こんな古いこんなに凄い漫画がある。

  『菜の花畑のむこうとこちら』樹村みのり(朝日ソノラマコミック文庫)

 時々古い漫画が読みたくなります。そんな時現代は便利なもので、アマゾンやオークションでその種の本が簡単に買えます。だから我が家にも、その時々に買った、一緒に並べてみるとあまり纏まりのない何冊かの古い漫画本があります。

 ともあれ今回は「樹村みのり」です。上記に紹介した文庫本は新しい文庫本ですが、収録されている作品は1970年代後半中心の11の短編です。どの作品も私は一度は読んだことのあるものでした。
 そして今回読んでも、とても面白かったです。

 「懐メロ」の流行歌が、現在の流行歌より良いと思うのは、記憶のトリックであるという説を聞いたことがあります。
 そもそも「懐メロ」として現在残っている歌は、時代のヤスリに耐えて残った歌であって、残ったというだけですでに選ばれた曲で、いいに決まっている、と。

 同様の理論を、何年も経って読み返してみたい漫画に当てはめれば、読み返そう(もう一度本を買いなおそう)と思った時点で、すでに読書の快感の再現の準備ができているというわけですか。なるほど、読み直して感心するのも当たり前、ってわけですね。

 まず、絵は、……まー、絵は、作家が自分の個性で書いているわけですから、うまいとかうまくないとか言っても仕方ないかなと思うのですが、例えば、同じく漫画家の鳥山明や大友克洋(このへんの世代の方しか知らないんで、すみません)の絵をうまいというのなら、樹村みのりの絵はあまりうまくないのかも知れません。
 少女漫画的なデフォルメとも思いますが、時に、口が大きすぎる感じです。(でも、モディリアーニの絵を見て、首が長すぎるだろうといっても仕方ありませんものね。)

 一方ストーリーですが、作品中に点在するコミカルな挿話に、時々理に落ちすぎるものがあって、そんなのは少々私の好みに合いません。
 しかし、そんな絵とか挿話を大きく越えた全体の話の流れが強引に持って行く先に、あふれ出すような詩情が待ちかまえており、読者はそこに吸い込まれるように感動・感心してしまいます。実に、見事な力業であります。

 11の短編が収録されていると書きましたが、そのうち7作は連作です。残りの4作中3作は、これは連作ではないようですが、どれも結婚がテーマの作品です。
 残った1作、『おとうと』というタイトルの21ページの掌編ですが、実はわたくし、これが読みたくてアマゾンで探したんですね。

 えらいものですねー。読んでいると昔の面白さがそのまま蘇ってきました。
 この作品は、作者が19歳の時の作品だそうですが、見事な構成力です。何度読んでも感心するのはいったいなぜなのかと思いますが、それがそう簡単には分かりません。ひたすら感心するばかりです。(どなたかぜひ分析していただきたいんですがー。)
 
 そんな作品集でした。
 こんな古い凄い漫画を読んでしまうと、ますますむかーしの、記憶の底の「名作」を、次々探し出して読みたくなってきます。うーん、困った。(別に困りませんか。)


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ひとつとる素手のうれしきプチトマト

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 この句は、
 以前一度アップしたと思いますがー、

 今年の我が家の菜園は、
 キュウリとこれでありまして、

 ……うーん、なかなか、
 おいしそーですよねっ。
                             秀水


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古い漫画の話を(その1)

 文芸評論家の小林秀雄が、こんなことを言っています。

 生きている人間というのはやっかいなものだ。次の瞬間に何をやらかすものやら見当が付かない。その点、死んだ人間は、遙かに人間らしい姿をしている。だとすると、人間とは、人間になりつつある過程の存在のことをいうのではないか、と。

 ……と、思い出しながら書いて、はて、この一文は小林秀雄のどんな文章からの引用だったかと考えれど思い出さず、ただこの表現を坂口安吾が批判している文章なら覚えていて、とすれば、私は直接小林秀雄の文章を読んだのではなく、安吾からの孫引きの部分を覚えているのかも知れません。(坂口安吾『教祖の文学』)

 どちらでもいいようなものの、やはり加齢のせいか、いろんな記憶が混乱しつつあります。
 さて、何のためにこんな話から入ったのか、私は、古い漫画のことを書こうとしていたのであります。

 ……思い出しました。私が書こうと思ったのは、小林秀雄が述べる「生きた人間」より「死んだ人間」というように、古いものの方がよくわかるとは、決して思わないと書こうとしたのでありました。

 つまり今から、先日読んでいた古い漫画のことを書くに当たって、古い作品の方がいいとは全くいうつもりはないとまず述べてから、私の読んだ古い漫画について書こうとしたのでありました。

 人気の新しい漫画には、必ずや人気であることに耐える面白さがあると信じています。
 かつて誰の表現だったか、こんな言い回しを覚えています。(細かな言い回しは違っているかも知れませんが。)

 「まだ『スターウォーズ』を一度も見たことのない人や、まだ泉鏡花の『夜叉が池』を読んだことのない人たちがとてもうらやましい。なぜなら彼らは、これから、この上ないすばらしい楽しみを初体験することができるのだから。」

