村上春樹と兵庫県西宮市のこと

 これは少し前のことですが、兵庫県は西宮市というところ(とりあえず全国的に有名な「名所」としては阪神甲子園球場のある市、でどうでしょう。甲子園球場は大阪府にあると思っている方が多いと聞きますが、それは間違い。大阪府と兵庫県の関係は、まー、東京都と神奈川県の関係みたいなものでしょうかねー、って、私は東京都と神奈川県の関係なんて、何にも知らないんですがー)、そこの市立図書館で「村上春樹と西宮・市立図書館」という講演会をしていたものだから、聞いてきました。

 この講演会の面白かったところは、村上春樹の地元の強みの面白さで、氏の小学校の時の同級生の方などが五、六名来られていたことであります。そして、村上春樹の略歴なんかに書いてあることと、事実との相違を正したりしていたのが、とても面白かったです。

 例えば、村上春樹の小学校履歴について、西宮市立香櫨園(こうろえん)小学校入学・卒業と書かれてあることが多いのですが、実は村上春樹の入学した小学校は同じ西宮市立でも、香櫨園小学校から500メートルほど離れたところにある浜脇小学校なんですね。

 ところが、春樹少年が3年生になった時に、近くに香櫨園小学校が新設され、校区が二つに分かれ、春樹少年達は4月新学期、浜脇小学校の校庭でみんなでお別れ会をし、そしてみんなそろって香枦園小学校に移って行ったというわけだそうです。

 ところで、春樹氏の一番新しい小説『1Q84』にも出てくるし、デビュー作『風の歌を聴け』にも出てきた「山羊」、あれの少なくともイメージ的なモデルが、実はこの小学校話と絡んで出てくるということが、この講演会で話されました。

 それは、上記の「お別れ会」の写真が残っているんですねー。
 浜脇小学校の校庭でお互いにさよならの挨拶をしあう写真や、集団で香枦園小学校に向かって歩き出す児童達の写真等がスライドで映されました。

 その、香枦園小学校に向かって歩く児童達の集団の先頭に、実は山羊が、写っているんですねー。
 この山羊は、ずっと浜脇小学校で飼われていて、この度の校区分割に際して、新しい方の小学校に移されたわけです。
 なるほどねー。

 ……って、だから村上春樹の文学性に新しい発見があるわけでも何でもないですが、でも、なんか、うれしいでしょ。
 『風の歌を聴け』に書かれていた、あのかわいらしくもヘンな「とても人の良い山羊」の場面を、村上春樹氏が、ひょっとして小学校の母校の校庭で飼われていた山羊を思い出しながら書いていたんだとイメージすると、とっても楽しいじゃないですか。ねっ。

 というわけで、そんな話とか、春樹少年が卒業時に卒業文集の巻頭言を書いていたこととか、なかなか春樹ファンにとってはとても面白いお話がたくさんあって楽しかったです。
 よかった。


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張り替えて笑み照り返す障子かな

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 この度、家人の手伝いをして、障子の張り替えをしました。
 しかし、障子の張り替え一つにしても、
 時が変われば変わるものですねー。

 でも、張り替えた後の気持ちよさは、
 今も昔も同じです。

                           秀水


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三島由紀夫の天才性について

 永いあいだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言い張っていた。それを言い出すたびに大人たちは笑い、しまいには自分がからかわれているのかと思って、この蒼ざめた子供らしくない子供の顔を、かるい憎しみの色さした目つきで眺めた。それがたまたま馴染みの浅い客の前で言い出されたりすると、白痴と思われかねないことを心配した祖母は険のある声でさえぎって、むこうへ行って遊んでおいでと言った。

 上記の文は、三島由紀夫の『仮面の告白』の冒頭であります。
 とっても有名な書き出しで、なぜ有名な書き出しかというと、さすが三島由紀夫くらいの天才になると、書かれているとおり、やはり生まれた時から人とは違っているんだなー、生まれた時の記憶があるくらいだから、とみんなに思わしめるような記述であるからであります。(まー、それほど単純でもないでしょうが。)

 しかし少し前ですか、私はネットで、母親のお腹の中にいた時の自分の状態や、聞こえた音や声、周囲の状況などを覚えているという人は、結構たくさんいるという記事を読みました。

 記事によりますと、こうした「胎内記憶」を持つ日本人は、成人では1%程度、未成年では7%程度、幼児になるとその数字は跳ね上がるとあります。

 長野県の保育園児へのアンケート結果によると、胎内記憶があった園児は33%、生まれ出た時の「誕生記憶」のある園児は20%いまして、さらにそのうち、自ら「記憶」を語ったのは9%、残りの大部分はこちらから聞いたら答えたというケースだったという、なかなか興味深いものであります。

