打楽器に古典音楽の未来を見る

 先日私は、家の近所にある音楽ホールに「パーカッション・アンサンブル」を聴いてきました。

 なぜ「パーカッション・アンサンブル」かというと、少し前に、私は地域の学校の音楽会でマリンバの演奏を聴きまして、それがなかなか記憶に残っていたもので(その後パーカッションのCDなんかも買ってみたのですが、それはどうももう一つぴんと来ず)、そこでもう一度ライブで試してみようと、まー、そんな切っ掛けですね。

 で、パーカッションの音楽会ですが、それはそれはとても楽しかったです。
 そして私は、楽しく鑑賞しながら、少し前から思っていた事柄に一定の「結論」を得ることが出来ました。

 それは何かと申しますと、いえなに、全然たいした話ではないんですが、あるいは一般的には「常識」になっていることでしょうか、そのあたりの音楽的知識が全くないもので、感覚でしか言えないんですが。
 よーするに、20世紀の音楽あたりから、交響曲の中で打楽器セクションはとっても忙しくなったんじゃないか、ということです。
 どうですか。合っていますか。

 今回の演奏を聴いていて思った、パーカッションの特徴(長所?)をちょっと書いてみますね。

 (1)音色がユーモラスで、カラフルで、かつ素朴。
 (2)演奏者の動作がビジュアルに面白い。


 どうですか、この二つの特徴は、いかにもポップな二十世紀以降の音楽に打ってつけではありませんか。

 それに加えて、そもそも遡って考えれば、何かを叩くと大概何かの音がするというのは恐ろしいほどの素朴さでありながら、それをもって音楽の重要構成要素とするという発想は、複雑かつ難解な20世紀以降の時代の中で、思わぬ窓を開いて爽やかな風が流れ込んだようであります。

 クラシック音楽というジャンルが、「瀕死」と言われてたぶん久しくなっていますが、この度、そんなパーカッションのきわめて現代的な曲を聴いて、そういえばクラシック音楽とは、長い歴史の中で、様々な時代の様々な地域の音楽を、大きな口で飲み込むようにどん欲に咀嚼・吸収していったものであることを思い出しました。

 普段はクラシック音楽の寿命について、もはや尽きかけていると思うことの多い私でありますが、なんのまだまだ若々しくバイタリティあふれるその姿を体験し、少し、いえ、かなり、嬉しく思った次第であります。


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テーマ : クラシック - ジャンル : 音楽

空調に手持無沙汰な団扇かな

uchiwa1句




 実はこの句は去年の句です。
 今年は、こうはいきませんよ。
 電力需要を控えるべく、団扇は八面六臂の大活躍、って、

 ……なんか、考えただけでも暑苦しそーですがー。

                               秀水


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テーマ : 俳句 - ジャンル : 小説・文学

芸術とスポーツについて・その4

 あやっ?
 もう、四回も同じテーマが続いているんですね。「週一」でこの話は書いていますから、もう一ヶ月であります。
 本人も含めて、もうほとんど誰も、最初はどんな話だったかなんて覚えちゃいませんよね。
 というわけで、今回を最終回にしたいと思います。なんとか。頑張って。はい。

 ……で、私は考えたんですがね(えっ? 今回はこんないきなりの「入り」であります。なんせ「忙しい」ですから)、たぶんもうこの辺は、講義を聴きながら私の頭の中はどんどん別のことを考えているという状況であったろうと思うのですが、私はこう考えました。

 まず、「勝ち」は、やはり機能美の一変形であろうと。
 機能性の限界への追求の先に機能美があるごとく、「勝ち」は勝負に対する執着の先に感動と共に現れるものであろう、と。
 だから、「勝ち」は、アラウンド「機能美」であると。

 ここまで考えまして、これはなかなかの分析ではないかと思ったんですね。
 では、今度は「負け」はどうなのか。我々はしばしばスポーツの敗者にこそ、より大きな感動を覚えるのではないかと。これをどう理解するのだ、と。

 うーん。困ったんですね。わたくし。
 しかし、なんか、ちらっと感じるものがある。「敗者」への感動と同種のものを、我々はわりと常時感じているのではないか。
 で、思いついたのは、こういう理論です。

 「負け」とは、「小さな死」ではないのか。

 つまり「負け」の感動とは、「生死の感動(死なない生命はない)」ではないかと。

 やー、我ながら凄い直感力ですね。本当に思わず感動しそうになったんですが、えっ? 何を寝ぼけたことを言っているのかって?

 というような講義を聞いてきました。
 と思うのですがね、さてどこまでが講師の先生の説で、どこからが私の妄想なのか、すでにお断りいたしましたように、もはやよく分からなくなっております。

 本当は、講義自体はさらに続きがあったんですが、私としましては、「小さな死」を発見したところで、その極めて詩的な表現に我ながらうっとりとし、以降、その言葉の周辺をたゆたい続けていたのでありました。

 いやー、なかなか、面白かったです。
 本当に二時間、十分遊べました。


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玄関で主待ちける夏帽子

夏帽子




 そろそろ、もう、そろそろ、かな、と。
 いえ、この年になっても、なんとなく……。

                              秀水


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芸術とスポーツについて・その3

 さて、上記テーマの報告の第3回目になりました。
 妄想は妄想を呼び、話はどんどん横滑りしていっているのですが、とにかく、前々回の最後に触れていたのはこういう事でした。

