文壇ゴシップをなぜ読む

 『病む女はなぜ村上春樹を読むか』小谷野敦(ベスト新書)

 また出所不明のことを書きまして誠に申し訳ありませんが、上記本のような新書のタイトルは、筆者が付けずに編集者が付けるというのを読んだことがあります。
 そーだろーなーと納得するような新書が、私の読書経験にも少なからずあります。(最近はさほどではありませんが、一時期はかなり新書ばかり読んでいました。)

 とはいえ、筆者に完全に断りなくタイトルを付けると言うこともちょっと考えられませんので、たぶん筆者は、まぁそのくらいのタイトルでいいかなと思ったということでしょう。その辺の感覚が、どうもよく分かりません。
 というのも、本書もそんな、タイトルと内容のかなり違うと感じる本だからです。

 この本に書いてあるのは、ざっくりとまとめると以下の2点だと私は思います。
  1、最近の小説に精神を病む女性が頻出するようになったのはなぜか。
  2、私小説のすすめ。

 かなりタイトルと感じが違うでしょ。(これはこれで面白そうでしょ。)
 この内容がなぜ、冒頭のタイトルになるのか、まぁ、あれこれ穿って考えると、一つや二つは理由が浮かばないわけではありませんが、かなり無理筋であります。

 でも、まぁ、いいです。内容の報告に移ります。
 といっても、この筆者の本は、どんなタイトルの本でも書いてある事は、基本的に文壇ゴシップであります。(そんな意味で言えば、確かにタイトルなんて何でもいいのかも知れませんね。)筆者ご本人がそんな方法を取って自分は書くのだと書いてましたから、その通りなのでしょう。「確信犯」みたいなものですね。

 はっきり言いますと、やや品位に欠けます。
 にもかかわらず、私はなぜこの筆者の本を重ねて読むのかと言いますと、一つは、まー、恥ずかしながら私も文壇ゴシップが嫌いではないということ。
 もう一つは、この筆者の文壇ゴシップに対する感じ方感想が、肩肘張らずにとても素直に感じられるからです。(時々、それは書き過ぎだろうという部分もありますが。)

 これはもちろん私の、いわゆる読書経験の貧弱さとか、頭のできの悪さとかが大きな原因なのでありましょうが、様々な評論の類の本に、あまりに外連味のありすぎる表現が横行しすぎているように思います。

 読む側もそんなハッタリだらけの表現、意味なんてほとんど無い表現に、怯えるように慣らされてしまって、とにかく分かった振りをするのがインテリなんだ、高級なんだと思ってしまうわけですね。
 今でもそんなところは残っていますが、かつての私はまさにそうでした。

 先日テレビを見ていたら、美術作品の解説をしていましたが、(まー確かに、美術作品の解説は難しいだろうなとは思いますが、)よく聞いていますと、ハッタリだらけの解説でした。あれって、視聴者を惑わすこと以外に何の意味もないと私は思うのですがねー。

 さて戻って、私にとってのこの筆者の本を読む意味は、そういったところにあります。
 そんな意味では、かなり納得のできる内容です。
 ただ、そんな本ばかり読むことが本当にいいことなのかどうかは、やはり、まぁ、若干細かな判断の必要なところではありましょうが……。


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村
スポンサーサイト

中学生三年生への眼差し

  『ひとり』吉本隆明(講談社)

 親戚に学校図書館に勤めている者がいまして、我が家が、公立の図書館のそばにあることを言ったら、それは利用しない手はありませんと大いに勧められました。

 そこで、家のそばの図書館に行き始めたら、なるほど、これは便利だ、と今更ながらに気づきました。

 昔と違って、家にいるままでも図書館のホームページからいろんな事ができて、書籍をネット経由で予約したら、貸し出し準備ができましたとメールまでくれて、本当に至れり尽くせりです。

 で、そのことを上記の親戚に言いますと、その利用の仕方で結構だが、もっともっと自由に図書館を利用すればいいと、さらにアドバイスを貰いました。

 自由にとは、例えば写真集のたぐいをぼーっと見るために借りる、例えば一冊の本の中の少しだけを読むために借りる、そして、特にお勧めなのはティーンエイジャー用の本で、これはなかなか面白くてためになるとのことでした。

