芥川賞ゴシップ

『芥川賞の偏差値』小谷野敦(二見書房)

 私が以前よりぶらぶらと読んでいる「文学」周辺話の一冊であります。
 内容はタイトル通りのものなのですが、おそらくタイトルから想像するよりは、はるかに文壇ゴシップ、芥川賞ゴシップの書かれた本になっています。

 まず、偏差値という数字で各芥川賞作品を評価しているのですが、その評価の基準については、筆者は完全に居直っています。「まえがき」にこう書いてあります。

 なお、お前の判断基準は何なのだ、と問われるかもしれない。かねて言っている通り、文学にせよ音楽、美術、演劇にせよ、普遍的で科学的なよしあしの判断というのはできない。ただ多くの古典的なものや批評を自分で読んだりして、自己の責任で判断するものだ。もちろんその際に、さまざまな批評用語(これは「批評理論」のことではない)を用いて弁論するのは当然のことだ。

 まー、この文章の言っている基本的な論理については、一応私も納得できます。そんなものだという思いを私も持っています。ただ終わりの方に書いてある「批評用語」というものの本書での実践が、あまりに弱いというかしょぼいというかユニークというか、まぁそんな感じであります。

 第一、自分で書いた偏差値の値について(それが高くても低くても)、なぜそうなのかをそもそもほとんど「弁論」していない章が少なくありません。
 例えばこれは吉行理恵の『小さな貴婦人』を論じた章ですが、偏差値は「36」となっています。が、こんな感じで始まっています。

 大学で、教授の息子や娘が大学院へ入ってきたら、その親である教授は論文審査では欠席するのが普通である。高橋源一郎の前の妻が文藝賞の最終選考になった時も、高橋は選考会を欠席した。しかし吉行理恵については、この前に候補になった時、兄の淳之介は棄権の態だったが、欠席はしなかったようだ。あまり騒がれなかったのは、当時、世間が芥川賞にあまり関心がなかったからだろう。

 ここまででこの章の冒頭から4行です。以下この章はあと10行続くのですが、そこには吉行理恵の話も『小さな貴婦人』の話も全くありません。
 まー、上記引用部からでも批評は微妙に読みとれないわけではないですが、それだけで偏差値「36」の弁論とするのは、あまりといえばあまりに乱暴じゃないですかね。

 そんな本でした。ただ冒頭でも触れましたが、芥川賞ゴシップはいっぱい書いてあります。けっこう面白い話が。


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心なごむ懐かしさ

  『中島らもエッセイ・コレクション』中島らも(ちくま文庫)

 たまたま最近続けて図書カードを貰うことがあり、あれは基本的に本屋以外では使いようがないんですよね。
 わたくしは、ここ数年(十数年?)新刊書を扱っている本屋にはあまり行かなかったのですが(だって、近所の新刊書の本屋がどんどん潰れていったものですから)、久しぶりにダラダラと何度か本屋に行きました。

 貰った図書カードなので、普段ならまず買わないだろうなと思う本(自腹の時は、「欲しいけれど、うーん、高いなー」と思う本)を何冊か買って、そしてさらに本屋の中をぶらぶらしていた時に見つけたのが冒頭の文庫本です。

 後書きに書いてあるのですが、中島らもが突然の事故で(しかし生活習慣としては一貫して酒のせいでともいえる形で)亡くなってもう十年以上になるのだなぁと少し感慨を持ちました。

 かつて私は、かなり中島らものエッセイを読んでいました。筆者のエッセイはとっても面白かったです。それに比べると、小説については私はさほど良質な読者じゃなかったことを自認します。もちろん何冊かは読みましたが、どうもかっちりとはそれにはまらなかったです。

 思うに(本当に私が勝手に思っているだけなんですが)、この方はかなり頭の良い人で、併せて読書家ゆえの博覧強記さがあって、しかし小説の実作者としてはそれが想像力を「天翔ける」ところにまで持っていくことを少し邪魔をしたように感じました。なんか、理に落ちたような思いが少なからず残りました。(もちろん知識の集積が想像力をキックするタイプの小説家もいるでしょうが。)
 とにかくわたくし的には少なくない長編小説が、後半失速するように感じました。(私の読み損ないのせいもありましょうが。)

 ところがエッセイの場合は、上記の私の違和感の原因がそのまま魅力の源泉になるように思えます。そしてその頭の良さや博覧強記さを導いているとでも言えそうな「嗜好の方向性」が、私にとってらもエッセイの魅力の中心でした。

