漱石没後のあれこれ

 『漱石の印税帖』松岡譲(文春文庫)

 漱石生誕150周年「極私的漱石まつり」第3弾として、前回読んだ漱石の孫娘の親父の本、つまり漱石にとっては娘の連れ合いになる松岡譲の漱石関係エッセイを読んでみました。

 本文中にもそんな話題があるのですが、実はわたくし、何を隠そう漱石の描いた絵を一枚持っていましてね。……ふふ、ふ。
 茄子とキリギリスの絵です。ちゃんと「漱石山人」と名前が書いてあって、印影もあります。……ふふ、ふふふふ。

 ……いえ、まぁ、本当のところを申しますならば、例えば今回のエッセイにはこんな風に書いてあります。

 普通書画屋というと、何だかインチキ商売といったけしからぬ感じを人に与えるのは、表向き大変風流じみた奇麗事であるだけに、それだけ一層皮肉だが、しかし絶対に真物ばかり扱うとなると、多くの書画屋はやって行けないというような妙な皮肉のまわり合わせにならないものでもない。

 さらに、こんな風にも書いてあります。

 (略)それを聞いた他の一人が、そいつは参考に見て置こうと聞いたところへ行って見ると、果して十枚でも二十枚でも、御注文通りいくらでもある。値も一円そこそこの安値。それで値も安い代りには、ものもひどいじゃないかと半畳を入れると、いかもの屋の親父の曰くが振っている。どうせ漱石さんのものを一両や二両で買おうって奴は、物の分かる奴じゃない。そんな奴にゃ真物だって、贋物だって変りはない。値が安くて、名前さえ書いてあればいいんだ。

 ……はは、はは、は。……まぁ、そんなものでしょ。
 わたくしも買った当初から、どーも、漱石にしてはもひとつ品位の感じられない絵のよーだなーと、密かに思ってはいたんですがね。

 というわけで、そんな漱石没後のエピソードがあれこれ書いてあって、わりと面白い随筆集でした。
 いわゆる「漱石山脈」と呼ばれる一連の文人達について、実は私は、なるほど「出藍の誉れ」とはなかなか得難いものなのだなーという認識を、勝手に持っていました。

 そして漱石の亡くなった後の、そんな方々のギスギスぶりについては、あたかも芥川が『枯野抄』で書いたようなイメージで知っているような知らないような状況でしたが、本書には、特に長女筆子と松岡譲と久米正雄について書かれた一文があって、これはなかなか興味深かったです。

 そんな随筆集でした。
 なかなか面白くも、表現者というのはやはり大変だなぁとも思わせる本でした。


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「夏目鏡子悪妻説」異聞(後編)

 『漱石の長襦袢』半藤末利子(文春文庫)

 前々回の続きです。
 前々回は、漱石の子孫にとって「夏目鏡子悪妻説」がいかに事実を捻じ曲げたものであったかが本書に書かれています、と書いたところで終わりました。
 それは、本書中の「まぼろしの漱石文学館」という随筆を中心に書かれてあるのですが、何か所か一気に抜き出してみますね。

 松岡によれば、漱石は大変魅力的な人であった。彼を慕って集まる弟子達に分け隔てなく接し、質問すれば、真剣に答えてくれたし、小説も懇切丁寧に読んで、的確で細かい批評をしてくれた。弟子達一人一人に「私の漱石」「私だけの先生」という気持を抱かせる人であった。だから小宮豊隆が自分が一番先生を理解していて「自分ほど先生に愛された弟子はいない」と思い込むのは勝手であるが、勘違いも甚だしい愚かな思い上がりにすぎないと私には思われる。

 私は以前、作家高井有一氏の文章教室に通ったことがある。その時高井氏が「しみじみとした人柄を感じさせる文章を読んだからといって、それを書いた人がよい人だなんて思っちゃいけません。騙されてはいけません。いいですか、皆さん、文章と人柄は別なんですよ」と念を押すように言われたことがある。その時、私はなぜか寅彦の顔を思い浮かべた。

