、読んだからといって元気の出るものではありません。
 まず筆者は「貧困世代」をこの様に定義づけます。

 貧困世代とは、「稼働年齢層の若者を中心に形成される世代であり、貧困であることを一生涯運命づけられた人々」である。概ね十代から三十代を想定しており、本書で使用する「若者」も、この年代の人々―わたし自身を含む―である。

 そして「適切な支援が不足すれば、一生涯貧困から抜け出すことが難しい人々が、将来的に大量発生することはまず間違いない。」と続けます。

 ではその原因は何か、様々なことが書いてありますが、おおざっぱにまとめるとこの二点じゃないかと思います。

 1.急激な社会構造や雇用環境の変化
 2.若者に対する福祉システムの未整備


 なるほどねぇ、社会のひずみが一番弱いところを突いて現れることがよく分かるまとめ方ですね。
 筆者はその中でも、特に若年者層の教育環境の劣悪さを再三指摘します。例えば、

 経済協力開発機構は加盟国の教育状況の調査結果を2015年に発表したが、2012年の日本の国内総生産に占める教育機関への公的支出の割合は3.5%で、加盟国で比較可能な32カ国中最下位だった。(略)すでに日本は他の先進国と比較しても、教育を大事にしない、人に投資しない珍しい国になった。

 そして投資されなかった若者達は、この様な状況へと進んでいきます。

 首都圏・関西圏の8都府県に住む、年収200万円未満しかないワーキングプアと呼ばれる層の若者達(略)の雇用形態である。非正規雇用が47.1%、無職が39.1%であり、正規雇用はわずか7.8%にすぎないという衝撃の事実だった。無収入や低所得の若者が、とてつもなく分厚い層を形成している。

 本書には、そんな現代日本の暗澹たる状況がこれでもかと書かれているのですが、しかし本書終盤には、それに対する提言も書かれています。もちろん特効薬などありませんが、地道な取り組みの必要性を説いた文章です。

 この部分を読んで私は、冒頭に湯浅誠氏の講演会の記憶が二つしかないと書きましたが、もう一つ忘れていたことに気がつきました。
 それは、なるほどそういうことだなと、つくづく思う言葉でありました。いわく……

  ピンチはチャンス


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ゴシップ精神は文学研究

 『近代作家エピソード辞典』村松定孝(東京堂出版)

 わたくしごとですが、人生晩年の学び直し学問としての「文学」シリーズの読書報告です。
 しかし自分でそのように決めながら、実際にはなかなか本格的な学問研究に突入できず(まぁ、「食い扶持」の用事もありますし)、学問の周りをただぐるぐる回っているだけなのですが、今回の書籍も図書館でぶらぶらしているときに見つけた本です。
 前書きにこんなことが書いてあるのを、まず立ち読みしました。

 「(略)島村抱月が、まことに好都合な意見を残している。それによると、文学者は、日常で、ふとPassing Word(ゆきずりの言葉)をもらす、それは、かれの素顔であり本音を反映しており、その言葉からわれわれは作家の特質や思想に迫ることができるというのである。すなわち、これを以てすればパッシングワードをとらえることで、作家研究の糸口を見出しうることになるのである。」

 なるほど、「好都合」な感じのする表現でありますね。やや下品に申しますれば、ゴシップを喜ぶ精神は文学研究としてあながち間違っているわけではない、と。
 えっ? そこまでは言っていませんかね。

 ともあれ、この言葉に勇気を得て、私は本書を借りてきて読みました。
 筆者についてはどんなお方なのか全く存じ上げないのですが、文学博士のえらい大学の先生です。(平成3年初版発行の本なので、今でもご存命でいらっしゃるのか分からないのですが。)
 だから、というのか、何というのか、まー、思ったほどゴシップぽくなくて、期待はずれというか、いえそも、そも学び直しの「文学=学問」でありますから。

