はやりの村上春樹を、わざと少しずらして読んでみました。(後半)

  『グレート・ギャツビー』スコット・フィッツジェラルド(中央公論新社)

 上記翻訳小説の読書報告をしています。
 前々回述べていたことは、村上春樹の、フィッツジェラルドに対する評価は「異常」に高いんじゃないかという、僕の素朴な問いかけであります。(あんまり素朴でもないですかね。)

 そしてその評価のことを、「一般性のある評価」と、とりあえず呼んでみました。
 では、後半。

 この「一般性のある評価」について、ややおおざっぱな書き方をすると、われわれが優れた作品と認めるときの評価の「基準」に、主人公の人格や行動が評価に値するか(または魅力的か)と言うことが、実は大きいような気がします。
 しかもその評価は、文学的・芸術的価値基準と言うよりは、倫理的価値基準においての。

 もちろん『罪と罰』や『パルムの僧院』などを挙げるまでもなく、古今東西の小説の主人公は決して善人ばかりではありません。(「ピカレスク・ロマン(悪漢小説)」というジャンルまであります。)

 でもそのようなものも含めて、(「ネガ」「ポジ」という簡単な解説を加えつつ)主人公の倫理的価値基準が、作品そのものの価値基準に連動している部分がかなりあるような気がします。

 そしてこの小説の主人公ギャツビーに、倫理的価値基準上の高評価を与えることができるとは僕は読めなかった、何より人間的な魅力を感じなかったのですが、うーん、僕の読み違いでしょうかね。

 では村上春樹の、この作品に対する高評価はどこから出てきているのでしょうか。

 ひとつは、おそらく文章力でしょう。文体・文章に対する芸術的評価であるような気がします。例えばそれは、三島由紀夫が述べるところの「細部の美」でありましょうか。

 そしてもう一つは、フィッツジェラルドの人生に対する価値観が、村上春樹のものと一致している故ではないかと僕は考えます。そしてそれは、彼らの一種「恋愛至上主義的人生観」ではないかと考えます。

 どこかに自分にとって100パーセントの異性(価値)がいるという信念。そしてその異性を僕は決定的に失ってしまったという喪失感、ではないかと、僕は愚考します。

 ゆえに、村上氏が力を入れて書くほどに、彼の本作への評価に対して、少なくない人が「困った顔」をして、その高評価についての疑義を問うのじゃないかと思います。

 うーん、なかなか難しくも興味深いところでありますね。

 この本の前の、村上訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は、僕はとても面白く読めたんですがねー。


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テーマ : 読書記録 - ジャンル : 小説・文学

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