 なぜ漱石とは何の縁も所縁もない東北大学にすべての蔵書があらねばならぬのか、その理由が私はわからないでいる。小宮豊隆の勤務先だからという理由だけではとても納得できない。(中略)
 このことについて、小宮はエッセイ「漱石文庫」に、すでに狩野亨吉とケーベル先生の蔵書があるからといって、こう書いている。「狩野文庫とケーベル文庫とがある中に漱石文庫があることは、きわめて自然なことということができる。漱石文庫にもし霊があるとすれば、その霊はむしろ仙台に来ることを喜ぶに違いない」。何と自分に都合のいい我田引水の解釈であろうか。私はあきれ果てると同時に、憤りが込み上げた。(中略)
 「小宮さんが勤め先に手柄顔をしたかっただけの話でしょ。そうやって大学に点数を稼いだわけでしょ。あの人のやりそうなことだわ」と、筆子は思い出すのも汚らわしいという風に険しい表情をした。世俗的な栄誉などにいっさい背を向けて生きてきた漱石の弟子にしてはお粗末というほかはない。

 とにかく古参の弟子達は、漱石が自分達と同等に扱う芥川、久米、松岡、赤木(桁平)ほか若い新しい弟子達の存在が面白くなく、ことあるごとに先輩風を吹かせていたらしい。漱石没後に急速に親しくなった新参者達を親分肌、姉御肌の鏡子は何かにつけて庇っていたという。鏡子にとっては、偉そうにふるまうこうるさい古参連中より自分を慕ってくれる若くていきのいい帝大生達の方をより可愛いと思うのが当然であろう。しかしそれがまた古参連中の神経を苛立たせ、忌々しい悪妻と小癪な若造どもめという図となったに違いない。


 ……どうですか。すさまじい文章ですね。
 では鏡子夫人は実際のところ良妻であったかと言えば、それは決してそうとは言えないようです。本書には、そんなエピソードも結構たくさん書かれています。
 最後にその中から一つだけ紹介してみますね。

 また、こういう処も母の悪妻と呼ばれる所以なのでしょうが、父がスキヤキが美味しいと洩らしでもしようものなら、それこそ、十日でも二十日でも、あきもせずスキヤキを続けます。父もさる者で、こいつ、いつ迄続ける気だ、こっちもこうなったら意地だ、いつ迄続けやがるか見とどけてやれ、というわけで、素知らぬ顔をしてスキヤキ責めに耐えているようでした。(松岡筆子の文章より)

 ……今思えばこの夫婦、おーい、誰か、何とかしてやれよーと、ユーモラスにツッコんであげたくなるような二人ではありますが、ねぇ……。


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「夏目鏡子悪妻説」異聞(前編)

 『漱石の長襦袢』半藤末利子(文春文庫)

 漱石生誕150周年「極私的漱石まつり」第2弾として、前回は漱石の妻をモデルにした小説を読みましたが、今回は漱石の孫娘(といっても1935年生まれの方です)の随筆を読んでみました。

 ……いやぁ、なかなか面白かったです。
 どこがどう面白かったかといいますと、……えーっと、遡りますれば「夏目鏡子悪妻説」がその発端でしょうが、さらに個人的なことを考えますと、私は今まで直接「夏目鏡子悪妻」を説いた文章を読んだことが多分ありません。もちろんそんな説があることは、よく読んだり聞いたりしていましたが。

 というのは、私はかつて夏目漱石についての評論めいた文章を読み始めた頃に、江藤淳の『夏目漱石』を読みました。そしてたいそう感心し、二つのことを学びました。これです。

 1.夏目漱石は、様々な人間的欠点をたくさん持った作家であった。
 2.夏目漱石の弟子の書いた漱石評伝の類は、客観性にかなり問題がある。


 こんなことを私は漱石体験の比較的初期に学んだので、漱石の弟子たち(特に古参の弟子たち)の漱石関係文章はほぼ読まず、つまり「鏡子悪妻説」の言い出しっぺの一人小宮豊隆あたりの「鏡子悪妻説」の原典には触れたことがなかったわけです。

 ということで、私は今までぼんやり「鏡子悪妻説」というものがあったことを知っているだけでした。さらに現代の文学研究において上記の江藤番号1番は、様々な論証研究の結果ほぼ定説となっていますので、やはりかつてそんな悪妻女房説があったよなー程度にしか考えてなかったわけです。