 「スポーツの美と芸術の美は、極めて近いところに位置している。」

 しかし、じゃあスポーツと芸術は全く同じかというと、やはりそうもいえないわけで、それは「意図する」という点においてそうだと、私はさらに考えたのでありました。

 「意図する」とはどういう事かというと、いえ、簡単な話です。こんな感じ。

   芸術→意図し、追求する芸術性
   スポーツ→結果として現れることもある芸術性


 まー極めて単純な話ですね。
 それによくこの二点を考えていくと、異なっているようにも見えますが、結果から言いますと、ほぼ同じだともいえます。なぜなら、芸術において、意図することと、結果として芸術性が現れることには、相関性があるような気もしますが、あまり無いような気もするからです。
 相関性があまり無いのなら、それは、スポーツの「結果として現れることもある芸術性」とどこが異なるでありましょうか。同じではありませんか。

 というようなことをまず、先生が言ったのか、私が勝手に考えたのか、もはや分からなくなっているのですが、まず一橋頭堡として我が「妄想軍」は進んでいきます。

 ところで、スポーツの感動について、今までの妄想分析には決定的に欠けているもののあることに、多くの方が気付いていらっしゃると思いますが、 いかがでしょう。
 それは、スポーツの感動には、「勝ち負け」の要素が強く係わっているのではないか、その要素は、上記の「肉体美」とか「機能美」では解き切れていないではないかと、そういうことですね。

 まったくそのとおりですなー。「勝負」の視点はスポーツの重要な要素です。そして、スポーツが芸術であるのなら、もちろんそれも芸術性に大きく係わっているべきであろうと。

 うーん、困った。っていうほど困りはしなかったんですが、とにかく私は、更に考えたのでありました。
 と書きつつ、また続きます。すみません。


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きれぎれに流れる雲や梅雨晴れ間

きれぎれ句入




 たとえ梅雨であっても、
 それはすべて一連の自然であるからしまして、
 わたくしは決して嫌いではないんですがー、
 でもふと、……。

                            秀水


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芸術とスポーツについて・その2

 上記タイトルの報告(って、いったい何の報告なんでしょうかね)の2回目であります。前々回は、私には妄想癖があると、確かそんなことを書いていて終わりました。

 何の話かといいますと、実は先日、わたくし、近所の大学の社会人向け講座に参加したら、とても面白い話を聞かせていただきまして、何よりその講義を聞きつつ、私の頭の中に私固有の話がどんどん拡がっていったという、そんな報告を以下に。

 ただ、以下に書くお話はどこまでが講義の先生の言ったことで、どこからが私の妄想のごとき思考であるのか、もはや混沌として表裏一体、うーん、よろしく、眉唾をお願いいたします。

 さて講義のテーマは、冒頭のタイトルにもありますように、「芸術とスポーツ」というものであります。お話しいただいたのは、文学部の美学関係の先生でいらっしゃいました。

 要は、スポーツに芸術のような感動があるとするならば、それは一体どのようなものなのか、それは、芸術の感動とどう異なるのか、というテーマであります。

 先生もそれらしいことをおっしゃったと思うんですが、私がまず考えたのは、スポーツにも間違いなく芸術と同種の感動がある、と、そういうことですね。
 特に、小説なんて読んでいるとそんな感じがしますんですがね。
 では、その感動とは何かというと、この二点ではいかがでしょうか。

 (1)肉体の美しさ。肉体の活動の美しさ。
 (2)技能・技術に対する感動。


 まー、上記二点は、重なりつつ離れつつといったビミョーな位置関係にあるんでしょうが、これは一種の「機能美」ですよね。
 例えば、機能性のみを追求した兵器や武器に一種の美しさを感じると言った。いえ、別にそんな物騒なものを持ち出さなくても、工業デザインに素晴らしい芸術性があることはしばしば我々が経験することでありましょう。

 その「肉体編」ですね。だから、スポーツには明らかに芸術性があると、まー、私は考えるんですね。
 じゃあ、スポーツと芸術は全く同じかというと、やはりそうも言えないわけで、その辺の話を、さらに次々回に。
 どーも、すみません。


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紫陽花や萼のぶんだけ慎ましく

ajisai.jpg




 紫陽花ということで、少し悪のりして、
 文字色まで変化させてみましたが……、

 うーん。

 すみません。

                          秀水


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芸術とスポーツについて・その①

 太宰治の名作『お伽草子』の冒頭に、なぜこんな小説を書くに至ったかといった内容の、序文のような文章が付いています。
 もちろん、小説については海千山千、「すれっからし」のような太宰治ですから、その内容をそのまま信用するわけにはいきませんが、ともあれ、戦時中、空襲警報が出て、防空壕に長く隠れていると、「もう出たい」とむずる幼い娘がいて、それをなだめるために父は絵本を読むのだとあります。
 そしてさらに、原文はこのように続いています。

   ---------------------

 桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。
 この父は服装もまづしく、容貌も愚なるに似てゐるが、しかし、元来ただものでないのである。物語を創作するといふまことに奇異なる術を体得してゐる男なのだ。
 ムカシ ムカシノオ話ヨ
 などと、間の抜けたやうな妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、またおのづから別個の物語が醸せられてゐるのである。


   ---------------------

 この文章の最後の所なんですがね、「胸中には、またおのづから別個の物語が醸せられて」という個所。
 ここ、いいでしょ。実は私も、始終こうなるんですね。

 と言ってももちろん、私の場合は「天才」太宰治とは違って、素晴らしい物語がみるみる湧き上がってくるわけでも何でもありません。(そうであったら、どんなに素晴らしいでしょうね。)

 「妄想癖」

 一般的、世間的にはこういうんですよね。
 しかし、胸中になにやら自ずから別個の物語が醸されて、そしてその中にどっぷりと、波にたゆたうように全身を浸らせる「快感」、これはちょっとやめられませんね。
 まるで、麻薬のようであります。(って、私は麻薬の感覚は寡聞にして未経験なんですが。)

 さて話はそんなところから、始まります。
 といいつつ、次々回に続きます。


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