 なるほど、この年になって十代用の書籍を自分が買うことは、まず考えられないなと納得し、そこで借りた一冊が本書です。
 この本は「15歳の寺子屋」というシリーズのものです。寺子屋感覚で15歳、つまり中学校生活最後の生徒たちに語り掛けるというシリーズテーマの本です。

 そんなコンセプトの一冊で、タイトルが「ひとり」で、そして筆者が吉本隆明とくれば、これはどんなことが書かれてあるのかと大いに興味が湧いたのですが、その期待通りのとてもいい本でした。

 本書は基本的に、筆者の半生の経験からの話と、小説に例をとった話で書かれていました。
 ということはつまり、私の興味の「ストライクゾーン」であります。

 例えば芥川龍之介の名作『蜜柑』を論じて、創作の本質は「転換」にあると説いてあったり、森鴎外や夏目漱石は、人の心に無言のうちに溜まっていく微かなものがあることをよく知っていた人だから、相当いい文学者なのだとか書かれています。

 また、自分が15歳だった頃、宮沢賢治をとても熱心に読んでいて、ひょっとしたら自分も宮沢賢治になれるんじゃないかと本気で思い込んでいたとかも書いてあります。

 少しネットで調べたのですが、吉本隆明は2012年に87歳で亡くなっています。本書の初版発行は2010年です。
 「戦後思想界の巨人」と呼ばれ、海千山千のすれっからしのインテリゲンチャのような筆者ですが、亡くなる2年前の、中学生三年生に対する眼差しはとても優しく誠実で、なんだかほっとするような一冊でした。

 なるほど、ティーンエイジャー用の書籍は侮れません。


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

老いの戸惑いをどうする?

 『いつまでも若いと思うなよ』橋本治(新潮新書)

 なかなか刺激的なタイトルですね。
 まー、タイトルもさることながら、筆者について、私は今までに何冊か読んでいましたので、ちょっと癖のある理屈っぽいお方だという印象と同時に、基本的に信じられる書き手であるなという評価をさせていただいておりました。

 だから、そのお方が老いについて書くというので、本書を手に取ってみました。
 考えれば本書を手にする人はほぼみんな同じだと思うのですが、要するに自らの「老い」を相対化できないと感じている人ではないでしょうか。自分が老いつつあることの意味がつかみきれず、もやあーっと不安な方ではないでしょうか。
 本文にも何カ所か、そんな方の、そんな考え方の説明があります。幾つか抜き出してみます。

 「老いた」は分かっているけれども、「老いる」ということがどういうことかよく分かっていないから、「老い」が呑み込めない。「老い」が他人事になってしまう最大の理由は、「老いを他人事にしたいから」ではなくて、「老い」ということがよく分からないからではないかと思いますね。

 (略)自分の年齢が数を増しているという自覚はあるが、その年齢がなにを意味する指標になるのかが分からなくなる。「なんだかやばいような気がする」と思った時は、笑ってごまかしてしまえばいい。

 人間は、自分中心の天動説で生きてるもんですから、「自分は年寄りだ」と思ってそれを認めようとしても、「自分以外の年寄り」は、やっぱりいやで、「他人と同じ年寄り」のカテゴリーに入れられるのがいやなんですね。


 ……と、抜き出していけば切りがありません。そもそも少し異常に感じるほど論理性にこだわって文章を展開していく筆者ですから、くどくはありますが、文脈的には見事に筋が通っており、また、正確であります。

 で、筆者がその見事な論理性で、年老いることの戸惑いを最終的にどう解決してくれるかと言えば、それはなかなかに難しい。
 橋本治氏をもってしても「年老いマニュアル」は提示していただけません。

 それはまー、当たり前なわけで、ない物ねだりであります。
 ただ、あるいはこれかなと思う個所はないでもありません。
 自らの老いに向き合う「マニュアル」。(そもそもこの期に臨んで「マニュアル」をほしがる心根が間違っているというのはわかりつつも、だって、欲しいんだもの。)
 たぶん、ここ。

 「老人というのはどうやって生きるものか?」を考えながら手探りで進むしかなくて、誰もが「自分の老い」に関してはアマチュアだというのは、そういうことなんだろうと思います。

