『椿姫』は太宰治か

 先日、オペラの公演に行って来ました。
 『椿姫』であります。とってもよかったです。

 ネットで音楽系のブログなどを見ていますと、みなさん、様々な音楽作品をとっても上手に誉めたり批判したりなさっていますが、いかんせん、無知の悲しみ、そんなことが私は上手にできません。

 しかし、タイトル・ロールの女性を始め、だんだんよくなる法華の太鼓のように、幕が重なるほどにどんどんよくなってきたように思いました。後半はとっても盛り上がってきました。
 そして、私は突然気が付いたのですね。
 「うーん、そういうことだったのか」と。

 何が「そういうことか」と蒙を啓かれたかと申しますと、私にとっては本当に、目から鱗が落ちるように、一気に視界が明るくなったことなんですが、一言で言うとこういう事です。

 「オペラと器楽曲とは全く別物である。」

 何を今更と、お思いの方もいらっしゃると思いますが、いえ全くその通りで、私の不徳の致すところとしか申しようがございません。
 えーっと、もう少し丁寧に順を追って説明してみますね。

 事の起こりは、『椿姫』第二幕第一場の、ジェルモンの論理であります。
 ジェルモンは、椿姫=ヴィオレッタの恋人であるアルフレードのお父さんですね。
 パリですっかり「遊び人」になっちゃった「馬鹿息子」アルフレードを田舎に連れ帰るために、ヴィオレッタに「息子と別れてくれ」という、その論理のことであります。

 私は、この場のあの「ねじくれた」論理展開を見ながら、思わず太宰治の『家庭の幸福』を思い出しました。例の有名な結句。

 「家庭の幸福は諸悪の本」

 太宰治は、独特の嗅覚で家族団欒に潜む「非人間性」を抉っていくのですが、しかし、この『椿姫』の「馬鹿親父」ジェルモンの論理は、全く実も蓋もありません。
 こんなあまりにあっけらかんとしたエゴイズムの発露は、見ていてこちらがひたすら恥ずかしくあるのですが、えー、続きは、次々回に。


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テーマ : クラシック - ジャンル : 音楽

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