 この一冊に、100人の文学者や国文学者のエピソードが収録されているんですね。一人分の分量は、平均2ページと少しくらいでまとめてあります。
 だから、(というのか、ここも迷いますが)そもそもエピソードが少し物足りない感じがしました。
 ……しかしまー、「Passing Word(ゆきずりの言葉)」ですから。……。

 最後に一つだけ、内容の紹介をしてみますね。太宰治のエピソードです。
 筆者が太宰治と一緒にビールを飲み、その後お茶漬けが食べたいという太宰の言葉に誘われて太宰宅まで尋ねます。トイレを借りたあと部屋に戻ろうとしていると、太宰と夫人が、ごはんが3杯分しかないという相談をしているのをつい聞いてしまいます。しかしいかんともしがたく、申し訳なくも太宰が1杯、筆者は2杯のお茶漬けをごちそうになったというエピソードでした。
 そして最後に、こうまとめてありました。

 「その年から十年して太宰氏は夫人と愛児三人を残しての他界だった。ご長男は成人前に亡くなられたが、長女は大臣夫人となり、次女は女流作家津島佑子、『斜陽』のかず子のモデルの愛人太田静子の子治子も文壇に在る。地下の霊も満足に違いない。」

 なるほど、心中自殺をした太宰の霊が、子供達が文人になったことで満足したかどうか、今までそんなことは考えたことがなかったですが、確かに少しおやっとする問いかけでありました。


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原稿が書けない理由の面白さ

 『〆切本』(左右社)

 久しぶりにリアルな本屋に行きました。
 かつて家のそばにあった本屋さんが廃業なさいまして、その当座は不便だなぁと思っていたものの、ネットでも買えるし全国展開チェーン古本店が比較的家のそばにあるしということで、関係者の方には申し訳なくも、そのうち不便さを忘れてしまいました。

 ところがここに一つ困ったことがありました。
 それは図書カードを使う機会が無くなったことです。かつて誕生日に家人がプレゼントしてくれたカードで、その後財布の中に長く眠っておりました。
 今回久しぶりに本屋に行ったのも、実は開演時間を間違えて早く行った音楽会の、その一時間をどう潰そうかと考えてカードのことをたまたま思いついたという経緯です。

 で、買ったのが冒頭の一冊ですが、少し前に少し話題になりましたね。
 今回読んでみて割りと面白かったです。いえ正確に言いますと、面白い文章とそうじゃない文章とがあったというべきですが、90以上の文章(随筆、書簡、対談、漫画など)が収録されていますから、3割くらいが当たっていればまずまずじゃないか、と。そして私はそのうちの30作くらいを面白く読みましたから、これは「割りと面白かった」でいいんじゃないか、と。

 ちょっとその面白さを考えてみますね。例えばこんな文章。

 私は頼まれたものは一応その人の親切さに対しても、引き受けるべきだと思つてゐる。が、引き受けた原稿は引き受けたが故に、必ず書くべきものだとは思つてゐない。何ぜかと云へば、書けないときに書かすと云ふことはその執筆者を殺すことだ。執筆者を殺してまでも原稿をとると云ふことは、最早やその人の最初の親切さを利慾に変化させて了つてゐる。引き受けて書かないでゐると、多くの場合、後で品格下劣な雑誌は匿名で悪戯をする。しかし、さう云ふ雑誌は必ず朦朧雑誌に限つてゐる。しかし、それとは反対に、気質の高邁な記者に逢ふと、例へ書けなくて不義理をかけても、必ずいつか気に入つたものの書けたときこちらから送らねばすまなくなる。かう云ふ意味でもいい原稿の集まつてゐる雑誌には、必ずどこかに清朗な人格者がひそんでゐるにちがひないのだ。(『書けない原稿』横光利一)

 上記の随筆を私は本書の中でもとっても面白いと感じたのですが、その理由は二つあると思います。

 (1)愚にも付かないような理由を、本人がそのまま信じているわけではないでしょうが、本当にあれこれと考えていること。
 (2)一方文章を書く(原稿を書く)ことに対しては、一字一句たりともゆるがせにするつもりはないと思っていること。