 「手探り」「アマチュア」。
 この2語を本書から貰って、私は少しだけ、ほんの少しだけですが、自分にもやれるかなと期待が持てそうな気がしました。


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

知性のフットワーク、スリリングなゴシップ話

  『ゴシップ的日本語論』丸谷才一(文春文庫)

 「ゴシップ」です。
 「日本語論」です。
 そして丸谷才一とくれば、もう、読むしかないではありませんか。

 私にとってそんなフェイヴァレットな丸谷才一ですが、やはりこの本も堪能しました。
 たくさん出版されている丸谷氏の文庫本エッセイ集については、一時期、少し内容が難しすぎはしないかいと思うような時期があったように思いますが(もちろんそれは物知らずな私にとっての難しすぎるですが)、本書はまたうって変わって、とても面白かったです。

 例えば「折口学的日本文学史の成立」という講演録(國學院大学で行われた「三矢重松博士八十周年祭・折口信夫博士五十周年祭」での講演)が収録されています。(本書のお話しはすべて講演録か対談です。本書が肩肘張らずに読めるのもそのせいがあると思います。)

 冒頭に「折口信夫にはずいぶん熱中しました。」とあって、以下、折口に対するその熱中ぶりが語られるのかと思いきや、話はいきなり『新古今和歌集』にいきます。
 その理由は、「新古今」研究では折口の論がとても立派だからと書かれ、しかしその折口「新古今」論文中最も有名な論文は、実は極めて難解であるため、結局折口全集を全部読まなくちゃならないことになってしまったと、あっけらかんと続きます。

 そして折口をどんどん読んでいくと、それは自然、柳田国男を読むようになり、この二人を精読していくとケンブリッジ学派に到達した、と。
 以下ほぼ残り全部、イギリスのケンブリッジ大学に集まった古典学者達の学問の話を説くという展開の講演になっています。

 ……うーん、何といいますか、もちろんこれは博覧強記、恐るべき博識さの話ということなんでしょうが、むしろ感じるのは筆者のフットワークの良さであります。

 実際それは、肉体をしなやかに使っている躍動感とでもいうべき感覚で、知性のフットワーク、運動神経を感じさせ、まるでスポーツ観戦やバレエ鑑賞のような体験に読者を誘ってくれます。

 本当はここで、本書にある幾つかのドキドキとスリリングな「日本語」や「文学」の「ゴシップ話」を紹介すればいいのでしょうが、それは実際に本書を手に取った方のお楽しみとしておきます。
 いえ、繰り返しますが、本当に堪能しました。


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

漱石没後のあれこれ

 『漱石の印税帖』松岡譲(文春文庫)

 漱石生誕150周年「極私的漱石まつり」第3弾として、前回読んだ漱石の孫娘の親父の本、つまり漱石にとっては娘の連れ合いになる松岡譲の漱石関係エッセイを読んでみました。

 本文中にもそんな話題があるのですが、実はわたくし、何を隠そう漱石の描いた絵を一枚持っていましてね。……ふふ、ふ。
 茄子とキリギリスの絵です。ちゃんと「漱石山人」と名前が書いてあって、印影もあります。……ふふ、ふふふふ。

 ……いえ、まぁ、本当のところを申しますならば、例えば今回のエッセイにはこんな風に書いてあります。

 普通書画屋というと、何だかインチキ商売といったけしからぬ感じを人に与えるのは、表向き大変風流じみた奇麗事であるだけに、それだけ一層皮肉だが、しかし絶対に真物ばかり扱うとなると、多くの書画屋はやって行けないというような妙な皮肉のまわり合わせにならないものでもない。

 さらに、こんな風にも書いてあります。

 (略)それを聞いた他の一人が、そいつは参考に見て置こうと聞いたところへ行って見ると、果して十枚でも二十枚でも、御注文通りいくらでもある。値も一円そこそこの安値。それで値も安い代りには、ものもひどいじゃないかと半畳を入れると、いかもの屋の親父の曰くが振っている。どうせ漱石さんのものを一両や二両で買おうって奴は、物の分かる奴じゃない。そんな奴にゃ真物だって、贋物だって変りはない。値が安くて、名前さえ書いてあればいいんだ。

