『老いを創める』日野原重明(朝日文庫)

 こんどのわたしの誕生日に、わたしはいよいよ逝くだろう、
 わたしは 身近に友らを求める――
 彼らの手のやさしい感触のうちに
 世界の究極の愛のうちに
 わたしは 人生最上の恵みをたずさえて行こう、
 人間の最後の祝福をたずさえて行こう。
 今日 わたしの頭陀袋は空っぽだ――
 与えるべきすべてを
 私は与えつくした
 その返礼に もしなにがしかのものが――
 いくらかの愛と いくらかの赦しが得られるなら、
 わたしは それらのものをたずさえて行こう――
 終焉の無言の祝祭へと
 渡し舟を漕ぎ出すときに。
                   (『タゴール著作集』第二巻「詩集Ⅱ」)

 われ山に向けて目をあぐ、わが助けはいずこより来るか。
                   (『旧約聖書』「詩編百二十一篇」)

 修行者たちよ、苦悩についての神聖な心理というのは……
 この世に生まれることは苦悩であり、年をとることも苦悩である。病気は苦悩であり、死は苦悩である。
                   (『仏教入門』岩本裕)

 神よ、変えることのできないものについては、それを受け容れるだけの心の落ち着きを与え給え。
 変えることのできるものについては、それを変えるだけの勇気を与え給え。
 そして、変えることのできるものと、できないものとを見分ける知恵を授け給え。
                   (『終末論的考察』大木英夫)


   -------------------------

 年を取ってきたせいでしょうかね。こういった言葉を読むと、やたらと感心してしまいます。
 この本には、上記のような警句・箴言があふれています。そして読んでいて、すぐ感心してしまうんですね。

 昔はこうじゃありませんでしたね。この手の、何というか、いかにもエピグラムめいた断章にはかえって嫌悪感のようなものを抱き、「騙されまいぞ」と思ったものです。やはり年を取ったせいでしょうかね。

 少し前は、小さな子どもが不幸になる話に、とても耐えられませんでした。『火垂るの墓』なんて、もーダメでしたね。
 もちろん今でも、子供達は数少ない人類の希望だとは思っているんですが、ちょっと興味の重心が、いわゆる「老い」とか「死」とかに移ってきています。「火急」のことがらなんですかね。

 だから、この本は、面白かったと言えば面白かったんですが、一方で、失礼ながら、このような本をあまり面白がっていてはいけないのではないだろーか、とも。
 上記の「とんがった」部分が、まだ必要なんではないか、と。
 それが無くなりつつあるのならば、うーん、少し困ったものであるような、ないような……。


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テーマ : 読書記録 - ジャンル : 小説・文学

花守の残せし幹の太さ哉

SD花守




 たまに、で申し訳ないんですが、ふと先人の仕事の跡に思い及んで、
 ああ、凄いものだなと感じます。
 本当に、たまに、ですみません。
                              秀水


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鼠蹊部筋肉痛顛末

 先週末、女房に家の周りの「犬走り」に苔が広がって久しいから、デッキブラシで取ってくれと言われました。
 「犬走り」って知っていますか、家の周りに敷くコンクリートのことですね。
 そこを犬が走り回るって言う寸法ですねこれは。

 で、しゃーなしに、ホースで水を出しながらデッキブラシで犬走りをごしごししました。
 エライもので、我が家は築十年あたりですが、苔が黒っぽくずーと一面に、そんなにびっしりではありませんが付いているんですね。

 で、デッキブラシでごしごしすると、なるほど取れました。取れた後は、うーんなるほど、とってもきれいです。で、さらにごしごし。

 しかしこのー、なんといいましょうか、兎小屋のごとき狭い我が家ではありますが、家の周りというのは不思議に4面というか4辺もあるんですね。四角形だからなんですねー。不思議ですねー。

 するとさらにこれがまた、狭いながらもなかなかけっこうな面積を持っております。ウソではありません。なかなかに広いものがあります。狭いが広い、広いが狭いと、『マクベス』の魔女のようなことをいいながら、デッキブラシごしごし。