 ところが今回本書を読んで一番面白かったのは、漱石・鏡子の長女筆子の四女である筆者(とたぶん一族)にとって、「鏡子悪妻説」がいかに許しがたい悪意の塊であって、その汚名の恨みは決して簡単に忘れられるものではないということを知ったことでした。
 それはとてもスリリングな読書であり、わたくしはこの件について、大いに認識を新たにしました。

 例えばこんなことが書いてあるんですが……というところで、……うーん、次回に続きます。
 とにかく、とっても面白かったんですから。


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別役実の文体マジック

  『満ち足りた人生』別役実(白水社)

 別役実のエッセイには一時期かなりはまりました。
 それは今振り返って思うに、実に実に独特なエッセイであり、まー、よーするに、わたくしのような屁理屈の好きなこじゃれた性格の読者が魅力を感じないではいられないような、まるで新興宗教の教祖様のお言葉のようなエッセイでありました。

 その魅力の説明はわたくしにとって、別役教祖様の霊力に少々不感症となった今でも十分客観的な分析ができるとは思えません。しかしこの度久しぶりに別役エッセイを読んだのでちょっと書いてみますが、おそらく書き出したらきりもまとまりもなくなりそうなので、今回は一つだけ別役マジックについての指摘をしてみたいと思っています。

 一つだけというのは、文体についてです。
 実はこれ一つだけでも魅力を分析できれば十分だと思いますが、さほどに別役エッセイの大きな眼目が文体であります。

 いくつか例を挙げるのがわかりやすいかと思いますが、どこを引用するかについてはなかなか迷うところです。そこで今回は分かりやすく、45個の断片(章)からなっている本書の、各章の冒頭部からだけ少し抜き出してみます。

  歩行

 言うまでもなく、人はまず這うことからはじめる。まれに、横にころがることからはじめるものもいないではないが、そしてこれも、移動という見地よりすればなかなか捨て難い方法であるが、将来性がないせいか、周囲の大人たちによってすぐ修正される。

  読書

 読書というものを、もし字を読むことができるならだが、一度はしてみてもいい。

  失語

 暴漢に鈍器で後頭部を殴打されれば、人はたいてい失語状態に陥るが、これはあまりお勧め出来ることではない。そうしてくれる暴漢がいないのではないものの、奴等は力を加減するということがないから、そこから恢復することが不可能になる場合があるのである。

 三つ抜き出しながらふーむと考えていたのですが、やはりなかなか説明が難しそうですね。で、ふっと連想したことがありました。
 それはかつて赤瀬川原平のエッセイを読んだときにその解説文にあった言葉で、別役エッセイと赤瀬川エッセイは、微妙にかぶるような異なるようなどちらもとても魅力的な文体を持つのですが、その解説文にはこう書いてありました。

 「いい加減な厳密主義」

 なるほど、評論家はさすがにうまく言いますね。赤瀬川文体の魅力の一端が見事につかめていると思います。そしてこの表現は、別役文体の魅力説明にも確かにかすっている感じがします。
 この説明に私があえて付け加えるならば、別役文体は、言葉を重ねることで無意味への嗜好がより強く感じられるように思います。
 この無意味=ナンセンスへの嗜好(=志向)は、もちろん別役氏の「本職」、不条理演劇と強くかかわるものだと思えます。(赤瀬川氏も「本職」はアンデパンダンの美術家でありますが。)

 無意味が無意味を生んで、はらはらしながらいつの間にかカラフルでシュールな仮想空間に迷い込んでしまう、そんな別役エッセイの文体。
 今回わたくしはそれを少し懐かしく読みましたが、同時に感じたのは、この万華鏡のような魅力をいつまでも感じ続けるには、読み手の側にこそいくつになっても不条理であったりアンデパンダンであったりする精神のアバンギャルド性が必要なのではないかという事でした。

 小説家の石川淳は、これを「精神の活動」と呼びましたね。
 これは大いに、自戒であります。


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「文豪」の徹底的な「家学」

  『記憶の中の幸田一族』青木玉(講談社文庫)