 ……はは、はは、は。……まぁ、そんなものでしょ。
 わたくしも買った当初から、どーも、漱石にしてはもひとつ品位の感じられない絵のよーだなーと、密かに思ってはいたんですがね。

 というわけで、そんな漱石没後のエピソードがあれこれ書いてあって、わりと面白い随筆集でした。
 いわゆる「漱石山脈」と呼ばれる一連の文人達について、実は私は、なるほど「出藍の誉れ」とはなかなか得難いものなのだなーという認識を、勝手に持っていました。

 そして漱石の亡くなった後の、そんな方々のギスギスぶりについては、あたかも芥川が『枯野抄』で書いたようなイメージで知っているような知らないような状況でしたが、本書には、特に長女筆子と松岡譲と久米正雄について書かれた一文があって、これはなかなか興味深かったです。

 そんな随筆集でした。
 なかなか面白くも、表現者というのはやはり大変だなぁとも思わせる本でした。


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

「夏目鏡子悪妻説」異聞(後編)

 『漱石の長襦袢』半藤末利子(文春文庫)

 前々回の続きです。
 前々回は、漱石の子孫にとって「夏目鏡子悪妻説」がいかに事実を捻じ曲げたものであったかが本書に書かれています、と書いたところで終わりました。
 それは、本書中の「まぼろしの漱石文学館」という随筆を中心に書かれてあるのですが、何か所か一気に抜き出してみますね。

 松岡によれば、漱石は大変魅力的な人であった。彼を慕って集まる弟子達に分け隔てなく接し、質問すれば、真剣に答えてくれたし、小説も懇切丁寧に読んで、的確で細かい批評をしてくれた。弟子達一人一人に「私の漱石」「私だけの先生」という気持を抱かせる人であった。だから小宮豊隆が自分が一番先生を理解していて「自分ほど先生に愛された弟子はいない」と思い込むのは勝手であるが、勘違いも甚だしい愚かな思い上がりにすぎないと私には思われる。

 私は以前、作家高井有一氏の文章教室に通ったことがある。その時高井氏が「しみじみとした人柄を感じさせる文章を読んだからといって、それを書いた人がよい人だなんて思っちゃいけません。騙されてはいけません。いいですか、皆さん、文章と人柄は別なんですよ」と念を押すように言われたことがある。その時、私はなぜか寅彦の顔を思い浮かべた。

 なぜ漱石とは何の縁も所縁もない東北大学にすべての蔵書があらねばならぬのか、その理由が私はわからないでいる。小宮豊隆の勤務先だからという理由だけではとても納得できない。(中略)
 このことについて、小宮はエッセイ「漱石文庫」に、すでに狩野亨吉とケーベル先生の蔵書があるからといって、こう書いている。「狩野文庫とケーベル文庫とがある中に漱石文庫があることは、きわめて自然なことということができる。漱石文庫にもし霊があるとすれば、その霊はむしろ仙台に来ることを喜ぶに違いない」。何と自分に都合のいい我田引水の解釈であろうか。私はあきれ果てると同時に、憤りが込み上げた。(中略)
 「小宮さんが勤め先に手柄顔をしたかっただけの話でしょ。そうやって大学に点数を稼いだわけでしょ。あの人のやりそうなことだわ」と、筆子は思い出すのも汚らわしいという風に険しい表情をした。世俗的な栄誉などにいっさい背を向けて生きてきた漱石の弟子にしてはお粗末というほかはない。

 とにかく古参の弟子達は、漱石が自分達と同等に扱う芥川、久米、松岡、赤木(桁平)ほか若い新しい弟子達の存在が面白くなく、ことあるごとに先輩風を吹かせていたらしい。漱石没後に急速に親しくなった新参者達を親分肌、姉御肌の鏡子は何かにつけて庇っていたという。鏡子にとっては、偉そうにふるまうこうるさい古参連中より自分を慕ってくれる若くていきのいい帝大生達の方をより可愛いと思うのが当然であろう。しかしそれがまた古参連中の神経を苛立たせ、忌々しい悪妻と小癪な若造どもめという図となったに違いない。