 この2つの理由は、激しく(2)であるほどに、(1)が面白くなるという構造を持っています。だから、(2)について少々「(時間もないし)仕方がないか」と感じていそうに思える作家の文章は、(1)が空回りしているように感じます。
 つまり一言で言えば、「純文学作家」の文章がより面白いとわたくしは結論づけました。

 本書冒頭に田山花袋の随筆が載っています。
 大の男が「ああ、いやだ、いやだ、小説なんか書くのはいやだ。」と子供のように口に出す一方で、何かの拍子で筆が走るようになった時の「恍惚感」を描くアンバランスの面白さ(=すばらしさ)は、横光の場合と同様に、正に(2)が強くあっての(1)だと実感されます。

 本書は全体としては少々ヴォリュームが大きすぎないかと思うのですが、その中の純文学作家の文章は、私にはほぼ全編とても面白かったです。


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文学は錯覚に過ぎない

 『文学の読み方』さやわか(星海社新書)

 少し前にも触れましたが、人生において何だかテンカウントを聞くのも近くなってきた今日この頃、はたと思い立っての人生の「学び直し」に、わたくしは「文学」を選ぼうと思ったのでした。

 しかし、テンカウント間近で「学び直し」もないだろうという囁きは何より自らの耳に届いており、その後細々と何冊か文学関係の本を読みましたが、いっこうに学問深化はならず今日に至りました。(あたりまえですか。)

 今回も、退屈しのぎに図書館に行ったらたまたま見つけた本ということで、真面目でひたむきな学習意欲が今ひとつ感じられないのですが、ともあれ借りて帰って読むことにしました。

 本書のオビにこうあります。

   文学は『現実』も『人の心』も描けない。
   すべては”錯覚”にすぎないのだ。


 まー、オビのコピーとは、ひたすら売るために煽ることがその目的の文章でありますから、別にかまわないとも思うのですが、しかしテンカウント間近の者が折角ああでもないこうでもないと迷った末に一応選んだ学問ジャンルを無価値のごとくに書くコピーは、やはり微妙に不愉快で、本書を読むに至ったということです。

 本書の主張はこの一冊の中に何回となく書いてありますので、簡単にまとめることができます。それはこういうことです。

 ①「文学とは、人の心を描くものである」とか
 ②「文学とは、ありのままの現実を描くものである」というのは錯覚だ。


 ……うむ、「文学シンパ」を自称するわたくしとしては、これは放っておけぬ、非道の極み乱暴狼藉の如き論調、これは降りかかる火の粉は払わねばならぬ、と押っ取り刀で読んだのですが、……結論的には、とても面白かったです。

 まー、何といいますか、よーするに、勝手に言葉に価値判断の色づけをしてはいけない、ということでいかがでしょう。
 あまりあれこれ書いて本書への人々の読書意欲をそぐのもよくないと思いますので、一言だけ付け加えますと、「錯覚」とは必ずしもマイナスイメージの言葉ではない、というあたりですかね。

 後は、よく分かる近代日本文学史のおさらいなんかが書かれてあって、私は一つ賢くなりました。それははしなくも学び直しの文学学習を行ったのと同じで、まずはめでたく……。


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少々無理ある「正伝」かなとは……

  『つかこうへい正伝』長谷川康夫(新潮社)

 インターネット上の新刊・古書書店をうろうろしていたら上記の本が出てきたので、おっ、と思いました。
 ささやかながらわたくしも、かつて少しだけ演劇青年だったことがありました。

 本書のタイトルの下に「1968-1982」と書いてありますが、私がリアルタイムで知っていたことも後に知ったことも含め、この時期の小劇場演劇におけるつかこうへいの圧倒的な存在感は、おそらく日本中の演劇に興味を持つ青年たちに、彼と同時代にいることのワクワクする並走感をもたらせたはずです。
 思い返せば、とにかくすごかったです。