 表紙の筆者名の下に「対談集」とあります。
 わたくしのかねてよりの疑問に、僭越ながらどうして対談集はお互いをあんなに褒め合うのかというのがありまして、本書もやはり少しそんなところがあります。

 まー、「対談集」という本が出るくらいの方が話し手であり聞き手であるわけですから、それなりの実績のある方であることは確かとしても、改めて褒め合うこともないのじゃないかと私は思ってしまうのですが、一般的にはそんなところに違和感はないのでしょうかね。

 という不満めいた事柄をまず書いてしまいました。そんな違和感があるのならなぜ読んだのだというご意見が浮かぶのですが、それはまぁ、「幸田一族」の話しであるゆえですね。

 つまり近代日本文学に嗜好のある(造詣はありませんが)わたくしとして、幸田露伴について詳しく知りたい、と。それも実娘幸田文の本を何冊か読みますと、露伴という人物はかなり、かなり「特異」な方でありそうだ、と。
 本書にも当然ながら果たしてそれが書かれてありました。まずは、こんな感じ。

 それにしても幸田露伴が娘・文になした家学は、なまじのものではなかった。それは「父・こんなこと」(新潮文庫)一冊を読んだだけですぐ分かる。(略)家の中で、父と娘との間で、少しおいて孫娘も入れて、こんな激しい劇がくりひろげられたことがあったのだ。幸田家の家事、しつけは、肉体と心の格闘技であった、と言っていい。

 私が読んだ幸田文の本名も出ていますが、「家学」とありますね。簡単に言えば、家事全般をする際の挙措動作ということでしょうが、露伴という人物は、女は何をするにしてもまずそのサマ(様態)がよくなければならないというふうに考える人で、それを娘、孫に徹底的に仕込んだ(さらには母から娘にも)ということであります。

 それは実際徹底したもので、例えばここは比較的ユーモラスな部分ですがこんな事が書かれてあります。

 あたしが娘になって、女学校になるとグーッと背がのびる。母は、「あんたそこへ立ってごらん」といって自分がその前にやってきて、「断わりなしに、いつから大きくなった」(笑)。そういうとき、ぼんやり「うーん」なんて言ったらダメ。パッと「昨晩」って言うんです。祖父もしょっちゅうそのことを言ってました。パッと斬りかけたら鍋のフタをとってハッシと受ける塚原木ト伝流でないといけない(笑)。

 ……なんというか、なかなか難儀な祖父と母でありますね。露伴についてはさらにこんな風にも書いてあります。

 どこかつむじが曲がっていて、食えないと言えばこのぐらい食えないじいさんもいなかったです。とにかくすごい磁場をもってる人で、その中に入ると、バリバリッと感電するような目に会うんです。

 ……うーん、なんといっても天下の「文豪」ですからねぇ。
 「文豪」といわれるのにふさわしい人物を明治以降の文学者で指を折っていくと、漱石、鴎外ときてその次くらいの方でしょう。そして次4番目を指折るまでに一定の間隔があくような、圧倒的に他から抜きんでた一連の「文豪」です。
 やはり普通の方ではないですよねぇ。

 そんな「文豪」の驚き話が、本書にはいっぱい書かれてありました。
 ただ言わずもがなのことかも知れませんが、娘の幸田文にも孫の青木玉にも、心の深いところには溢れるばかりの露伴(父親または祖父)への「リスペクト」があることは、本書の内容から十分に共感されるものであります。


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芥川賞ゴシップ

『芥川賞の偏差値』小谷野敦(二見書房)

 私が以前よりぶらぶらと読んでいる「文学」周辺話の一冊であります。
 内容はタイトル通りのものなのですが、おそらくタイトルから想像するよりは、はるかに文壇ゴシップ、芥川賞ゴシップの書かれた本になっています。

 まず、偏差値という数字で各芥川賞作品を評価しているのですが、その評価の基準については、筆者は完全に居直っています。「まえがき」にこう書いてあります。

 なお、お前の判断基準は何なのだ、と問われるかもしれない。かねて言っている通り、文学にせよ音楽、美術、演劇にせよ、普遍的で科学的なよしあしの判断というのはできない。ただ多くの古典的なものや批評を自分で読んだりして、自己の責任で判断するものだ。もちろんその際に、さまざまな批評用語(これは「批評理論」のことではない)を用いて弁論するのは当然のことだ。

