背表紙のヤケ深くして漱石忌

背表紙1句入り2




 はやいもので、もう極月ですか。
 背表紙が、いつの間にか焼けているように……。

                                秀水

    
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テーマ : 俳句 - ジャンル : 小説・文学

困難な時代を生き抜くための想像力

  『生きづらい〈私〉たち』香山リカ(講談社現代新書)

 この本は、内容としてはなかなか「大変」な内容のものでした。
 以前よりいろんな所で同種の言説は聞いたことがありますが、要するに
  日本の若者が壊れ始めている
というものであります。

 「日本の」と書きましたが、さすがにアメリカは「先進国」でありまして、若者の壊れ方についても約10年先んじていると言うことでした。えらいものですね。

 もう少し具体的に言いますと
  (1)「解離」
  (2)生死の境目の曖昧さ

でありましょうか。

 「解離」というのは、「多重人格」というのが一昔ほど前に流行ったことがありましたが、あれがさらに進んでいる(あるいは一般化している)状態をいうんですね。
 「意識」がすぐに途切れる訳です。スイッチのオン・オフとほぼ同様のレベルで、意識が入ったり切れたりする症例が多くあげられています。そして、「どれが自分なのか分からない」「自分がバラバラ」という不安。
 うーん、これって、どういうんですかね。とにかくこの分析が一つ書かれてあります。

 もうひとつの「生死の境目の曖昧さ」というのは、「くじびきの自殺」という言葉でも説明してありました。
 死んでもおかしくない状況にまで自分を持っていき(リストカット、クスリ)、「くじ引き」のように偶然の結果に自らの生死をゆだねる、というものです。うーん、これも、なんなんでしょうかねー。

 でもね、僕はこれを読みながらずっと、頭の中では「太宰治」の名前が響いていたんですね。実際、いろんな症例が書かれてありましたが、はっきり言って、太宰の小説から遙か推し量れないといった感じのものはなかったように思いました。
 しかし一方、だからまー、こんなのは一過性の「麻疹」みたいなものだとも思えませんでした。

 ただ、強く感じたことは、「恐るべき想像力の貧困」であります。
 かつて1970年代、大江健三郎は、現代を生き抜く武器としての「想像力」を説いたことがありました。あれは今考えれば、「文学」が「政治」と差し違えるための武器というような意味ではなかったかと思うのですが、現代は、個体が、その致命的な貧困故に滅びかかっているような気がします。

 では、「想像力」って、さてどのようにすれば身に付くんでしょうか。
 改めて考えてみると、僕はよくわかりません。
 なかなか困ってしまう本でありました。


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テーマ : 読書記録 - ジャンル : 小説・文学

辞世句を戯作してみる

  『辞世のことば』中西進(中公新書)

 これはなかなかいろんなことを考える本でしたよ。
 多分私だけではないはずですが、そもそも「辞世」というものには、なんともいえない「魅力」がありますよね。

 古今東西これに関係する本は沢山上梓されてきていますが、そのことがそれを証明しています。
 僕もいくつか読みました。そんな中では、「辞世」に限ったものではありませんが、山田風太郎の『人間臨終図巻』1~3なんかもとても面白かったですが、本書で中西進氏はまず、人はなぜ「辞世」に強烈に興味をかき立てられるかについてこんな風にまとめています。

 「なぜ死に臨んだ言葉がよいのか、(中略)おそらく死が人間をもっとも純粋にするからであろう。もっとも純粋に自己と対面し、もっとも純粋に自己を訴えようとするのではないか。辞世とは、この純粋な自己発見の言葉である。」

 もっともな文章ですね。僕は思わず、こんな腰折れを作ってしまいました。

   日短し辞世の文を読み居たり

 しかし、そろそろ自分の「辞世」を用意しておく、いや、用意とまでいかずとも、いくつか「原案」の準備を始めておくくらいは、しておいてもいいのではないでしょうや。
 昔から言うではありませんか。生前から戒名を用意しておくと長生きするって。

 えっ? 戒名と辞世は全然違いますって?
 なるほど。では「御参考」ということで、戒名については、それはそれでたくさんのエピソードがありますよね。

 作家・山田風太郎氏は生前に戒名を自分でお作りになって、それでわりと長生きをなさいました。
 渥美清さんも生前にお作りになりましたが、残念ながら生前戒名を作ってもさほどではありませんでした。
 ついでに、私の祖母は、連れ合いが54歳でなくなった時に一緒に戒名を作った後、連れ合いの寿命のダブル・スコア、108歳まで長生きをしました。
 あくまで、ご参考まで。