 さて、そんなつかこうへいの「正伝」と銘打たれた本書を買いました。560ページにも及ぶ大著です。
 で、読んでみたのですが、まず「正伝」と呼ぶには少々無理があるように感じました。

 筆者は、そもそもはつかこうへいの主宰する劇団の劇団員として、その後はつかこうへいの執筆助手のような形で(「執筆助手」とは本文に書いてありません。ただ彼のやっていたことは多分こんな名前で呼べるような仕事だろうと思いますが)、つかこうへいと長く同時期を過ごした方ではありましょうが、それでも個人の体験だけをもとに描き切るにはかなり無理があり、その足らず部分はどう補っているかといえば、本書の帯の宣伝文には(そもそもどんな書籍にしても、帯の宣伝文ほど出所不明のあおり文はないように思うのですが)、「関係者を徹底取材」とは書かれていながら、どの部分が誰からの取材をもとに構成された記述かの説明がほぼありません。

 つかこうへいの現代日本演劇界における功績を考えれば、本書は、後日つかこうへい研究の第一級資料となる文章かという興味もあって読んだのですが、そうまとめるには客観性に少なくない疑問符が付きそうに思いました。

 しかし、にもかかわらず、本書はとても面白かったです。
 一種狂気の天才ともいえる芸術家(たぶん「芸術家」で間違ってないと思うのですが、そしてこんなエクスキューズをつい付けてしまう才能こそが、つか的なんでしょうが)にほぼ密着して過ごした筆者の青春物語が、様々な有名人の名前の挙がる少々のぞき見的興味も刺激しつつ、1970年代のひとつの青春の姿を描いていると感じられるからです。

 そして「つかこうへい」という人格が、いかに才能豊かでありながらも俗に流れた表現を志し、ある意味ものごとや社会や個人の本音が見えすぎる演劇的視点であったことが彷彿と浮かんでくるにおいて、やはり本書は「正伝」なのか、少なくとも「準正伝」くらいの看板に偽りはないと、私は思い直したのでありました。


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我がバイアスのかかった結論

  『甲子園が割れた日』中村計(新潮文庫)

 少し前のことですが、外出して、ちょっと中途半端に時間ができたものだから、本屋さんに入りました。
 そして書店内をぶらぶらと歩いていた時に、たまたま見つけたのが本書でありました。
 本書には、冒頭に挙げたタイトルに加えてこんなサブタイトルが付いています。

  「松井秀樹5連続敬遠の真実」

 本書の内容は、まさにタイトル並びにサブタイトルから類推できるそのままのものです。
 1992年夏の高校野球甲子園大会で起こった「松井秀樹5連続敬遠」について、両チームの当事者の元高校生、監督、関係者さらには高野連役員などの発言を整理したり、さらに筆者がインタビューした内容であります。

 特にさまざまな立場の人物のインタビューを読んでいると、実にあれこれ考えさせる、十分な深みと楽しみのある内容でした。
 筆者は様々な人物の様々に立場について、粘り強く共感を引出していき、「立場」の中でも最も際立っていて、賛否の集中するであろう5連続敬遠をさせた立場=理論ですら、読んでいるとそれなりの理解ができそうであります。

 私はとても面白く一気に読み終えました。
 しかし、本書が読者にゆだねているテーマの一つ、「松井秀樹5連続敬遠」是か非かについて改めて考えていた私は、おそらく筆者が一番恐れていたであろう、少なくとも嫌がっていたであろう結論に、とうとう到達してしまったのでありました。

 それは、勝てばいいとは言わないが負けることは何も生まないと確信する高校野球関係者がいて、そのことを「非」とする根拠が必ずしも成立せず、そして読み手にもその論理が一定納得できるという状況が、高校野球にあるということであります。