 本書においては筆者自身が、「今の自分の中核にあるもの」として「低俗ではなくて反俗、高まいさを求めるのではなくてエンターテインメントを、ヒューマニズムよりはニヒリズムを、涙よりは笑いを」という風に述べています。

 以前何かの本に、どんな人なら親友になれるかという条件の中でもっとも本質的なものは「羞恥心の方向性」ではないか、という文章を読んだことがあります。
 なるほど、何に喜ぶかということも友人を選ぶ際には大切なことでしょうが、何に恥ずかしがるかが大きく隔たった人とずっといる状態というのは、確かに心なごまない気がすると思います。

 エッセイにおいてもそれと同じなのかどうか少々分からないところもありますが、久しぶりに「らも話し」を読んで私は、古い友人と懐かしい心なごむ話をしたような気がしました。


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文士のゴシップ話し

  『文士の私生活』松原一枝(新潮新書)

 この間何となく坂口安吾について書いてある本を読んでいたら、安吾の家は新潟県屈指の資産家であったと書いてあり、へえーっというか、やっぱりねというか、ちょっとそんなアンバランスな感想を持ちました。

 安吾と共に「無頼派」して並び称された太宰治の家も津軽随一の大資産家でありましたし、そもそもそんなことを意識して近代日本文学者のことを調べていると、多くの作家の実家がいわゆる「ブルジョワジー」であるようことに気がつきます。

 しかしそれは、歴史的なものを考えますと、当たり前とも言えそうですね。
 近代明治国家成立以降、昭和30年代くらいまでですか、日本国全体が貧しい中で(最初のうちは後発国として貧しく、後のほうは敗戦国として貧しく)、より上位の学歴を身につけることのできる若者は、資産家の子弟以外にはありません。(もちろん全くないわけではないですが圧倒的少数でしょう。合わせてやはり、最高学歴出身者以外の作家(大学中退者含む)も極めて少数でしょう。)

 というわけで本書ですが、まずこの作者を私は寡聞にして存じ上げませんでした。
 たまたま古本屋で見つけて読んだのですが、昭和初年から昭和40年代くらいまで、筆者がその濃淡はかなりありながら、触れあった文学者の周辺を綴ったものです。
 副題に「昭和文壇交友録」ともあり、その通りだなとも思える、しかしなんと言いますか、やはり「ゴシップ集」のような内容の本です。

 まず登場人物が、文人と金持ちと東大出身官僚しか出てきません。(後、それと被ったり被らなかったりしながら「名家」の人々ですね。)
 そして、そんな趣旨の本ですからそれで好いんでしょうが、例えば、遠藤周作は飛び切りのマザコンであったとか、広津和郎が萬暦赤絵皿を手に入れて自慢していたら志賀直哉に一目で偽物と見破られたとか、そんな面白いと言えば面白い「ゴシップ」が載っています。

 でもそんなのばかり読んでると、少々自己嫌悪になってきます。
 しかしその「自己嫌悪」も含めて、つまりゴシップ話をあまり沢山聞いていると自分が何だかつまらない存在になったような気がする、ということもまた書かれています。

 そんな本です。
 私の書き方も、なんか微妙にむにゃむにゃしたものになってしまいました。
 自らの「スケベ心」を見透かされたようで、……えーっとそれは、ブーメラン現象とも言え、なかなか困ったものです。


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「やむにやまれず、嘘をつく」

  『やむにやまれず』関川夏央(講談社)

 私には、文学関係の随筆または評論で、フェイヴァレットかつこの人の言うことならと思っている作家が何人かいます。この関川夏央氏もその一人です。漱石や二葉亭四迷、白樺派などのことを書いた何冊かの文春文庫は素晴らしく、とても面白く読みました。

 一方そんな筆者が、文芸評論ではなく時々本にまとめているのが、今回取り上げた趣旨の本で、短編小説のようなエッセイのようなといった文章をいくつか集めたものです。
 タイトルの「やむにやまれず」というのはその後に「嘘をつく」とつながるのだそうですが、実は「嘘」をついている小説めいたところは、今回はあまりおもしろくなかったように思います。

