イタリア人やドイツ人のように……オペラを聴き始めた頃のこと(4)

 ……えー、前回の続きであります。テーマは、小林秀雄のこのフレーズでありました。

 「彼の音楽は、声帯による振動も木管による振動も、等価と感ずるところで発想されている。」(『モオツァルト』)

 つまり、本当に声と音は、音楽の中で「等価」なものかということなんですが、いくら小林秀雄大先生の主張であっても、どうも私はよく分からないんですね。
 これって、例えばドイツ・リートを聴いていて、単にドイツ語の意味が分からないってことに過ぎないんじゃないか、って思うんですがね。

 もっとも、第三者的に見たほうが物事の本質がよく分かるってことは、いかにもありそうにも思いますが。
 でも実際の所、イタリア人やドイツ人は、歌曲を器楽曲と同じに聴くなんて、そんな聴き方はしているんでしょうか。イタリア人やドイツ人にとって、イタリア語やドイツ語の歌詞は、やはりまずリアルな意味を持つ言語でしょう。器楽曲とは、違いませんかね。

 じゃあなぜ彼らは、なぜ違和感がない(ように見えますね)のか、と。(えーっと、遡っていきますと、この「違和感」、セリフを歌で表す芝居であるところのオペラへの違和感が、もともとのテーマでありました。)

 で、実験してみました。
 どんな実験か。
 大体ご想像がつくとと思いますが、イタリア人にとってのイタリア語オペラ、ドイツ人にとってのドイツ語オペラと同じ状況を体験する、つまり、日本語のオペラを聴いてみたんですね。

  『有間皇子』 福田恒存・原作、松原正・脚本、別宮貞雄・作曲

 間違いなく日本語のオペラです。
 このオペラを、オペラを聴き始めてまだ間がなかった私は、聴いてみたのでありました。

 えーっ! めちゃめちゃ、違和感あるやんけー。
 めっちゃ、きしょく悪いやんけー。

 ……すみません。
 極めて愚かな者の、何にも知らない頃の、何にも考えていない感想ですので、どうか許してやってください。
 とにかくそのころの私は、ごく正直に素朴なところ、そんな風に思ったのでありました。

 えー、次回には、終わりますから……。どうもすみません。続きます。


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村
スポンサーサイト

テーマ : クラシック - ジャンル : 音楽

つましさを願う日もあり桜桃忌

DSCN1027a.jpg




 桜桃忌は、6月13日でしたか、
 ちょっと後れを取ったのが残念です。

 この間も、太宰治の小説を読んだのですが、
 いかにも、
 読者に対するサービス精神があふれていると思いました。

 これって、「つましさ」の形ではないでしょうか。

                                秀水


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

テーマ : 俳句 - ジャンル : 小説・文学

「上演されても眼をつぶって聞く」……オペラを聴き始めた頃のこと(3)

 モオツァルトは、当時の風潮に従い、音楽家としての最大の成功を歌劇に賭けた。そして、確かに、彼の生前にも死後にも、最も成功したものは歌劇であったが、何もその事が、歌劇作者モオツァルトの名を濫用していい理由とはならぬ。わが国では、モオツァルトの歌劇の上演に接する機会がないが、僕は別段不服にも思わない。上演されても眼をつぶって聞くだろうから。僕は、それで間違いないと思っている。
 (略)
 彼の歌劇は器楽的である。更に言えば、彼の音楽は、声帯による振動も木管による振動も、等価と感ずるところで発想されている。彼の室内楽でヴァイオリンとヴィオラとが対話する様に、「フィガロ」のスザンナが演技しない時にはヴァイオリンが代わりに歌うのである。(『モオツァルト・無常という事』小林秀雄)


 この有名な文章を初めて読んだ時(特に「上演されても眼をつぶって聞く」って所ですよね)、私はどんな風に感じたんでしょうか、実はよく覚えていません。
 今読んでみると、いかにも小林秀雄一流の逆説的表現(まー、ちょっと「ハッタリ」めいていますよね)という感じがとてもするんですけれど。