 まー、この文章の言っている基本的な論理については、一応私も納得できます。そんなものだという思いを私も持っています。ただ終わりの方に書いてある「批評用語」というものの本書での実践が、あまりに弱いというかしょぼいというかユニークというか、まぁそんな感じであります。

 第一、自分で書いた偏差値の値について(それが高くても低くても)、なぜそうなのかをそもそもほとんど「弁論」していない章が少なくありません。
 例えばこれは吉行理恵の『小さな貴婦人』を論じた章ですが、偏差値は「36」となっています。が、こんな感じで始まっています。

 大学で、教授の息子や娘が大学院へ入ってきたら、その親である教授は論文審査では欠席するのが普通である。高橋源一郎の前の妻が文藝賞の最終選考になった時も、高橋は選考会を欠席した。しかし吉行理恵については、この前に候補になった時、兄の淳之介は棄権の態だったが、欠席はしなかったようだ。あまり騒がれなかったのは、当時、世間が芥川賞にあまり関心がなかったからだろう。

 ここまででこの章の冒頭から4行です。以下この章はあと10行続くのですが、そこには吉行理恵の話も『小さな貴婦人』の話も全くありません。
 まー、上記引用部からでも批評は微妙に読みとれないわけではないですが、それだけで偏差値「36」の弁論とするのは、あまりといえばあまりに乱暴じゃないですかね。

 そんな本でした。ただ冒頭でも触れましたが、芥川賞ゴシップはいっぱい書いてあります。けっこう面白い話が。


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心なごむ懐かしさ

  『中島らもエッセイ・コレクション』中島らも(ちくま文庫)

 たまたま最近続けて図書カードを貰うことがあり、あれは基本的に本屋以外では使いようがないんですよね。
 わたくしは、ここ数年(十数年?)新刊書を扱っている本屋にはあまり行かなかったのですが(だって、近所の新刊書の本屋がどんどん潰れていったものですから)、久しぶりにダラダラと何度か本屋に行きました。

 貰った図書カードなので、普段ならまず買わないだろうなと思う本(自腹の時は、「欲しいけれど、うーん、高いなー」と思う本)を何冊か買って、そしてさらに本屋の中をぶらぶらしていた時に見つけたのが冒頭の文庫本です。

 後書きに書いてあるのですが、中島らもが突然の事故で(しかし生活習慣としては一貫して酒のせいでともいえる形で)亡くなってもう十年以上になるのだなぁと少し感慨を持ちました。

 かつて私は、かなり中島らものエッセイを読んでいました。筆者のエッセイはとっても面白かったです。それに比べると、小説については私はさほど良質な読者じゃなかったことを自認します。もちろん何冊かは読みましたが、どうもかっちりとはそれにはまらなかったです。

 思うに(本当に私が勝手に思っているだけなんですが)、この方はかなり頭の良い人で、併せて読書家ゆえの博覧強記さがあって、しかし小説の実作者としてはそれが想像力を「天翔ける」ところにまで持っていくことを少し邪魔をしたように感じました。なんか、理に落ちたような思いが少なからず残りました。(もちろん知識の集積が想像力をキックするタイプの小説家もいるでしょうが。)
 とにかくわたくし的には少なくない長編小説が、後半失速するように感じました。(私の読み損ないのせいもありましょうが。)

 ところがエッセイの場合は、上記の私の違和感の原因がそのまま魅力の源泉になるように思えます。そしてその頭の良さや博覧強記さを導いているとでも言えそうな「嗜好の方向性」が、私にとってらもエッセイの魅力の中心でした。

 本書においては筆者自身が、「今の自分の中核にあるもの」として「低俗ではなくて反俗、高まいさを求めるのではなくてエンターテインメントを、ヒューマニズムよりはニヒリズムを、涙よりは笑いを」という風に述べています。