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クラシック批評「言ったモン勝ち」!?・その3

  『クラシック批評こてんぱん』鈴木淳史(洋泉社新書)


 さて、二回にわたってクラシック音楽批評が「言ったモン勝ち」の世界である現状を「憂いて」きたんですが、しかし、「病巣」はあまりに深く、なかなか治癒すべき妙案は浮かばない状況であるようです。

 私がそんな憂いと共にあった時、そんな時、わたくし、ふと思ったんですね。
 あの、テレビのNHKでやってる「ためしてガッテン」、ご存じですよね?
 われわれが日常生活で時に思ういろんな疑問や、知ると便利な事柄が、「お茶の間科学」のように啓蒙・解明されていくという番組ですね。

 この番組のすごいところは(本当はいろいろと保留・付帯事項もあるのでしょうが)、とりあえず「ためして」つまり実験して、われわれの「かそけき」感覚に客観性を(あたかも黄門さまの印籠の如くに)与えてくれるというところでありまして、ここにこそ大いに視聴者は納得されるんですね。

 えー、「演奏批評」も、せめてこの「ためしてガッテン」程度にはならないものでしょうかね。
 でも「あれくらいの説得力」って簡単に言うけれども、やはり音楽を言葉で表すにはきっと難しいんでしょうねー。

 まー、「演奏批評」なんて、それこそ「テレビガイド」みたいなものだと割り切ってしまえば、なんの問題もないのかもしれませんが、うーん、「権威」に弱い私は、少し困ったことだと思いつつ、今回はルービンシュタインが弾くショパンのピアノ曲をバックに聴きながら、読んでもさっぱり内容のつかめない『レコード芸術』をあちこち読みかじっては、少しため息をついていました。ふー。

 えー、ところで、最近私はマーラーを囓りだしているんですが、マーラーのCDって、どんなのがいいんでしょうか。

 なんて、
 「おいおい上に演奏批評に対して批判的な文章を書きながら、それはないんちゃうか。」
 「あ、そうか。こんな時に、演奏批評って、すっごい便利なんや。なるほどなー。」


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クラシック批評「言ったモン勝ち」!?・その2

  『クラシック批評こてんぱん』鈴木淳史(洋泉社新書)

 さて、前回から、冒頭の本の紹介をしていました。
 なかなか面白い本です。ちまたの「クラシック音楽批評」=「演奏批評」は、「わけわからん」の世界だと書いてあります。

 さて、この本は5つの章から成り立っていますが、僕はその中では、第3章の「日本音楽史私観」というサブタイトルの付いた章が一番面白かったです。

 ここには、前回引用した、何を言っているのかさっぱり分からないような文章が、なぜ「演奏批評」の主流になってしまったのかの歴史についての私見が書かれています。
 その流れの把握はなかなか説得力があってとても面白かったのですが、以下にそれを、少々乱暴を承知で、私なりにまとめてみますね。

 (1)まず始めはこの問いかけでしょうね、やはり。根源はここですよねー。つまり、

    「音楽を言葉で明確に表すことは不可能ではないか。」

 (2)この問いかけを克服すべく、「感覚」と「理論」のどちらかを重視して「音楽批評」をするべしという二つの流派が現れる。

 (3)「感覚派」は、言ったもん勝ちで、その根拠の曖昧さがいかんともしがたく、説得力に大いに欠けてしまった。

 (4)一方「理論派」は、音楽学に基づいて理論を展開しようとするものの、「鯛の旨味を味わうのに、鯛という魚を科学的に分析しても仕方ない」(これは文中に出てくる谷崎潤一郎の『文章読本』の一節)という結果を生み、音楽批評全体の盛り下がり状況を産んでしまった。

 そして(5)混乱の現在に、怒濤のように至る。

 と、まぁ、こんなものですかね。やれやれ。
 うんざりしつつ、次回に続きます。


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テーマ : クラシック - ジャンル : 音楽

クラシック批評「言ったモン勝ち」!?・その1

『クラシック批評こてんぱん』鈴木淳史(洋泉社新書)

