夜目に見て 偲ぶことある 桜かな

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 先日京都に行って来ました。
 わたくし、若い頃、京都で学んでいたことがあって、

 ……んー、
 なんとも、言いがたいですなぁ。

                                  秀水


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2冊揃うとなかなかあれこれ考える(後編)

  『安部公房とわたし』山口果林(講談社)
  『安部公房伝』安部ねり(新潮社)


 前回の続きであります。
上記2冊の本をわたくしこの度読んだのですが、この2冊の本の発行日時は、「果林本」2013年8月、「ねり本」2011年3月と、なっています。

 アマゾンの書評欄でも既に多くの指摘がありますが、「ねり本」で山口果林に全く触れていないことが(私が読んだ範囲で言えば、第3部のインタビュー編でお一人がさっと「果林」の名前を挙げているだけです)、「果林本」を書かせた、と。

 たぶんその通りなんだろーなー、と思います。
 そして、その結果は「ねり」サイドにとっては、思いがけない大きなミスになったと思います。

 前回にも書きましたが、私はまず「果林本」を先に読み結構面白く読み終えた後で、今度は「ねり本」を読んだんですね。でも(「でも」という接続が正しいのかどうか分かりませんが)、「ねり本」もとっても面白かったです。
 だってはっきり言うと、同じ安部公房をテーマにしながら、この2冊は公房に触れている角度がかなり異なっているからですね。
 歴史小説で、司馬遼太郎の描く織田信長も面白く、かつ海音寺潮五郎の描く織田信長も面白いのと同じであります。

 というわけで、私は「ねり本」もとても楽しく読んだのですが、ただやはり、「ねり本」に全く山口果林が描かれなかったことには、いろいろ考えさせられました。

 例えば「果林本」は、約250ページ、定価1500円(税別)なんですね。
 一方「ねり本」」は、約330ページ、定価3200円(税別)であります。
 ざっくりした感じで書きますと、「果林本」は女優の自伝エッセイであるのに対して、「ねり本」は、文学者安部公房についての文芸評論または文学研究書を意識していると思います。たぶん読者のターゲットが異なっています。

 もしそうであるのなら、「ねり本」がまったく山口果林に触れていないのは、評論または研究書としての(学問的)誠実さに欠けはしますまいか。
 少なくとも、作家についての第一次資料としての価値は、このことでかなり下がったとしか言いようがないと思います。(さらに少々厳しい言葉で書いてしまいますと、「歴史の書き換え」なんて言葉が、ちょっと浮かんでしまいます……。)

 実際内容につきましても、晩年の公房並びに公房作品に限って言えば、情報量は「果林本」が圧倒しています。
 例えば「ねり本」では全く触れられていず「果林本」では書かれている安部公房の手術については、最晩年の著書『カンガルーノート』の研究には欠かせないように私は思うのですが。

 ……と、いう風に私は2冊揃えてあれこれ考えながら読んだのですが、しかしねぇ、……うーん、男と女の話というのは、どこでも、いつの世も、なかなか難しいものでありますねぇ。


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2冊揃うとなかなかあれこれ考える(前編)

  『安部公房とわたし』山口果林(講談社)
  『安部公房伝』安部ねり(新潮社)


 きっかけは、何と言っても立ち読みでの「果林本」の写真ですよねー。
 まず表紙のカバーに写っている4枚の写真が実に素晴らしい。
 写真についてさほど知識や興味のある私ではないですが、この圧倒的にかわいい写真はかつて私が過去に見たことあるものになぞらえると、篠山紀信のアイドル写真ですかねー。
 あの方はアイドル写真を一杯撮っていらっしゃいますが、何も分からない素人の私が見てもどきっとするほど綺麗な写真がありました。今回もそんな感じ。

 安部公房が写真に嗜好があり、本職並みの技術をお持ちであったというのは有名な話ではありますが、やはりこれだけ瑞々しい写真が撮れたというのは、写真家と被写体の間にしっとりと深い人間関係があることを充分に示してくれそうです。

 で、立ち読みで続いて1、2ページ開くと、そこにはさらにどきっとする写真があるのですが、まー、冷静に考えてみれば、インパクトはやはり表紙裏表紙の写真の方が強い。少なくとも私にとって、本書を買おうと思わせたのはこちらの方の写真でありました。

 というわけで私は「果林本」の方から読みました。
 面白かったですねー。上記に触れたように読む前から写真によって少々バイアスの掛かっていた読書でありましたからそう思うのかも知れませんが、筆者の素直な書きぶりにとても好感が持てました。

 そして次に私の興味は、当然のように「ねり本」へと向かいます。
 わたくし、この2冊についてアマゾンの書評をじっくり読んでみたんですね。
 アマゾンの書評といえば、玉石混淆、というか、石石石石石石石石石石玉石石石石石という感じではありますが、何というか、決して完全に無視しきれない感じがあります。
 その感じについて、私は先日「劣情」という二字熟語にたどり着いてのですが、「劣情」って、ありますよねー。私の中にもたっぷりあります。

 ただ、ずーーっと劣情だけで物事を判断していないのも事実でありまして、私は、冒頭の2冊の本のアマゾン書評を読んで、私としては劣情以外の部分で、「ねり本」も買って読んでみようと思ったのでありました。

 この話、続きます。


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久々のコンサート、ブルックナーの8番(後半)

 前回の続きです。
 前回は、久しぶりにクラシック音楽のコンサートに行ったら、まぁ、行く前から薄々は分かっていましたが、やたらと長いコンサートで少し困ったという、ちょっと(かなり?)愚かな話をしていました。どうもすみません。
 という反省の言葉の舌の根も乾かないうちに、愚かな話の後半を続けます。

 さて、ブルックナーの交響曲第8番です。
 ふと見るとオーケストラの後部、ティンパニの横に二人の正装の男性が椅子に腰掛けていらっしゃいます。(私の席は2階席だったので、よく見えました。)

 曲が始まっても、お二人は座っていらっしゃいます。第1楽章の間ずっと座っていらっしゃいました。第2楽章に入って、まだ座っていらっしゃいます。そして第3楽章中盤、やおら、お二人がご起立なさいました。手にあるのはシンバルとトライアングル。

 第3楽章に2回、シンバルとトライアングルがほぼ重なるように鳴りました。その時隣のティンパニも鳴っています。なるほど、これでは楽器の持ち替えはできません。
 しかし、それだけでおしまいです。約80分間の曲中に、たった2回だけ。

 ……んー、一体どんなつもりでブルックナーは、ここでシンバルとトライアングルを必要としたのでしょうかねぇ。演奏者のことも、ちょっとくらいは考えたでしょうか。

 かつて、劇作家のつかこうへいが、シェイクスピアのお芝居について、「ちょい役を作りすぎ」と書いていました。
 しかし、クラシック音楽の世界でも普通にそんなことがあるようです。
 そういえば、この正月にテレビで歌舞伎を見ていましたが、やはりちょい役が多すぎると感じました。それにちょい役の人は、カツラがめちゃめちゃ貧相に見えました。いくら何でも主役と扱いが違いすぎるやろー、と。

 と、いうことで、あれこれ感じながら鑑賞したブルックナーの8番でしたが、それなりに良かったけれど、明日、職場のクラシック仲間には、ちょっと長すぎるかなと言うだろうなと思いながら、私はコンサート会場を後にしました。


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