 何と言いますか、何か「テレ」があるんですね。たぶん、「文学」に自分の嗜好があることに照れているのだと思いますが、何かとにかく照れています。
 だから(「だから」というつなぎが適切なのか分からないですが)、小説っぽく描かれる点景に、なんともいいようのない素っ気なさがあり、そしてストーリーも禁欲的に抑えられています。(氏がストーリーテラーとして優れたものをお持ちなのは、名作漫画『坊っちゃんの時代』の原作者としての実力に明らかであります。)

 そんなやや中途半端な感じの本ですが、その中に含まれる文学に関わる蘊蓄と見識は、やはりとても素晴らしいと私は思います。(一つのお話の中に、そんな部分がけっこう出てくるんですね。)
 例えばこれは、三島由紀夫が自殺の日に完成させたとされる『天人五衰』について触れたところですが、こんな感じに書かれています。

 その朝、三島由紀夫は『天人五衰』の第二十六章から末尾まで、百四十枚分の原稿を新潮社の編集者に託した。おそらく原稿そのものはもっと前に書かれ、その日に記されたのは〈「豊饒の海」完。/昭和四十五年十一月二十五日〉の二行だけだった。
 私はゲラはどうしたのだろう、と考えた。ゲラはとらないで死んじゃうのか。初校に直しを入れて、ようやく原稿になるのが普通だというのに。ゲラなしで百四十枚分の完成原稿とは、そいつは過剰な完璧さだ。おい、よせよ、それじゃ疲れるだろう。同情に堪えない。


 こういった、知識と感覚と見識がセンチメンタリズムにくるまれて描かれるところに関川作品の際立った特色があると私は考えるのですが、きっと関川氏自身はそこにこそ「テレ」を覚えるのでしょう。
 その感性もまた、極めて文学的な表現のあり方だと思うのですが……。


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2冊揃うとなかなかあれこれ考える(後編)

  『安部公房とわたし』山口果林(講談社)
  『安部公房伝』安部ねり(新潮社)


 前回の続きであります。
上記2冊の本をわたくしこの度読んだのですが、この2冊の本の発行日時は、「果林本」2013年8月、「ねり本」2011年3月と、なっています。

 アマゾンの書評欄でも既に多くの指摘がありますが、「ねり本」で山口果林に全く触れていないことが(私が読んだ範囲で言えば、第3部のインタビュー編でお一人がさっと「果林」の名前を挙げているだけです)、「果林本」を書かせた、と。

 たぶんその通りなんだろーなー、と思います。
 そして、その結果は「ねり」サイドにとっては、思いがけない大きなミスになったと思います。

 前回にも書きましたが、私はまず「果林本」を先に読み結構面白く読み終えた後で、今度は「ねり本」を読んだんですね。でも(「でも」という接続が正しいのかどうか分かりませんが)、「ねり本」もとっても面白かったです。
 だってはっきり言うと、同じ安部公房をテーマにしながら、この2冊は公房に触れている角度がかなり異なっているからですね。
 歴史小説で、司馬遼太郎の描く織田信長も面白く、かつ海音寺潮五郎の描く織田信長も面白いのと同じであります。

 というわけで、私は「ねり本」もとても楽しく読んだのですが、ただやはり、「ねり本」に全く山口果林が描かれなかったことには、いろいろ考えさせられました。

 例えば「果林本」は、約250ページ、定価1500円(税別)なんですね。
 一方「ねり本」」は、約330ページ、定価3200円(税別)であります。
 ざっくりした感じで書きますと、「果林本」は女優の自伝エッセイであるのに対して、「ねり本」は、文学者安部公房についての文芸評論または文学研究書を意識していると思います。たぶん読者のターゲットが異なっています。

 もしそうであるのなら、「ねり本」がまったく山口果林に触れていないのは、評論または研究書としての(学問的)誠実さに欠けはしますまいか。
 少なくとも、作家についての第一次資料としての価値は、このことでかなり下がったとしか言いようがないと思います。(さらに少々厳しい言葉で書いてしまいますと、「歴史の書き換え」なんて言葉が、ちょっと浮かんでしまいます……。)

 実際内容につきましても、晩年の公房並びに公房作品に限って言えば、情報量は「果林本」が圧倒しています。
 例えば「ねり本」では全く触れられていず「果林本」では書かれている安部公房の手術については、最晩年の著書『カンガルーノート』の研究には欠かせないように私は思うのですが。

 ……と、いう風に私は2冊揃えてあれこれ考えながら読んだのですが、しかしねぇ、……うーん、男と女の話というのは、どこでも、いつの世も、なかなか難しいものでありますねぇ。