 ……どうですか。すさまじい文章ですね。
 では鏡子夫人は実際のところ良妻であったかと言えば、それは決してそうとは言えないようです。本書には、そんなエピソードも結構たくさん書かれています。
 最後にその中から一つだけ紹介してみますね。

 また、こういう処も母の悪妻と呼ばれる所以なのでしょうが、父がスキヤキが美味しいと洩らしでもしようものなら、それこそ、十日でも二十日でも、あきもせずスキヤキを続けます。父もさる者で、こいつ、いつ迄続ける気だ、こっちもこうなったら意地だ、いつ迄続けやがるか見とどけてやれ、というわけで、素知らぬ顔をしてスキヤキ責めに耐えているようでした。(松岡筆子の文章より)

 ……今思えばこの夫婦、おーい、誰か、何とかしてやれよーと、ユーモラスにツッコんであげたくなるような二人ではありますが、ねぇ……。


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

「夏目鏡子悪妻説」異聞(前編)

 『漱石の長襦袢』半藤末利子(文春文庫)

 漱石生誕150周年「極私的漱石まつり」第2弾として、前回は漱石の妻をモデルにした小説を読みましたが、今回は漱石の孫娘(といっても1935年生まれの方です)の随筆を読んでみました。

 ……いやぁ、なかなか面白かったです。
 どこがどう面白かったかといいますと、……えーっと、遡りますれば「夏目鏡子悪妻説」がその発端でしょうが、さらに個人的なことを考えますと、私は今まで直接「夏目鏡子悪妻」を説いた文章を読んだことが多分ありません。もちろんそんな説があることは、よく読んだり聞いたりしていましたが。

 というのは、私はかつて夏目漱石についての評論めいた文章を読み始めた頃に、江藤淳の『夏目漱石』を読みました。そしてたいそう感心し、二つのことを学びました。これです。

 1.夏目漱石は、様々な人間的欠点をたくさん持った作家であった。
 2.夏目漱石の弟子の書いた漱石評伝の類は、客観性にかなり問題がある。


 こんなことを私は漱石体験の比較的初期に学んだので、漱石の弟子たち(特に古参の弟子たち)の漱石関係文章はほぼ読まず、つまり「鏡子悪妻説」の言い出しっぺの一人小宮豊隆あたりの「鏡子悪妻説」の原典には触れたことがなかったわけです。

 ということで、私は今までぼんやり「鏡子悪妻説」というものがあったことを知っているだけでした。さらに現代の文学研究において上記の江藤番号1番は、様々な論証研究の結果ほぼ定説となっていますので、やはりかつてそんな悪妻女房説があったよなー程度にしか考えてなかったわけです。

 ところが今回本書を読んで一番面白かったのは、漱石・鏡子の長女筆子の四女である筆者(とたぶん一族)にとって、「鏡子悪妻説」がいかに許しがたい悪意の塊であって、その汚名の恨みは決して簡単に忘れられるものではないということを知ったことでした。
 それはとてもスリリングな読書であり、わたくしはこの件について、大いに認識を新たにしました。

 例えばこんなことが書いてあるんですが……というところで、……うーん、次回に続きます。
 とにかく、とっても面白かったんですから。


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

別役実の文体マジック

  『満ち足りた人生』別役実(白水社)

 別役実のエッセイには一時期かなりはまりました。
 それは今振り返って思うに、実に実に独特なエッセイであり、まー、よーするに、わたくしのような屁理屈の好きなこじゃれた性格の読者が魅力を感じないではいられないような、まるで新興宗教の教祖様のお言葉のようなエッセイでありました。

 その魅力の説明はわたくしにとって、別役教祖様の霊力に少々不感症となった今でも十分客観的な分析ができるとは思えません。しかしこの度久しぶりに別役エッセイを読んだのでちょっと書いてみますが、おそらく書き出したらきりもまとまりもなくなりそうなので、今回は一つだけ別役マジックについての指摘をしてみたいと思っています。

 一つだけというのは、文体についてです。
 実はこれ一つだけでも魅力を分析できれば十分だと思いますが、さほどに別役エッセイの大きな眼目が文体であります。

 いくつか例を挙げるのがわかりやすいかと思いますが、どこを引用するかについてはなかなか迷うところです。そこで今回は分かりやすく、45個の断片(章)からなっている本書の、各章の冒頭部からだけ少し抜き出してみます。