 しかし、えー、とすると、何ですか、生まれた時の記憶があるというのは、さほど珍しいものでも何ともないと言うことですかね。
 うーん、困ったものですねー。(別に困りませんか。)

 三島由紀夫の天才性の「証拠」が一つ減っちゃったような気がして、……いえ私は別に三島由紀夫の小説のファンと言うほどのものではないんですが、なんとなく自分が若い時に凄いなーと思っていた人は、やはりいつまでも凄いままでいて欲しいという、ちょっとしたノスタルジアゆえであります。

 ただ、冒頭の文の少し後に描かれる表現は、さすがに三島由紀夫らしいとっても明晰な描写であります。

 が、私には一箇所だけありありと自分の目で見たとしか思われないところがあった。産湯を使わされた盥のふちのところである。下したての爽やかな木肌の盥で、内がわから見ていると、ふちのところにほんのりと光がさしていた。そこのところだけ木肌がまばゆく、黄金でできているようにみえた。ゆらゆらとそこまで水の舌先が舐めるかとみえて届かなかった。しかしそのふちの下のところの水は、反射のためか、それともそこへも光りがさし入っていたのか、なごやかに照り映えて、小さな光る波同士がたえず鉢合せをしているようにみえた。

 どうです、目の前に見えるが如くとっても上手に書いてありますよねー。
 なるほど、当たり前ながら、彼の天才性は「誕生記憶」故のものではなく、この抜群の筆力故のものでありました。

 一方、上記のネットの記事によりますと、「おなかの中のことを覚えている」と答えた幼児の見た色は、「赤だった」というのが一番多いそうです。


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あるじ似の色づき下手の紅葉かな

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 11月になって、
 まだ9月下旬並みの気温が出る異常気象のおかげで、
 我が家の紅葉は色づき下手であります。

 って、まー、手入れも何にもしない主人のせいですがー。

                             秀水


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息詰めて起立で臨む七五三

 先週末は、うって変わって快晴でありました。
 私は、女房と買い物に行きました。

 行く途中にある神社の境内で菊花展をしているという新聞記事を、ふと思い出しまして、寄ってみました。本当にいいお天気で、多くの七五三の家族が来ていました。

   息詰めて起立で臨む七五三    秀水

 こんな感じの可愛らしい幼児達が一杯いましたが、菊花展のほうは、もうひとつでした。なんか、少ないんですよね、全体に出品数が。
 以前はもっと境内いっぱいに催していたようなイメージの記憶があるんですがねー。
 今回は境内の一画だけでした。

 定年退職後、そこいら中の趣味にやたらと顔を出しているという感じの団塊世代も、菊花なんて、一種メチャクチャ奥の深い世界には、さすがになかなか入り込めないでいるのかも知れませんね。

 そういえば、菊花展の一部に盆栽も展示してあったのですが、私は今回立ち止まって、少し、じーっと見てしまいました。

 盆栽という趣味も、いかがなものかなーかという気が、少ししたんですね。
 でもねー、これも奥の深い世界というか、ほとんどジパングの格調と因果に満ちたような世界ですからねー。
 いかにも島国日本の典型のような趣味であります。
 でもちょっとだけ、今度図書館に行った時にでも、そんな解説書を手に取ってみようかなと思った私でした。

 そんな週末でした。
 相変わらず、なんかフヌケタような週末ですが、でもまー、大概いつもこんなものであります。


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つば広が欲しいと妻が冬帽子

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 帽子というのは、なかなかおしゃれですね。

 もっとも、似合う人とそうでない人がいて、

 私はもちろん後者なんですが……

                              秀水


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「弱肉強食」は本当か。

  『日本語のできない日本人』鈴木義里(中公新書ラクレ)

 上記作品紹介の第三回目になります。
 なかなか考えさせるいろんな事が書いてあるという報告を、過去二回いたしました。それ以外にもいろいろ書いてあるんですが、残りは本書を手にとって直接お読みいただくとして、後一つだけ紹介いたしますね。
 前々回の最後に少しだけ触れました、「平等」についてです。
 筆者はまずこんな風に書き出します。

 だれでも、自分が他の人間よりもともと劣っているかもしれない、などということは認めたくないのだろう。人間の能力は潜在的には同一なのだが、それが家庭環境や教育などの違いによって開花できる人とそうでない人とに分かれるだけで、本当みんな同じなのだと思いたいように見える。