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2冊揃うとなかなかあれこれ考える(前編)

  『安部公房とわたし』山口果林(講談社)
  『安部公房伝』安部ねり(新潮社)


 きっかけは、何と言っても立ち読みでの「果林本」の写真ですよねー。
 まず表紙のカバーに写っている4枚の写真が実に素晴らしい。
 写真についてさほど知識や興味のある私ではないですが、この圧倒的にかわいい写真はかつて私が過去に見たことあるものになぞらえると、篠山紀信のアイドル写真ですかねー。
 あの方はアイドル写真を一杯撮っていらっしゃいますが、何も分からない素人の私が見てもどきっとするほど綺麗な写真がありました。今回もそんな感じ。

 安部公房が写真に嗜好があり、本職並みの技術をお持ちであったというのは有名な話ではありますが、やはりこれだけ瑞々しい写真が撮れたというのは、写真家と被写体の間にしっとりと深い人間関係があることを充分に示してくれそうです。

 で、立ち読みで続いて1、2ページ開くと、そこにはさらにどきっとする写真があるのですが、まー、冷静に考えてみれば、インパクトはやはり表紙裏表紙の写真の方が強い。少なくとも私にとって、本書を買おうと思わせたのはこちらの方の写真でありました。

 というわけで私は「果林本」の方から読みました。
 面白かったですねー。上記に触れたように読む前から写真によって少々バイアスの掛かっていた読書でありましたからそう思うのかも知れませんが、筆者の素直な書きぶりにとても好感が持てました。

 そして次に私の興味は、当然のように「ねり本」へと向かいます。
 わたくし、この2冊についてアマゾンの書評をじっくり読んでみたんですね。
 アマゾンの書評といえば、玉石混淆、というか、石石石石石石石石石石玉石石石石石という感じではありますが、何というか、決して完全に無視しきれない感じがあります。
 その感じについて、私は先日「劣情」という二字熟語にたどり着いてのですが、「劣情」って、ありますよねー。私の中にもたっぷりあります。

 ただ、ずーーっと劣情だけで物事を判断していないのも事実でありまして、私は、冒頭の2冊の本のアマゾン書評を読んで、私としては劣情以外の部分で、「ねり本」も買って読んでみようと思ったのでありました。

 この話、続きます。


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ひさしぶりに俳句について書いてある本を読んでみた

  『子規のココア・漱石のカステラ』坪内稔典(NHKライブラリー)

 ぼそぼそと俳句めいたものを作りつつ、十年くらいになります。
 一方で、本を読むことも好きです。
 じゃあ、俳句に関する本を読むかと言えば、あまり読みません。読めば役に立つ、あるいは楽しいだろうとは思いながらも、何となく、あまり読みません。
 まぁ、そのうち読むだろう。後の楽しみ、と考えています。

 と、振ったところで、上記の本を読みました。坪内稔典氏といえば、上記の理由で現代俳人についてほとんど知らない私でも、こんな氏の俳句を知っています。

   三月の甘納豆のうふふふふ
   桜散るあなたも河馬になりなさい
   睡蓮へちょっと寄りましょキスしましょ


 実に何とも説明し難い俳句ではありますが、しかし、爽やかな風がふっと吹き過ぎるのを感じますね。
 この「爽風」こそが、この俳句の価値なんですねー。これはなかなか誰にでもできる芸ではありません。

 と言う俳人の楽しいエッセイ(ほとんどが俳句に絡んだエッセイ)を読みました。
 とっても楽しく読んだのですが、少し気になるところなんかもあったりして、例えば、こんな部分です。
 正岡子規の有名な句「いくたびも雪の深さを尋ねけり」に関して、このように書いてあります。

 もっとも、子規は、はっきりと病人の俳句としてさきの句を作った。彼の句集では「病中雪」(病中の雪)と前書きがついている。だが、そんな作者の意図を離れて、スキーを気にする俳句だとか、雪国に心づかいをする俳句だとか、ともかくいろいろに読めるところにこの俳句の魅力があるのではないだろうか。もちろん、私の俳句だってどんなふうに読まれてもいい。

 どうですか? なるほど、芸術鑑賞の自由さという意味では、大いに納得できそうな論ではあります。
 ただ、少しだけ私が疑問に思うのは、自由に解釈していい部分というのは確かに芸術鑑賞にはありますが、作者の書いたことを無いことにして解釈するというのはどうなんでしょうかね。「この俳句の魅力」とは、そんなところにあるのでしょうか。