 さて、本文章は前回の続きであります。
 前回私が述べていたのはこんな事でした。
 高校時代演劇部でぶいぶいいわせていた知人の女性がオペラについて、「しゃべる代わりに曲を歌うってすごい違和感だわ」と言ったのに対し、私は反論も出来ず(いかんせん、オペラを聴き始めた頃のことですから)、さらに私自身がオペラを聴いているうちに、確かに彼女の言っていた違和感と同種のものがなくなってきていたことに対して、「そんな簡単に違和感がなくなっていいのか」と思ったという話でありました。

 で、まず思い出したのが、冒頭の小林秀雄の文章だったということであります。
 なるほど改めて考えてみますに、当時の日本の第一流の評論家が(小林秀雄といえばなにしろ、たった一人で日本の近代文芸評論を作ったようなえらい人ですから)、眼をつぶって鑑賞して、それで間違いないと言っているオペラとは、どこかよく分からないところがあるなと、まー、聴き始めたばかりの私はやはり少し考えたのであります。

 問題は、やはり、「歌詞」ですよね。
 小林秀雄は上記文章で声帯も木管も変わらないと言っていますが、これはいくら何でも筆が滑っていませんかね。
 (昔小林秀雄は、文学の神様の様にいわれていた時期があって、とても「批判」なんてできそうもない雰囲気があったんですが、さすがに最近読み直してみますと、とても巧妙に「筆を滑らせて」いることが分かるようで、何といいますか、少し微笑ましくもあるんですがー。)

 ともあれ、本来「意味」を持つ「歌詞」を、音楽的にどう考えるか、というのがポイントではないかと、私は考えました。
 そして、ある「実験」(ってほどのものでは全然ないんですが)をするんですが、……えー、その顛末は、また次回に。すみません。


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

テーマ : クラシック - ジャンル : 音楽

菜は添え木後ろに咲ける額の花

gaku001.jpg




 「菜」というのは野菜のことのつもりであります。
 写真では、トマトの苗ですが、
 ちょっとわかりにくい写真ですね。

 要するに、「花より団子」のバリエーション

 ……って、ことですかね。
                           秀水


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

テーマ : 俳句 - ジャンル : 小説・文学

あの違和感は、何?……オペラを聴き始めた頃のこと(2)

 話はやはり、オペラを聴き始めた頃のこと。
 そのこと(つまり「ぼくサー、最近、オペラ聴いてんだよねー」って、呆れる軽さのことです)を、友人の女性に話しました。
 彼女は、高校時代演劇部でぶいぶいいわせていた方やそうですが、その彼女の曰く、

 「あの、しゃべる代わりに曲を歌うって感覚、わたしすっごい違和感!」

 思いがけない襲撃に驚いた私は、まぁ、ごにゃごにゃと適当に答えまして、この話からトンずらしました。

 でも後で考えてみたんですが、かつて私も、確かに彼女のいっていたような感覚を抱いたことがあった、と。
 でも、いくつかオペラを聴いているうちに、知らない間に、そんな違和感はなくなってきたんですね。なんとなく、これはこんなものだこれでええやん、という感覚になってきたわけです。

 だって、それがまっとうな感覚ですよね。そうじゃなければ、世の中にオペラ・ファンなんて、いなくなっちゃうじゃないですか。
 だから私も、そのように正統的一般的汎用的プロセスを辿ってきたんですよね。
 しかしこの度、彼女にそういわれて、私ははっと思ったわけです。

 そんな簡単に違和感がなくなっていいのか、と。

 なぜ、そんなに簡単に、現実にはあり得ない状況に違和感がなくなるのか。
 それは要するに、そもそも現実自体をしっかり観察してグリップしていないからではないのか。だからそんな曖昧な現実に、たとえ変わった要素が入ってきても、気も付かなければ気にもならない、違和感など覚えようがない、という「軽薄」な状況が現前するのではないか、と。

