さまざまな しのぎ方して 冬花かな

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 寒さは、
 次の実りへの、
 大切な、

 「一里塚」ですから。
                            秀水


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テーマ : 俳句 - ジャンル : 小説・文学

クラシック音楽コンサートとは何か・後半

  『グレン・グールド――孤高のコンサート・ピアニスト』中川右介(朝日新書)

 上記の本の読書報告の後半であります。
 前回書いていたのは、グレン・グールドはコンサート・ピアニストを自らの意志でドロップ・アウトしたピアニストであり、コンサート活動にかなり嫌悪感を抱いていたと言うことを本書から読んだということでした。

 しかし私はそれを読んで、まぁグールドはちょっと「奇矯」な感じの方だからなぁと思ったのですが、さらにこんな表現を本書から見つけました。

 「前列左手ではご婦人がブレスレットをじゃらつかせ、右手では誰かがスコアを追いつつ(ただしページが間違っている)、プログラムで拍子を取っている(ただし狂っている)。後ろの席では、誰かが駐車場が確保できなかったらしく、そのことを隣の客にぶつぶつとこぼしている」

 これもコンサートに対する不愉快さを語った部分ですね。
 ただし、これはグールドの発言ではなくて、カラヤンの言葉だそうであります。
 もちろんカラヤンは、終生精力的にコンサート活動もしましたし、またこんな発言もあると書かれています。

 「音楽を愛する人たちとの直接的なふれあいをもたないとしたら、われわれの職業に、そして音楽に対するわれわれの不断の努力に、何の意味があろう」

 しかし私が考えたのは、やはり前者の方の発言でありまして、そもそも演奏者が聴衆に対してこのような感覚を抱くクラシック音楽のコンサート活動とは何なのか、ということであります。

 例えば、ポップスのコンサートの場合、演奏者はやはりこんな事を思うんでしょうか。本書にも、ビートルズがコンサート活動をやめたことについて触れてありますが、あれは今後一切行わないと言うのではなくて、事実ビートルズ解散後の4人は普通にコンサート活動をしていたようです。

 さらに例えば、お芝居なんかの場合はどうなんでしょうか。お芝居関係者は、上記のような感想を持つんでしょうか。
 持つような気もしますし、しかし持つとしても、もう少し自分たちの側を見つめ直すようなニュアンスのものが付着するように思うのですが、いかがでしょう。

 しかしこれが、例えば日本の古典芸能と呼ばれるものになったらどうでしょうか。
 なにか、かなり「やばい」感じがしますね。
 実際私もクラシック音楽のコンサートに行って、騒ぎこそしませんがうとうとしたことなど数えきれずありますし、うとうとしてはいけないと必死に我慢したことも多いです。

 そんな風にあれこれ考えていきますと、現代におけるクラシック音楽コンサートというものの位置取りが見えてくるように思います。
 それは、グールドが感じ、コンサート活動をドロップ・アウトした理由とは異なるものではありましょうが、現代においてはやはりかなり特殊なたたずまいであり、今更ながら私は、その未来に少々ネガティブなものを見るのでありました。


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クラシック音楽コンサートとは何か・前半

  『グレン・グールド――孤高のコンサート・ピアニスト』中川右介(朝日新書)

 グールドについて基礎知識をお持ちの方なら、この本のタイトルの副題の方を見て、ちょっとおやっ?と思われると思います。なぜなら、グールドは、コンサートを嫌い、音楽活動の半分くらいの時にコンサート活動をやめたからですね。グールドは、コンサート・ピアニストをやめたピアニストなんですね。

 本書のはしがきに、簡単なグールドの年譜があります。

  1932年 誕生
  1944年 一般の聴衆の前にデビュー
  1956年 レコードが大ヒット
  1964年 コンサートから引退
  1982年 死去

 こんな感じになっています。だからまぁ本書は、あえてみんなの逆を行く、というコンセプトの本であります。
 私は全体としてはとても楽しくこの本を読んだのですが、読んでいる途中、細かい部分について何度か、ふーむと考えることがありました。
 例えばこんな個所なんですが、これは、グールドが、同じくピアニストであるアルトゥール・ルービンシュタインと対談した時のやり取りだそうです。