 数年前から西洋クラシック音楽鑑賞を再開しまして、平行して、それに関する本などもちらほらと読むようになったのですが、もちろん中にはストンと納得できる本もあるのですが、読んでもなんだかよーわからんという本がとても多く、これは僕のクラシック音楽の鑑賞力・理解力が低いせいであろうとは思いつつも、いや、どーも違うな、何かか、どこかが違うなと思い続けていました。

 で、そんな時に出会ったのが上記の本でした。
 例えばこんな文。

 「ヴァントの導き出すのはたとえようもなくゆっくり、ゆるやかな流れ。舞う指先は、「音楽」をそうっと包みあげ、手のひらからふわふわと解き放つみたい。オーケストラが音を出す人々の集団ではなく「音楽」そのもので、それがシューベルトの「音楽」そのもので、つまり何もかもがすっかり「音楽」。むろんヴァントという存在自体も。静かに寄せては返す歌の波の合間からチェロのピチカートがこぼれてくる時なんて、天空からの神様の涙みたいだった。」(丘山万里子『ブリーズ』2000年)

 何というか、これはかなり極端な例文としてあげられていたものですが、確かに「音楽批評」、いえ正確には「演奏批評」ですか、その「演奏批評」のなかにはこんなのに類する文章が山ほどありますね。

 しかしこれはなんですかね。何を言っているのかさっぱり分かりませんね。
 しかし恐ろしいことに「演奏批評」の「業界」は、このような文章を書くことにひたすら血道を上げてきたと、作者は言っているんですよねー。

 なかなか面白い本なので、次回に続きます。


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三尺に届かぬながら庭紅葉

SD庭紅葉2句入り




 句の通り、我が家の坪庭には三尺に届かぬ紅葉があるんですが、
これがなかなか、綺麗に紅葉してくれないんですね。
 今年の「異常気象」のせいでしょうかねー。

                                  秀水


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自己増殖するCDについて・続き

 最近はさほどでもありません。
 私も亀の歩みながら、少しずつ「大人」になってきておます。
 何の話かと言えば、「自己増殖するCD」についてであります。

 三年ほど前でしたかね。
 かなりCD買いに凝った時期がありまして、ネット・ショッピングです。
 凝っていたといっても私のことですから、そんなに値の張るものをどーんと購入するなんて度胸はありません。日々の食材ですら、値の張る牛肉より安くて体によい鶏肉と、我が家では決まっております。
 所詮そんな程度の「凝りよう」でありますから。で、もっぱら買っていたのは、ボックス・セットってやつであります。

 あのボックス・セットってのは、10枚近くが箱に入っていて、さらにインポートなんかだとすごく安いですよね。
 改めて考えるまでもなく、クラシック音楽なんてもともと本場は外国なんだし、解説などもまぁ日本語で書いてあればそれなりに読んだりはしますが、なけりゃないで別に構いませんものね。読めない英語を眺めていました。

 一枚あたりのCDの値段に換算すると300円前後ですかね。これはデフレの昨今とはいえ、驚異的に安いですよねー。

 そのもう少し以前は、どーせよくわかんないんだからと、クラシック音楽はバッハとベートーベンとモーツァルトそしてオペラだけを聴くと決めていました。だから、その頃はさほどCDを買いませんでした。
 ところが、ひょんなことからブルックナーの交響曲にはまりまして、一気にこのマイ・ルールを改正し、ブルックナーCD買いに走ったんですね。

 するとブルックナー以外にも、なんとなく買ってみようかなと思うCDが山のように出てきました。そして、おのれの鑑賞能力を棚に上げての、ずるずると連続購入と、……うーん、絵に描いたようなアルコール依存状態シュミレーションですなー。
 こういうのを、「物欲」っていうんですよねー。あるいは「玩物喪志」。分かっちゃいるんですがねー。

 もっとも、CDは書籍なんかと同じで、書籍ならば「読む」ですが、CDでは「聴く」という行為に一定の時間が掛かりますので、そう際限なく買い続けるわけにもいかないというところが、まぁ、なんとか歯止めでしたかね。

 現在は、まー、かなり「落ち着いて」います。CD買いもぼちぼちです。
 しかし、次々とCDを「聴かねばならぬ」というのも、どう考えても本末転倒で自業自得とはいえ、なかなか大変なものなんですよ。
 お気楽な話だってことは、まぁ、わかっているんですケドー。


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