  歩行

 言うまでもなく、人はまず這うことからはじめる。まれに、横にころがることからはじめるものもいないではないが、そしてこれも、移動という見地よりすればなかなか捨て難い方法であるが、将来性がないせいか、周囲の大人たちによってすぐ修正される。

  読書

 読書というものを、もし字を読むことができるならだが、一度はしてみてもいい。

  失語

 暴漢に鈍器で後頭部を殴打されれば、人はたいてい失語状態に陥るが、これはあまりお勧め出来ることではない。そうしてくれる暴漢がいないのではないものの、奴等は力を加減するということがないから、そこから恢復することが不可能になる場合があるのである。

 三つ抜き出しながらふーむと考えていたのですが、やはりなかなか説明が難しそうですね。で、ふっと連想したことがありました。
 それはかつて赤瀬川原平のエッセイを読んだときにその解説文にあった言葉で、別役エッセイと赤瀬川エッセイは、微妙にかぶるような異なるようなどちらもとても魅力的な文体を持つのですが、その解説文にはこう書いてありました。

 「いい加減な厳密主義」

 なるほど、評論家はさすがにうまく言いますね。赤瀬川文体の魅力の一端が見事につかめていると思います。そしてこの表現は、別役文体の魅力説明にも確かにかすっている感じがします。
 この説明に私があえて付け加えるならば、別役文体は、言葉を重ねることで無意味への嗜好がより強く感じられるように思います。
 この無意味=ナンセンスへの嗜好(=志向)は、もちろん別役氏の「本職」、不条理演劇と強くかかわるものだと思えます。(赤瀬川氏も「本職」はアンデパンダンの美術家でありますが。)

 無意味が無意味を生んで、はらはらしながらいつの間にかカラフルでシュールな仮想空間に迷い込んでしまう、そんな別役エッセイの文体。
 今回わたくしはそれを少し懐かしく読みましたが、同時に感じたのは、この万華鏡のような魅力をいつまでも感じ続けるには、読み手の側にこそいくつになっても不条理であったりアンデパンダンであったりする精神のアバンギャルド性が必要なのではないかという事でした。

 小説家の石川淳は、これを「精神の活動」と呼びましたね。
 これは大いに、自戒であります。


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

「文豪」の徹底的な「家学」

  『記憶の中の幸田一族』青木玉(講談社文庫)

 表紙の筆者名の下に「対談集」とあります。
 わたくしのかねてよりの疑問に、僭越ながらどうして対談集はお互いをあんなに褒め合うのかというのがありまして、本書もやはり少しそんなところがあります。

 まー、「対談集」という本が出るくらいの方が話し手であり聞き手であるわけですから、それなりの実績のある方であることは確かとしても、改めて褒め合うこともないのじゃないかと私は思ってしまうのですが、一般的にはそんなところに違和感はないのでしょうかね。

 という不満めいた事柄をまず書いてしまいました。そんな違和感があるのならなぜ読んだのだというご意見が浮かぶのですが、それはまぁ、「幸田一族」の話しであるゆえですね。

 つまり近代日本文学に嗜好のある(造詣はありませんが)わたくしとして、幸田露伴について詳しく知りたい、と。それも実娘幸田文の本を何冊か読みますと、露伴という人物はかなり、かなり「特異」な方でありそうだ、と。
 本書にも当然ながら果たしてそれが書かれてありました。まずは、こんな感じ。

 それにしても幸田露伴が娘・文になした家学は、なまじのものではなかった。それは「父・こんなこと」(新潮文庫)一冊を読んだだけですぐ分かる。(略)家の中で、父と娘との間で、少しおいて孫娘も入れて、こんな激しい劇がくりひろげられたことがあったのだ。幸田家の家事、しつけは、肉体と心の格闘技であった、と言っていい。

 私が読んだ幸田文の本名も出ていますが、「家学」とありますね。簡単に言えば、家事全般をする際の挙措動作ということでしょうが、露伴という人物は、女は何をするにしてもまずそのサマ(様態)がよくなければならないというふうに考える人で、それを娘、孫に徹底的に仕込んだ(さらには母から娘にも)ということであります。