 ……まー、それくらい、ええやン、とも思いますし、……でもそこまではなぁ、とも思います。
 いかがでしょうか。


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学問的な情熱について

 年末、「忙中自ずから閑あり」とばかりに何冊か本を読みました。
 とはいえ、やはりあれこれ細かく忙しくはありましたので(「あれやっといて」「ちょっと、これしといて」「えー、まだやってないの」とかいう、例のヤツです)、あまりまとまった難しい目の本は読めませんでしたが、その中から一冊報告いたします。

  『ツチヤ教授の哲学ゼミ』土屋賢二(文春文庫)

 この本は「ツチケンシリーズ」の一冊ですが、今回は大学での「ツチケン」の講義中継という形です。真面目な本です。本来の文春文庫のツチケンシリーズと言えば、多くの方がご存じのように抱腹絶倒のエッセイ集で、既に二十冊近く出ていると思います。

 本書もさほど肩の凝らない本ではありますが、大学の哲学ゼミの実況中継ということで、「あなたの顔も性格もいやだが、あなた自身を愛する」と言われたらどう理解するのかというテーマを、ツチヤ教授と大学生とが討論しています。しつこいようですが、真面目な本です。

 実際、われわれが「そんなこと、当たり前やろ」と考えている事柄のほとんどについて、いちいち立ち止まって考え、確認していくときっとこんなふうになるのだろうなぁと言うことが、分かると言えばよく分かります。そして、まさに哲学的切り込みとはこうあるべきなのだなと言うことも分かります。

 しかしまー、はっきり言うと、ちょっとしんどい。
 非学問的非文化的無教養的に言ってしまえば「そんなテーマに意味あるんかぃ」と、思わず関西弁になってしまいます。「顔も性格もイヤで、ほんだらどこにおのれの好きなとこがあるんかぃ」とどんどん関西弁になっていきます。「目ー開けて寝言ぬかしとったら、しょうちせぇへんどー」
 ……ちょっとしんどいです。

 でもこのしんどさは、きっとすべての学問について言えることでありましょうね。
 本書を読んで私は、昔、理系の研究者に、彼等が行っている実験の気の遠くなるようなマイナーチェンジの繰り返しの話を聞いた時と同じ、恐ろしいほどの膨大な時間と手間を懸けてトライアンドトライを繰り返す学問的執念を感じました。
 だから、私が「しんどい」と感じたのは、これはひとえに今の私に学問的な情熱がないせいでありまして、それは、私が悪いのであります。

   思へば遠く来たもんだ
   十二の冬のあの夕べ
   港の空に鳴り響いた
   汽笛の湯気は今いづこ


 これは中原中也の詩の一節ですが、学問的情熱に対し「思へば遠く来たもんだ」とつくずく感じる自分が、年の瀬に、少々寂しいばかりでありました。


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司馬氏のロマンティックな「才能」

  『司馬遼太郎が考えたこと・第4巻・第5巻』司馬遼太郎(新潮文庫)

 以前に鹿島茂という人の『子供より古書が大事と思いたい』という本を読みまして、この場でも報告もいたしました。この本の中に、「コレクターの心得」とでも言うべきことが書かれてありましたが、もう少し丁寧に説明しますね。

 荒木一郎という元歌手の方ですが、まだご存命でいらっしゃるのでしょうかね。
 確か『いとしのマックス』とかいうタイトルの歌が大昔、ヒットしたような記憶があるのですが、とにかくこの荒木氏が切手収集家で、知る人ぞ知る極めて優秀なコレクターなんだそうです。で、彼が「コレクターの心得」を述べていまして、それが引用されているんですが、こんな3箇条です。

  1.蒐集のフィールドを限定すること。
  2.一件についての購入価格の上限を設定すること。
  3.狙っているものが、向こうから現れてくるまで気長に待つこと。


 これは長期的にその趣味を楽しもうとするためには極めて有効な心得ですね。感心いたしました。

 さて、話は変わりまして、冒頭の司馬氏の随筆集であります。
 既に触れましたようにこのシリーズ本を、最初はわたくし、ブックオフで10冊見つけました。その後も気にして見ていると、やはりあるもので、100円本ではなかったですがさらに3冊見つけました。
 それ以外にも司馬氏の講演集なども2冊購入し、なるほどコレクション対象物というものは、結構自然に集まってくるものであるなーと、荒木理論の正しさを納得しました。おそらく15冊のコンプリートも時間の問題であると想像されます。