 そしてそう理解した時、私が到達した筆者が恐れていたのじゃないかと思われる結論とは、つまりこういうことです。

 「スポーツに人生を重ね合わせるのも大概にしなければいけないな、まして、スポーツが教育であるとは、とても全面的には言えることではないな。」

 いつもと違わぬ我がバイアスのかかった結論なのかもしれませんが、しかし私がその根拠とするのは、人生とは、スポーツとは違って、必ず万人が負ける=死ぬものだと思うがゆえであります。


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なぜか「ショーケン」

 『ショーケン』萩原健一(講談社)

 先日ふと、「ショーケン」の事をまた思い出しました。
 昔っから「ショーケン」は、大好きでありまして、そして、「また」と書いたように、この現象は私にとって何度かめのことであります。

 いえ厳密に言いますと、本当は「ショーケン」が大好きと言うより、『前略おふくろ様』の「サブちゃん」と、『傷だらけの天使』の「修」が私は好きなのでありました。
 でもそれは結局、たぶん日本中にとてもたくさんいる「ショーケン」ファンとほぼ同じだと思うんですがね。

 とにかく、私のフェイバレットのツボに、久し振りに「ショーケン」が入ってきました。そこでまず、家にある倉本聡のシナリオ本『前略おふくろ様』全4巻を、もう何度目の再読なのか分からないのですが、読みました。続いてこれも家にある、市川森一の『傷だらけの天使』のシナリオ本も何度目かで読みました。

 今まで私に何度か襲ってきた「ショーケン」ツボなら、大体ここまでで終わりなんですが、今回はさらに続きまして、『前略おふくろ様』のブルーレイを、まず一枚買ってみました。

 いやー、これが、何とも言えず、よろしい。

 ブルーレイって、結構高いんですが、今後我が家に増えていくのは間違いないところでありましょう。

 で、そして、冒頭の本を買って読みました。
 実はわくわくとかなり期待してたんですね。どんなに面白いだろうかと。
 でも、……んー、何と言いますかねー、……いえ、決して面白くないわけではないんですが、わたくしが過度に期待していたからそんな風に感じちゃったのかも知れませんが、よーするに、素朴な感想としましては、こんなのですかね。

 なかなか、自伝とは難しいものだ。

 これはつまり、自らを客観視する難しさですよね。
 それも、単に客観視するだけではなく、さらにそこに面白味を加えねばならないという。
 ……うーん、そう考えると、そもそも私は今まで自伝なんてほとんど読んだことがなかったのですが、ひとつ何冊か自伝を読み比べてみるかと思ったのでありました。

 でもその前に、まだ続く今回の「ショーケン」ツボですが、次はひとつレンタル屋で、ショーケンの出ているDVDを片っ端から借りてみようかと思っている次第であります。


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「弱肉強食」は本当か。

  『日本語のできない日本人』鈴木義里(中公新書ラクレ)

 上記作品紹介の第三回目になります。
 なかなか考えさせるいろんな事が書いてあるという報告を、過去二回いたしました。それ以外にもいろいろ書いてあるんですが、残りは本書を手にとって直接お読みいただくとして、後一つだけ紹介いたしますね。
 前々回の最後に少しだけ触れました、「平等」についてです。
 筆者はまずこんな風に書き出します。

 だれでも、自分が他の人間よりもともと劣っているかもしれない、などということは認めたくないのだろう。人間の能力は潜在的には同一なのだが、それが家庭環境や教育などの違いによって開花できる人とそうでない人とに分かれるだけで、本当みんな同じなのだと思いたいように見える。