 ……、まー、本当は、もうちょっと丁寧にあれこれと考えてみたんですがね。
 まず思ったのはこんな事でした。

 例えば、そもそも演劇は現実の疑似空間であるが、一方オペラは音楽会の異空間であるという説明。オペラを聴き始めた頃から、一応は持っていた簡単な私自身の納得事項なんですね。
 つまり、私はオペラの歌詞を言葉として理解しておらず、器楽曲と同様に、またはそれに準ずる音として歌曲を聴いているのだ。だから、この不自然さに違和感がないのだ、と。

 どうです。良い考えではありませんか。立派な説明になっていますよね。
 でも少し考えたら分かりますが、それって、単に私がイタリア語・ドイツ語がわからないってことを言っているだけじゃん、って。

 ……うーん。
 更に私は、あれこれぼつぼつと、考えるのでありました。続きます。すみません。


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

テーマ : クラシック - ジャンル : 音楽

誰が遊ぶために作れる木下闇

koshita005.jpg




 ……一応、「誰」は、
 「た」と読んでいただく、と。
 ま、後は、勘弁してもらって……。

 でも、「木下闇」は、少々、
 看板に偽りありかな、と。
                           秀水


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

テーマ : 俳句 - ジャンル : 小説・文学

まだまだ修行が足りない……オペラを聴き始めた頃のこと①

 さて先日、私は某音楽関係大学に行って、オペラの歌を聴いてきました。
 最近はやりの(最近ってこともなく、かなり前からいろんなところで行なっていますが)、様々な大学が「生涯教育」の一貫として行っている社会人向け講座であります。

 何回かのシリーズなんですが、今回行っていたのでいうならば、講師の先生の話、例えばモーツァルトのいかにも天才めいたエピソードの話とか、謎に包まれたチャイコフスキーの亡くなった原因だとか、そんないろんな音楽家のエピソードの話を交えつつ、演奏や歌唱を聴くというもので、先日はちょうど「オペラのプリマドンナ」というテーマで行なっていました。

 私は客席の一列目のど真ん中に座っていたんですが、ちょうど目の前、3メートルほど離れたところで歌手の方が歌っていらっしゃいました。

 曲は、
  ・『カルメン』より「ハバネラ」「闘牛士の歌」
  ・『椿姫』より「ヴィオレッタとジェルモンの二重唱」
  ・『トスカ』より「歌に生き、恋に生き」
  ・『蝶々夫人』より「ある晴れた日に」「手紙の二重唱」「可愛い坊や」
など、まー、オペラの有名どころの曲ですね。

 最初は私も、「すごい声だなー」と、単純にひたすら圧倒されていたんですが、だんだんと圧倒され慣れてきましてー(ヘンな言い回しですがー)、……しかし、あれ実際、あんまり間近で聴くもんやないですな。
 あの声は、それこそ「メトロポリタン・オペラハウス」みたいなバカでかい劇場で聴くもんであって、3メートルの距離で聴く声やないような気がしました。

 というのも、目の前にいる人は間違いなく日本人、少なくとも東洋人の姿形をなさっていますが、イタリア語の歌を「ベルカント唱法」ってんですか、あれで朗々とお歌いなさっておりまして、初めは素直に圧倒されていたんですがね、なんだかだんだん暑苦しーに思えてきた私は、とうとう最後の方は、少し悲しい気持ちにまでなってきてしまったのを、今でも少し憶えています。
 ……という思い出、実は私がオペラを聴き始めた頃のものであります。

 「まだまだ音楽鑑賞修行が足りない。」

 そんな頃のお話を、もう少し書いてみます。


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

テーマ : クラシック - ジャンル : 音楽

甘夏や 短かき凌ぎやすき 候

natsukan01.jpg




 いやー、全く、
 一年間で一番気持ちのいい季節ですねー。

 ……なんか、前回もそんなこと、
 書いたような気がしますがー。

                            秀水


にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ
にほんブログ村

テーマ : 俳句 - ジャンル : 小説・文学