 というわけで、冒頭の司馬氏の4.5巻ですが、執筆時期は1970年前後であります。
 万博がありました。大阪でしたので私、万博、10回くらい行きました。
 三島由紀夫が死にました。朝日新聞に生首写真が載りました。でも私は、このころは三島はよく知りませんでした。
 そして70年代が始まり、72年、元日本兵横井庄一さんがグァム島から28年ぶりに帰国されました。司馬氏は名作『坂の上の雲』なんかを書きながら、そんなことに触れています。

 ひとつ、印象に残っていることを挙げますと、作者はこれからの日本はおそらく自殺者が増加するであろうと「予見」しています。この予見は、見事に的中していますね。
 司馬氏が亡くなって以降でも、ずっと年間自殺者数が約3万人から下がらない状況が続いています。

 この「予見」に至る道筋が書かれてあるんですが、小さな話題ではありますが、なるほどと納得できます。実は私が、司馬氏が好きなのはこんなところなんですね。
 思いがけない事柄に着目して、そして一種「当たり前」だが盲点となっている結論を得るという、司馬氏のこの推理力は、なんだかとても「詩的」な才能のように思え、私も含め、司馬氏に根強いファンがいる理由がよく分かります。

 よく言われる「司馬史観」も、もちろん魅力的なのではありましょうが、こういった、ロマンティックな「才能」はやはり侮れないよねーと、つくずく私は感じるのでありました。
 今のところこの辺です。まだ続きが控えています。


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その評価が、分からない。

  1.『働くことがイヤな人のための本』中島義道(新潮文庫)
  2.『人生を〈半分〉降りる』中島義道(新潮OH文庫)
  3.『私の嫌いな10の言葉』中島義道(新潮文庫)


 まず、(1)だけふらっと例の大型古書販売店舗で買ったんですね。タイトルに少し惹かれました。筆者については私は全く知らない人でした。哲学者だそうです。
 で、読み始めたんですが、それが、かなり「いける」んですね。納得できるんです。
 例えば、こんな感じですが。

 もうかなり前になりますが、映画監督の山田洋次が、「不登校」をテーマに映画を撮っていました。その映画の批判に、不登校の子供を持つ母親がこんな内容のことを言っていました。

 「不登校児が旅に出ていろんな体験をして、そして最後には学校に行くようになるという映画は、もう私には沢山なんです。うんざりです。」

 これを聞いて、私は「まー、気持ちは分かるが」といった程度の感想を持ちましたが、このお母さんの言葉は結構長く私の中に残っていました。
 要するに、不登校で悩んでいる本人・保護者などに、「あれこれあっても最後は登校を始めるようになる」という趣旨のものは、あまり参考にならないんだろうなということです。
 しかし、ではどんなのがいいのかと言われると「うーん、わからないな」と、非力な私は全く見当がつきませんでした。

 それが、今回の読書(1)の途中まで、4分の3くらいまでは、「この本はひょっとしたら私の積年の疑問に答えを与えてくれるかも知れない」と、がぜん面白く読みました。

 ところが終盤、「あれー」「えー」「なに、これ」になっちゃったんですねー。
 なぜなら、「哲学しなさい」とか、書いてあるわけです。
 私は、それはないだろーと思いまして、わけわかんなくなりまして、この3連休またブックオフで探してそして(2)(3)を買ってきて読んだんですね。
 で、分かりました。

 この筆者は「エゴイスト」なんです。少なくとも筆者のスタンスは「エゴイスト」的思考にあると思いました。
 でもねー、さらに(3)なんかを読んでいきますと、どうもそれも本を売るための「演技」であるような気もしてきて、とにかく私は、「だまされた」という気持ち→腹立たしい気持ち→そして「この人はコメディアンか」ととうとう微笑ましい気持ちへと変化していったのでありました。

 いろいろお聞きしますに、この筆者はなかなかファンのたくさんいらっしゃる方である、と。とすれば、私の読み方が全く見当はずれである可能性も、大いに(めちゃめちゃ)否定しがたく、そういえば、まー、(1)の終盤くらいまでなら結構なかなかよかったと確かに思ったんですがねー。
 どなたかまた、お教えをいただけますなら幸甚の至りであります。


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