 と、まぁ、ここまではもっともといえばもっともで、でもよく聞くような論調ではないかとも思いますよね。ところが筆者はさらにこう続けていきます。

 だが、これはどう考えても理不尽なことだ。人間も生物の一員である限り、優れた資質をもつものと、そうでないものとが混在しているはずだ。重要なことは、(生物学的に)優れた資質をもつ人間と劣った資質しかもちあわせない人間とが、人間という点ではまったく対等な資格があるという、ある意味では不思議な、しかし、すばらしい思想をもったということだ。
 これは、決して投げ捨てるべき思想ではない。この思想がなぜ大事なのかと言えば、少数の優れた(生物学的な)資質の持ち主が、圧倒的多数のそうでない人びとよりも「人間として」優れているとは限らず、そのような少数の恵まれた資質の人びとが、そうでない人びとを見下すことができないということを教えてくれるからだ。そして、少数の恵まれた資質の人びとのほうが、そうでない人びとよりも充実したすばらしい人生を送れるとは限らない、という事実は、私のような人間にとっては福音のようにさえ感じられる。


 この引用の、前半の終わりから後半の冒頭にかけての認識は、私はとても貴重なものだと思います。
 そしてこの後、この章の最後にはこんな興味深い指摘があります。

 とは言うものの、これは、ある意味では自然に逆らうことかもしれない。たぶん、他の生物では、(生物学的に)優れた資質をもつ個体が劣った個体より幸福な人生(人間じゃないから「人生」というのはちょっと変かもしれない)を送ることができるのだろう。もっとも、他の生物でも実はそうでもないということを生物学者の池田清彦氏は述べており、そうだとすると、優れた資質が幸せにつながらないということは人間に限ったことでないということになる。池田氏によれば、「弱肉強食」が自然界の掟だ、などというのは実は生物の世界では事実ではないのだそうだ(詳しくは氏の『科学教の迷信』、洋泉社、一九九六年、『正しく生きるとはどういうことか』、新潮社、一九九八年などを参照)。

 どうですか。もはやくどくどとは述べませんが、こんな風に書かれておりますと、次はこの池田清彦氏の著書を読まないわけにはいかないではありませんか。

 ……ということで、次はこの本を探しまして、また後日報告できる時を楽しみにします。


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陽をあびて惜しみ色づくいてふかな

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 また暑くなるという、
 ちょっと驚いてしまうような
 日々になっていますが、

 しかし、いいお天気だと、
 本当に気持ちいいですねぇ。
                           秀水


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「PISA」について、また。

  『日本語のできない日本人』鈴木義里(中公新書ラクレ)

 前々回の続きであります。
 前々回は、世の中にはまだまだ面白い本がいっぱいあるという、当たり前すぎる感想を抱いたわたくしでありました、というところまででした。

 今回はその続きです。
 前々回にも触れましたが、それ以外にも、いっぱい面白いことがこの本には書かれてあります。
 例えば、本ブログでも数回前に取り上げた「PISA」について、これは国際経済協力機構(「OECD」)の行っている学習到達調査ですが、この結果発表のある度に、マスコミはわいわいとコメントを加えています。
 (日本はもうダメになったとか、まだ少し頑張っているようだとか、あまりいいコメント、前向きの意見が出ているのは見たことがありませんが。)

 わたくし、これについても、以前より一種不信感を抱いていたものですが、これについても書かれてありました。
 本書にこんな文章を見つけました。(ただ、文脈的にはやはり日本の若者達の読解力は低下しているという文脈ではあります。)

 「読解力」とは当然のことながら、それぞれの言語に依存するものだ。そして、別の言語で表現された文章が「同一の」難易度である保証はどこにもない(内容のほうも本当に「同一」であると言えるかどうかは疑問が残る)。言語Aで表現された内容が言語Bでも同じ「難易度」で表現されるということはあり得ない。したがって、例えばフィンランド語で読んで「分かる」ことと、日本語で読んで「分かる」ことを比較することが、果たして可能なのかどうかは吟味する必要がある。

 ここに書かれてあるのは、「読解力」を国際比較することの難しさでありますね。理数系の問題とは同じように行かないということが書かれています。
 もっとも、そんなことを言いだしたら、ほとんどすべての事柄について、「比較」そのものが難解なものとなってしまいましょうが、やはりここで私が思うのは、「もの差し」を一つと考えてはいけないと言うことであります。

 さて、本書の中で私が最も唸ったのは、実は別の個所でありまして、それは、「平等」について書かれたところであります。

 えー、また次々回に。すみません。


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