 ……まだ読まぬ新しい作品もきっと面白いと思います。
 ただ私は、私自身がかつて読んだこんなお話もとても面白かったと、小さな声で語りたいと思います。
 その一回目はこんな作品です。

  『菜の花畑のむこうとこちら』樹村みのり(朝日ソノラマコミック文庫)

 次回に続きます。


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少しずつイタリア人……オペラを聴き始めた頃のこと(6)

 ……えー、毎度ながら、あれこれだらだら述べていた話であります。(ごめんなさい。)
 前回最後に引っかかっていたのは、こういう事でありました。

 「イタリア人がイタリア語を、ドイツ人がドイツ語をしゃべる時の感覚と、日本人が日本語をしゃべる時の感覚は、生理的に大いに異なっているのではないか。そして特にイタリア語はそうじゃないかと思うのだが、『語る』と『歌う』の間にそんなに差がないのではないか。」

 そんなことを考えたわたくしはさらに、だからしゃべる代わりに曲を歌うという構造のオペラに、イタリアの人はさほど違和感を感じないのではないかと思ったのでありました。
 そして、それではイタリア人が、常住坐臥「歌う」ように言葉を「語る」というのは、いったいどんな感覚のものなのだろうかと、大いに興味の湧くところでありました。
 で、ちょっと、いろんなことをしてみたりするんですが……。

 えー、そもそも私は、ひじょーに影響を受けやすい人間でありまして、すぐ「まねしー」をしたくなるんですね。かつて、バッハのカンタータをよく聴いていた時、自分も歌ってみたいものだとすぐ思っちゃうんですね。ところが、根が怠け者である私は、そこでドイツ語をちゃんと学ぼうなどとは決して思わないんですね。
 そこで、聴きながら発音をカタカナでメモしたりしました。

   ジ オン ヘル フィ フェッシャー ズィーンゲン
   ダス フェッフ ビーヴォー フローイデン スプリーンゲーン


 なんてやってました。(上記は『カンタータ140番・第4曲コラール』のつもり)
 この間も、『カルメン』を聴いていて、同じことをやってました。

   ラムー ェ タン ファ ドゥ ボ エーメ イル ナ 
   ジャメスコ ヌ ドゥ ロワ


 (これは『ハバネラ』のつもり。これはフランス語やね。)
 で、こんなことしていると、少しずつ少しずつ、感じてしまうんですね。
 いえ、少しずつ少しずつ、イタリア人になってしまうのですね、これが。
 そして、やっと、私は、このことに気が付いたのでありました。

 「違和感なんて、やっぱりないやん。」

 そしてつくづく、やっぱり本当にドイツ語・イタリア語がしゃべれるとええなぁー、と。


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雨間を待ちてほのかに星まつる

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 ……しかし、なんですか、
 「七夕」というのは、
 やはり秋の季語なんですか。
 わたくし、梅雨が終わらない間の七夕
 というテーマで作っていて、
 ちょっと困った、ような気が、
 したんですがね。
                             秀水


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比較言語論もどきを……オペラを聴き始めた頃のこと(5)

 ……えー、前回の続きであります。同一テーマの文章の4回目になっていますので、今回は必ずや終了させるべく、前回までのまとめはナシにして進んでいきます。すみません。

 さて、日本語オペラ初体験でありました。
 正直、すごく違和感がありました。
 例えば、「さぁ、屋敷に帰ろう」なんて言う発言が、レチタティーボというんですか、高低が付いて

 「や↑し↑き↓に→か↑え→ろ↓う」

 なんて具合になってしまいます。
 イタリア人はこんな感じでヴェルディの『椿姫』を、ドイツ人はこんな感じでモーツァルトの『魔笛』を聴いているのでしょうか。
 そうだとすれば、めっちゃ、変な気がするんですが。もしそれが変じゃないとすれば、……。

 ……うーん、あれこれ、ぐずぐずと、考えたんですがね。
 よくわからないんですがね。
 ただ、少しだけ、こんな事を考えてみました。

 それは、イタリア語・ドイツ語という言語の属性のせい(おおざっぱな言い方をすると、特にイタリア語なんてそうじゃないかなと思うのですが、「語る」と「歌う」の間にそんなに差がないんじゃないかということです)、あるいは、イタリア人がイタリア語を、ドイツ人がドイツ語をしゃべる時の感覚と、日本人が日本語をしゃべる時の感覚が、生理的に大いに異なっているせいではないか、と。

 昔、こんな事を何かの本で読んだのですが。
 例えば、英語の「I」は「私」と訳される。でも、英文には必ず主語が必要なようには日本文には主語が必要ではない。だとすれば、多くの場面で英文に必須とされる「I」と、一般的な日本文においてあまり必要とされない「私」は、吾々は便宜的に対応する単語と理解しているが、この二つの言葉の持つ生理的な感覚は、実はかなり大きく異なっているのではないか、という主旨の文章であります。

 オペラを聴き始めた頃の私は、同じような感じのものが、ここにもなんとなくあるような気がしたのでありました。
 そしてそこから、さらに別の好奇心が、むくむくと生まれてくるのですが……、あ、終わらない。

 ……居直って、次回に続きます。


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