 グールドが「二度とコンサートはやりませんよ」と断言すると、「君は本当に、聴衆が発する、あのきわめて特殊な気といったものを、ほんの一瞬でも感じたことがなかったのかい」と質問した。
 グールドはきっぱりと言った。「本当になかったのです。実際、聴衆がいるせいでいつも演奏がよくなかったんです。」


 ……どうですか。まぁもっとも、グールドはちょっと、というか、かなりかなり独創的な性格の方であったようですから(もちろん優れた芸術家は、そのほぼすべての方が「独創的な性格」と言えるような気もしますが)ごくごく特殊な意見なんだろうとは、普通は考えるんですけれど。

 ところが、別の個所にこんな事が書いてありました。

 「前列左手ではご婦人がブレスレットをじゃらつかせ、右手では誰かがスコアを追いつつ(ただしページが間違っている)、プログラムで拍子を取っている(ただし狂っている)。後ろの席では、誰かが駐車場が確保できなかったらしく、そのことを隣の客にぶつぶつとこぼしている」

 ……っと、いうところで、すみません。
 次回に続きます。


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学問的な情熱について

 年末、「忙中自ずから閑あり」とばかりに何冊か本を読みました。
 とはいえ、やはりあれこれ細かく忙しくはありましたので(「あれやっといて」「ちょっと、これしといて」「えー、まだやってないの」とかいう、例のヤツです)、あまりまとまった難しい目の本は読めませんでしたが、その中から一冊報告いたします。

  『ツチヤ教授の哲学ゼミ』土屋賢二(文春文庫)

 この本は「ツチケンシリーズ」の一冊ですが、今回は大学での「ツチケン」の講義中継という形です。真面目な本です。本来の文春文庫のツチケンシリーズと言えば、多くの方がご存じのように抱腹絶倒のエッセイ集で、既に二十冊近く出ていると思います。

 本書もさほど肩の凝らない本ではありますが、大学の哲学ゼミの実況中継ということで、「あなたの顔も性格もいやだが、あなた自身を愛する」と言われたらどう理解するのかというテーマを、ツチヤ教授と大学生とが討論しています。しつこいようですが、真面目な本です。

 実際、われわれが「そんなこと、当たり前やろ」と考えている事柄のほとんどについて、いちいち立ち止まって考え、確認していくときっとこんなふうになるのだろうなぁと言うことが、分かると言えばよく分かります。そして、まさに哲学的切り込みとはこうあるべきなのだなと言うことも分かります。

 しかしまー、はっきり言うと、ちょっとしんどい。
 非学問的非文化的無教養的に言ってしまえば「そんなテーマに意味あるんかぃ」と、思わず関西弁になってしまいます。「顔も性格もイヤで、ほんだらどこにおのれの好きなとこがあるんかぃ」とどんどん関西弁になっていきます。「目ー開けて寝言ぬかしとったら、しょうちせぇへんどー」
 ……ちょっとしんどいです。

 でもこのしんどさは、きっとすべての学問について言えることでありましょうね。
 本書を読んで私は、昔、理系の研究者に、彼等が行っている実験の気の遠くなるようなマイナーチェンジの繰り返しの話を聞いた時と同じ、恐ろしいほどの膨大な時間と手間を懸けてトライアンドトライを繰り返す学問的執念を感じました。
 だから、私が「しんどい」と感じたのは、これはひとえに今の私に学問的な情熱がないせいでありまして、それは、私が悪いのであります。

   思へば遠く来たもんだ
   十二の冬のあの夕べ
   港の空に鳴り響いた
   汽笛の湯気は今いづこ


 これは中原中也の詩の一節ですが、学問的情熱に対し「思へば遠く来たもんだ」とつくずく感じる自分が、年の瀬に、少々寂しいばかりでありました。


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