眩暈のしそうな遙かなる隔たり

 さて、前々回の続きの話であります。
 前々回の話は、オペラ『椿姫』を見た私は、相変わらずのオペラの「非人間的」ドラマツルギーにとっても恥ずかしくあきれた、というところまででありました。

 その中心は、第二幕第一場の馬鹿息子を思う馬鹿親父の理論展開であります。
 全く、あんなエゴイスティックな理論はありません。
 そしてそんな理論がスルーして、何となくそのまま展開してしまうところが、私のイヤなオペラのドラマツルギーの典型的な「非人間性」であると、私はずっと思い続けてきたわけですね。

 ところがしかし、今回はそんなドラマツルギーの「破綻」を見ながらも、その後どんどんよくなる法華の太鼓のように最終幕までいって、その挙げ句私は、とっても面白かったわけですね。そしてその時、突然私は理解したのでありました。

 あのー、ちょっと極端な例えでもって描いてみますが、怒らないでくださいね。それは、こういう事であります。

 「吉本新喜劇を見て、人間が描けていないと怒るものがいるか。」

 いきなり関西系のローカル話題になってしまいました。
 でも何となく、テレビなどに出ている全国レベルの関西お笑い芸人をご覧になって想像がつくと思うんですが、たぶんその想像が正解ですので、どうぞよろしくお願いいたします。つまりこういう事ですね。

 吉本新喜劇→お笑いによる娯楽の徹底的追求
 オペラ→音楽による娯楽の徹底的追求


 こう考えることで私は、以前よりずっと悩んでいた、『蝶々夫人』や『コシ・ファン・トゥッテ』のストーリーの「非人間性」についての考え方が、今回やっと体験的に納得できました。
 それは別の言い方をすれば、オペラにおける音楽以外の要素は、悉く娯楽として音楽にのみ奉仕するものである、ということであります。あたかも、吉本新喜劇の舞台上のすべての物事が、ただ「お笑い」のためだけにあるように。

 ストーリーの非人間性など、気にする方が愚かである。
 音楽の精神性など、犬に喰われてしまえ。

 ということで、私の積年の疑問「その1」が、やっと氷解しました。
 考えてみれば(というより改めて考えるまでもなく)、『蝶々夫人』に描かれる人間性と、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏の精神性の、眩暈のするような遙かな隔たりが意味するものは、二者は全く異なるジャンルの芸術・芸能であると言うしかありませんよね。
 愚かなのは、ひとえに私でありました。

 そしていよいよ次は、私の音楽をめぐる疑問の本丸(積年の疑問その2)、「音楽的才能は人間性に連動しないのか」という件なんですが、これについても、そろそろ何となく「答え」は見えてはきているんですがねー。………。


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テーマ : クラシック - ジャンル : 音楽

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