 と、まぁ、ここまではもっともといえばもっともで、でもよく聞くような論調ではないかとも思いますよね。ところが筆者はさらにこう続けていきます。

 だが、これはどう考えても理不尽なことだ。人間も生物の一員である限り、優れた資質をもつものと、そうでないものとが混在しているはずだ。重要なことは、(生物学的に)優れた資質をもつ人間と劣った資質しかもちあわせない人間とが、人間という点ではまったく対等な資格があるという、ある意味では不思議な、しかし、すばらしい思想をもったということだ。
 これは、決して投げ捨てるべき思想ではない。この思想がなぜ大事なのかと言えば、少数の優れた(生物学的な)資質の持ち主が、圧倒的多数のそうでない人びとよりも「人間として」優れているとは限らず、そのような少数の恵まれた資質の人びとが、そうでない人びとを見下すことができないということを教えてくれるからだ。そして、少数の恵まれた資質の人びとのほうが、そうでない人びとよりも充実したすばらしい人生を送れるとは限らない、という事実は、私のような人間にとっては福音のようにさえ感じられる。


 この引用の、前半の終わりから後半の冒頭にかけての認識は、私はとても貴重なものだと思います。
 そしてこの後、この章の最後にはこんな興味深い指摘があります。

 とは言うものの、これは、ある意味では自然に逆らうことかもしれない。たぶん、他の生物では、(生物学的に)優れた資質をもつ個体が劣った個体より幸福な人生(人間じゃないから「人生」というのはちょっと変かもしれない)を送ることができるのだろう。もっとも、他の生物でも実はそうでもないということを生物学者の池田清彦氏は述べており、そうだとすると、優れた資質が幸せにつながらないということは人間に限ったことでないということになる。池田氏によれば、「弱肉強食」が自然界の掟だ、などというのは実は生物の世界では事実ではないのだそうだ(詳しくは氏の『科学教の迷信』、洋泉社、一九九六年、『正しく生きるとはどういうことか』、新潮社、一九九八年などを参照)。

 どうですか。もはやくどくどとは述べませんが、こんな風に書かれておりますと、次はこの池田清彦氏の著書を読まないわけにはいかないではありませんか。

 ……ということで、次はこの本を探しまして、また後日報告できる時を楽しみにします。


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「PISA」について、また。

  『日本語のできない日本人』鈴木義里(中公新書ラクレ)

 前々回の続きであります。
 前々回は、世の中にはまだまだ面白い本がいっぱいあるという、当たり前すぎる感想を抱いたわたくしでありました、というところまででした。

 今回はその続きです。
 前々回にも触れましたが、それ以外にも、いっぱい面白いことがこの本には書かれてあります。
 例えば、本ブログでも数回前に取り上げた「PISA」について、これは国際経済協力機構(「OECD」)の行っている学習到達調査ですが、この結果発表のある度に、マスコミはわいわいとコメントを加えています。
 (日本はもうダメになったとか、まだ少し頑張っているようだとか、あまりいいコメント、前向きの意見が出ているのは見たことがありませんが。)

 わたくし、これについても、以前より一種不信感を抱いていたものですが、これについても書かれてありました。
 本書にこんな文章を見つけました。(ただ、文脈的にはやはり日本の若者達の読解力は低下しているという文脈ではあります。)

 「読解力」とは当然のことながら、それぞれの言語に依存するものだ。そして、別の言語で表現された文章が「同一の」難易度である保証はどこにもない(内容のほうも本当に「同一」であると言えるかどうかは疑問が残る)。言語Aで表現された内容が言語Bでも同じ「難易度」で表現されるということはあり得ない。したがって、例えばフィンランド語で読んで「分かる」ことと、日本語で読んで「分かる」ことを比較することが、果たして可能なのかどうかは吟味する必要がある。

 ここに書かれてあるのは、「読解力」を国際比較することの難しさでありますね。理数系の問題とは同じように行かないということが書かれています。
 もっとも、そんなことを言いだしたら、ほとんどすべての事柄について、「比較」そのものが難解なものとなってしまいましょうが、やはりここで私が思うのは、「もの差し」を一つと考えてはいけないと言うことであります。

 さて、本書の中で私が最も唸ったのは、実は別の個所でありまして、それは、「平等」について書かれたところであります。

 えー、また次々回に。すみません。


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