 はい。しっかり筋肉痛ですわ。というか、関節部が痛いのは、これは加齢・老化のせいですかね。
 鼠蹊部、つまり「お股」んところがとっても痛いんですがー。こういうところが痛いと、歩き方がとてもぎごちないんですね。
 ひょこひょこと生後1年半くらいの幼児の如く歩いております。情けなーー。


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かほどにも待つもののあり春花壇

SD春花壇




 ちょっと自己満足な感じのする句だなーとは思うんですがね、
でも春らしく、ぽやぽやっと、可愛らしく……、ないですかね。

                            秀水


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「月一飲酒」のお話し

 家で日常的にお酒を飲まなくなってもう2年ほどになります。(以前は一年に364日くらい飲んでいました。)
 今の私は、だいたい一月に一回くらいの飲酒アベレージです。

 でも、月一ペースで飲んでいると、その一回がとても愛おしくなりますね。最も楽しく飲める場を自分として取捨選択していくんですね。

 職場のメンバーと飲むのは今ひとつですね。それから最近の私の傾向としては、女性の入ってくる宴も、もうひとつです。それはなぜかというと、これについては明らかに私自身の勝手な理由があります。まぁつまらない理由ではあるんですが……。

 よーするに女性が入ってくると、私自身がつい「受ける話」をしようとするんですね。もういい年をしているんですから、そんな愚かな性格は直さねばいけないとは思いつつ、それができないんですねー。つい、受けようとする。実に難儀な性分であります。情けない。

 でも、そのこと自身はいわば、その場を和ませようとする行為ですから、考えれば、別にそんなに悪いことではないですよね。(論旨がかなり戸惑っています)
 問題は、酒が入っていますから、ついいろいろとやりすぎたりすることなんですね。言わなくてもいいことまで、つい言ってしまったりします。

 そしてそのことを、翌日酒が抜けた後に思い出すのが、もー、実に何とも言いようがないほどうんざりしてしまうんですよねー。我がことながら、もー、勘弁して欲しいという感じですね。自己嫌悪も極まれりという状態になります。

 だから、私自身のわがままな理由で、月一酒宴には、昨今では残念ながら女性同席も少し避けています。実に残念です。特に美人はダメです。美人はいけません。美人とは一緒に飲みたくない。美人は絶対にっ!

 なんか、まんじゅう恐いという話みたいになってまいりました。困ったものです。


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一昨年の色目のままに木瓜の花

SD木瓜の花①




 去年はまったく咲かなかった花が、今年は、少し恥ずかしげに開きました。
 ……、やぁ、久しぶり。
 とっても、うれしいよ。
                            秀水


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フェイバレットなグレン・グールドの伝記を読んでみました

  『グレン・グールド伝』ピーター・F・オストウォルド(筑摩書房)

 僕は、ピアニストのグレン・グールドに対する興味からこの本を読み出したのですが、それ以外のことについてもなかなかいろんなことを触発されました。

 例えば、モームが『月と6ペンス』でゴーギャンをモデルに描いた、人生に食い込んでくるような天才であることの重みといったものと同様のものが、やはりグレン・グールドの物語の中にあることがつくづくと分かります。
 作品の終盤に「グレンは、天才としての重荷を終生担い続けた」という表現がありますが、まさにその通りだと思います。

 しかし別にグールドでなくても、例えば太宰治はどうしてあのような人生の完結のしかたをしたのかと考えるとき、やはり全ての表現者の「生」の中に、上記の言葉は、必ずしも全てにおいて核心ではないまでも、それに近いところに位置していると考えられますね。
 さらにそれを敷衍すれば、それはきっと万人にとっての「生きることの意味」になっていくのだろうと思えます。

 そういうことを、一つ考えていました。

 もう一つ考えていたことは、そもそも、伝記文学なんて読むのはいつ以来でしょうか、最近ではちょっと記憶にないので、ひょっとしたら大学時代に読んだロマン・ロランの『ベートーヴェンの生涯』以来だろうかとか思ったのですが、そもそも伝記文学の意味はなんぞや、ということを少し考えていました。