 以前何かの本に、どんな人なら親友になれるかという条件の中でもっとも本質的なものは「羞恥心の方向性」ではないか、という文章を読んだことがあります。
 なるほど、何に喜ぶかということも友人を選ぶ際には大切なことでしょうが、何に恥ずかしがるかが大きく隔たった人とずっといる状態というのは、確かに心なごまない気がすると思います。

 エッセイにおいてもそれと同じなのかどうか少々分からないところもありますが、久しぶりに「らも話し」を読んで私は、古い友人と懐かしい心なごむ話をしたような気がしました。


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文士のゴシップ話し

  『文士の私生活』松原一枝(新潮新書)

 この間何となく坂口安吾について書いてある本を読んでいたら、安吾の家は新潟県屈指の資産家であったと書いてあり、へえーっというか、やっぱりねというか、ちょっとそんなアンバランスな感想を持ちました。

 安吾と共に「無頼派」して並び称された太宰治の家も津軽随一の大資産家でありましたし、そもそもそんなことを意識して近代日本文学者のことを調べていると、多くの作家の実家がいわゆる「ブルジョワジー」であるようことに気がつきます。

 しかしそれは、歴史的なものを考えますと、当たり前とも言えそうですね。
 近代明治国家成立以降、昭和30年代くらいまでですか、日本国全体が貧しい中で(最初のうちは後発国として貧しく、後のほうは敗戦国として貧しく)、より上位の学歴を身につけることのできる若者は、資産家の子弟以外にはありません。(もちろん全くないわけではないですが圧倒的少数でしょう。合わせてやはり、最高学歴出身者以外の作家(大学中退者含む)も極めて少数でしょう。)

 というわけで本書ですが、まずこの作者を私は寡聞にして存じ上げませんでした。
 たまたま古本屋で見つけて読んだのですが、昭和初年から昭和40年代くらいまで、筆者がその濃淡はかなりありながら、触れあった文学者の周辺を綴ったものです。
 副題に「昭和文壇交友録」ともあり、その通りだなとも思える、しかしなんと言いますか、やはり「ゴシップ集」のような内容の本です。

 まず登場人物が、文人と金持ちと東大出身官僚しか出てきません。(後、それと被ったり被らなかったりしながら「名家」の人々ですね。)
 そして、そんな趣旨の本ですからそれで好いんでしょうが、例えば、遠藤周作は飛び切りのマザコンであったとか、広津和郎が萬暦赤絵皿を手に入れて自慢していたら志賀直哉に一目で偽物と見破られたとか、そんな面白いと言えば面白い「ゴシップ」が載っています。

 でもそんなのばかり読んでると、少々自己嫌悪になってきます。
 しかしその「自己嫌悪」も含めて、つまりゴシップ話をあまり沢山聞いていると自分が何だかつまらない存在になったような気がする、ということもまた書かれています。

 そんな本です。
 私の書き方も、なんか微妙にむにゃむにゃしたものになってしまいました。
 自らの「スケベ心」を見透かされたようで、……えーっとそれは、ブーメラン現象とも言え、なかなか困ったものです。


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「やむにやまれず、嘘をつく」

  『やむにやまれず』関川夏央(講談社)

 私には、文学関係の随筆または評論で、フェイヴァレットかつこの人の言うことならと思っている作家が何人かいます。この関川夏央氏もその一人です。漱石や二葉亭四迷、白樺派などのことを書いた何冊かの文春文庫は素晴らしく、とても面白く読みました。

 一方そんな筆者が、文芸評論ではなく時々本にまとめているのが、今回取り上げた趣旨の本で、短編小説のようなエッセイのようなといった文章をいくつか集めたものです。
 タイトルの「やむにやまれず」というのはその後に「嘘をつく」とつながるのだそうですが、実は「嘘」をついている小説めいたところは、今回はあまりおもしろくなかったように思います。

 何と言いますか、何か「テレ」があるんですね。たぶん、「文学」に自分の嗜好があることに照れているのだと思いますが、何かとにかく照れています。
 だから(「だから」というつなぎが適切なのか分からないですが)、小説っぽく描かれる点景に、なんともいいようのない素っ気なさがあり、そしてストーリーも禁欲的に抑えられています。(氏がストーリーテラーとして優れたものをお持ちなのは、名作漫画『坊っちゃんの時代』の原作者としての実力に明らかであります。)