 それは実際徹底したもので、例えばここは比較的ユーモラスな部分ですがこんな事が書かれてあります。

 あたしが娘になって、女学校になるとグーッと背がのびる。母は、「あんたそこへ立ってごらん」といって自分がその前にやってきて、「断わりなしに、いつから大きくなった」(笑)。そういうとき、ぼんやり「うーん」なんて言ったらダメ。パッと「昨晩」って言うんです。祖父もしょっちゅうそのことを言ってました。パッと斬りかけたら鍋のフタをとってハッシと受ける塚原木ト伝流でないといけない(笑)。

 ……なんというか、なかなか難儀な祖父と母でありますね。露伴についてはさらにこんな風にも書いてあります。

 どこかつむじが曲がっていて、食えないと言えばこのぐらい食えないじいさんもいなかったです。とにかくすごい磁場をもってる人で、その中に入ると、バリバリッと感電するような目に会うんです。

 ……うーん、なんといっても天下の「文豪」ですからねぇ。
 「文豪」といわれるのにふさわしい人物を明治以降の文学者で指を折っていくと、漱石、鴎外ときてその次くらいの方でしょう。そして次4番目を指折るまでに一定の間隔があくような、圧倒的に他から抜きんでた一連の「文豪」です。
 やはり普通の方ではないですよねぇ。

 そんな「文豪」の驚き話が、本書にはいっぱい書かれてありました。
 ただ言わずもがなのことかも知れませんが、娘の幸田文にも孫の青木玉にも、心の深いところには溢れるばかりの露伴(父親または祖父)への「リスペクト」があることは、本書の内容から十分に共感されるものであります。


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

芥川賞ゴシップ

『芥川賞の偏差値』小谷野敦(二見書房)

 私が以前よりぶらぶらと読んでいる「文学」周辺話の一冊であります。
 内容はタイトル通りのものなのですが、おそらくタイトルから想像するよりは、はるかに文壇ゴシップ、芥川賞ゴシップの書かれた本になっています。

 まず、偏差値という数字で各芥川賞作品を評価しているのですが、その評価の基準については、筆者は完全に居直っています。「まえがき」にこう書いてあります。

 なお、お前の判断基準は何なのだ、と問われるかもしれない。かねて言っている通り、文学にせよ音楽、美術、演劇にせよ、普遍的で科学的なよしあしの判断というのはできない。ただ多くの古典的なものや批評を自分で読んだりして、自己の責任で判断するものだ。もちろんその際に、さまざまな批評用語(これは「批評理論」のことではない)を用いて弁論するのは当然のことだ。

 まー、この文章の言っている基本的な論理については、一応私も納得できます。そんなものだという思いを私も持っています。ただ終わりの方に書いてある「批評用語」というものの本書での実践が、あまりに弱いというかしょぼいというかユニークというか、まぁそんな感じであります。

 第一、自分で書いた偏差値の値について(それが高くても低くても)、なぜそうなのかをそもそもほとんど「弁論」していない章が少なくありません。
 例えばこれは吉行理恵の『小さな貴婦人』を論じた章ですが、偏差値は「36」となっています。が、こんな感じで始まっています。

 大学で、教授の息子や娘が大学院へ入ってきたら、その親である教授は論文審査では欠席するのが普通である。高橋源一郎の前の妻が文藝賞の最終選考になった時も、高橋は選考会を欠席した。しかし吉行理恵については、この前に候補になった時、兄の淳之介は棄権の態だったが、欠席はしなかったようだ。あまり騒がれなかったのは、当時、世間が芥川賞にあまり関心がなかったからだろう。

 ここまででこの章の冒頭から4行です。以下この章はあと10行続くのですが、そこには吉行理恵の話も『小さな貴婦人』の話も全くありません。
 まー、上記引用部からでも批評は微妙に読みとれないわけではないですが、それだけで偏差値「36」の弁論とするのは、あまりといえばあまりに乱暴じゃないですかね。

 そんな本でした。ただ冒頭でも触れましたが、芥川賞ゴシップはいっぱい書いてあります。けっこう面白い話が。


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村