 もちろん伝記文学にも優れた文学性は、間違いなくあります。
 でもそれは、いったいどこから生まれるものなのか。それは、描かれた人物の人生に負うのか、つまり、描くだけの価値がある(と判断できる)人物のおかげなのか、それとも、対象となる人物の生き方にあまり関わらない、作者の切り込み方・描き方・分析力などによるものなのか、といったことですね。

 でもこれは、よく考えれば、いわゆるノン・フィクション文学すべてにいえることでもあります。
 ただ、今回、読みながらなぜこんな事を考えたかと言えば、事実を語ると言うことは結局は情報量なんだと感じつつも、そのことが作品の構造の上でどんな効果をもたらすのかということに、ふと疑問を感じたからであります。

 例えば、グールドのピアノの力量を描くに当たって、延々と専門的な音楽用語が続く、例えば、グールドが特に晩年依存していた数多くの薬について、その働きを細かく説明する(作者は、医者であり同時にセミプロ級のバイオリニスト)そんな部分をどう考えるのか、ということですね。

 つまり、事実というものは、情報の量の大きさによって決定する。しかしそれを丹念に述べる論理(情報量が事実を再現する理論)は、文学の論理とは自ずと異なるのではないか、という問題であります。

 音楽・医学共に素人の私としては、やや、煩瑣に感じる部分もありました。

 今、ふっと思ったのですが、優れた伝記文学とは、ちょうどグールドに絡めて言えば、バッハの『インベンション』(鍵盤楽器の初心者用練習曲集が同時に極めて優れた音楽性を兼ね備えている)といった感じのものなのかしら。ふむ。


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春色のプロモーションや紅李

SD紅スモモ2




 職場のそばの公園に、満開の木がありまして、つい、知らない人にその名を尋ねてしまいました。

 「紅すもも」

 その後、ネットで調べましたが、なかなか「有名」な花のようですね。

 ところで、この「紅李」は、私の持っている季寄せには載っていないんですが、季語ではないんでしょうか。
 ご存じの方がいらっしゃいましたら、お教えいただけましたらとてもありがたく存じます。

                                     秀水

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正面から「正義」を語るという感動

『罪なくして罰せず』中坊公平(朝日文庫)

 およそ浮き世のことに無知な僕でも、中坊公平氏の御高名はうかがっておりますという感じの、「正義」の弁護士の方のエッセイです。

 最初に書いておきますが、この本を読みながら僕は何度か、目頭が熱くなりました。
 といっても、齢を重ねた結果として、僕の涙腺が緩くなっていることについては自覚しており、(例えばちっちゃな子供が不幸になったりする話だと、もう、だめですね。)そのことがこの本の高評価に結びつくかどうかは、よく分からないところであります。

 ただ、僕が何度か泣きそうになった、いわゆる「正義感」とか、「無私の精神」とかいう、なかなか現実には発現することのない状況は、やはりなんと言っても、時空を越えて普遍的な人間として大切な価値だなと、改めて思いました。

 それともう一つ、改めて私が取り上げるまでもないこの著者の有名な人柄、「反骨」「反権力」について、例えば、こんな風に書いてあります。

 (ある知り合いから聞いた話として)「弁護士というのは日本で生まれた職業ではありません。欧州で生まれたものです。しかも欧州では、弁護士と医者と牧師は『プロフェッション』と称してひとくくりにされ、ビジネスオンリーであってはならないと戒められている。なぜかというと、これらの職業は人の不幸をカネもうけの種にしているからです」

 そして著者は、悪に対抗する一番の武器であり、すべてのエネルギーの源となるものを、

  「自分の仕事にプライドを持つこと」

だと説きます。これは、うならされましたね。
 なかなか、世の中にはすごい人も、まだまだたくさんいらっしゃるようです。
 さて振り返って我が仕事、うーん、全くもって、うーーーーん、うーーーーん、で、ありますなぁ。


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たばかれて仕事抱えて雛の宵

SD雛の宵②




 季節感が、かなり前後しておりますが、「雛の宵」です。
 どうもごめんなさい。

 「たばかれて」というのは、少し言いすぎですが、時々こんな言葉が気になったりします。
 実際は少し、残業しただけですがー。
                            秀水


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