 そんなやや中途半端な感じの本ですが、その中に含まれる文学に関わる蘊蓄と見識は、やはりとても素晴らしいと私は思います。(一つのお話の中に、そんな部分がけっこう出てくるんですね。)
 例えばこれは、三島由紀夫が自殺の日に完成させたとされる『天人五衰』について触れたところですが、こんな感じに書かれています。

 その朝、三島由紀夫は『天人五衰』の第二十六章から末尾まで、百四十枚分の原稿を新潮社の編集者に託した。おそらく原稿そのものはもっと前に書かれ、その日に記されたのは〈「豊饒の海」完。/昭和四十五年十一月二十五日〉の二行だけだった。
 私はゲラはどうしたのだろう、と考えた。ゲラはとらないで死んじゃうのか。初校に直しを入れて、ようやく原稿になるのが普通だというのに。ゲラなしで百四十枚分の完成原稿とは、そいつは過剰な完璧さだ。おい、よせよ、それじゃ疲れるだろう。同情に堪えない。


 こういった、知識と感覚と見識がセンチメンタリズムにくるまれて描かれるところに関川作品の際立った特色があると私は考えるのですが、きっと関川氏自身はそこにこそ「テレ」を覚えるのでしょう。
 その感性もまた、極めて文学的な表現のあり方だと思うのですが……。


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2冊揃うとなかなかあれこれ考える(後編)

  『安部公房とわたし』山口果林(講談社)
  『安部公房伝』安部ねり(新潮社)


 前回の続きであります。
上記2冊の本をわたくしこの度読んだのですが、この2冊の本の発行日時は、「果林本」2013年8月、「ねり本」2011年3月と、なっています。

 アマゾンの書評欄でも既に多くの指摘がありますが、「ねり本」で山口果林に全く触れていないことが(私が読んだ範囲で言えば、第3部のインタビュー編でお一人がさっと「果林」の名前を挙げているだけです)、「果林本」を書かせた、と。

 たぶんその通りなんだろーなー、と思います。
 そして、その結果は「ねり」サイドにとっては、思いがけない大きなミスになったと思います。

 前回にも書きましたが、私はまず「果林本」を先に読み結構面白く読み終えた後で、今度は「ねり本」を読んだんですね。でも(「でも」という接続が正しいのかどうか分かりませんが)、「ねり本」もとっても面白かったです。
 だってはっきり言うと、同じ安部公房をテーマにしながら、この2冊は公房に触れている角度がかなり異なっているからですね。
 歴史小説で、司馬遼太郎の描く織田信長も面白く、かつ海音寺潮五郎の描く織田信長も面白いのと同じであります。

 というわけで、私は「ねり本」もとても楽しく読んだのですが、ただやはり、「ねり本」に全く山口果林が描かれなかったことには、いろいろ考えさせられました。

 例えば「果林本」は、約250ページ、定価1500円(税別)なんですね。
 一方「ねり本」」は、約330ページ、定価3200円(税別)であります。
 ざっくりした感じで書きますと、「果林本」は女優の自伝エッセイであるのに対して、「ねり本」は、文学者安部公房についての文芸評論または文学研究書を意識していると思います。たぶん読者のターゲットが異なっています。

 もしそうであるのなら、「ねり本」がまったく山口果林に触れていないのは、評論または研究書としての(学問的)誠実さに欠けはしますまいか。
 少なくとも、作家についての第一次資料としての価値は、このことでかなり下がったとしか言いようがないと思います。(さらに少々厳しい言葉で書いてしまいますと、「歴史の書き換え」なんて言葉が、ちょっと浮かんでしまいます……。)

 実際内容につきましても、晩年の公房並びに公房作品に限って言えば、情報量は「果林本」が圧倒しています。
 例えば「ねり本」では全く触れられていず「果林本」では書かれている安部公房の手術については、最晩年の著書『カンガルーノート』の研究には欠かせないように私は思うのですが。

 ……と、いう風に私は2冊揃えてあれこれ考えながら読んだのですが、しかしねぇ、……うーん、男と女の話というのは、どこでも、いつの世も、なかなか難しいものでありますねぇ。


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