まずは、古本を巡る徒然話から

  『子どもがニートになったなら』玄田有史・小杉礼子(生活人新書)

 例の、全国展開なさっている大型古書販売店に行きますと、105円で実にたくさんの書籍が販売されています。
 中には、見たところ新品同様の書籍なんかもいっぱいあって、うーん、こんな本を105円で販売されたんじゃ新刊書は売れないだろうなぁと、自分は大型古書販売店のお世話におおいになりながらも、少し心配したりします。

 私のよくお世話になるのは、主に文庫本と新書本なんですね。
 (それ以外の本はめったに買いません。もはやこれ以上、家に一般書籍を置くスペースがないということもありますが、実感的なところで言えば、本当に文庫本と新書本だけで、私の書籍的興味がほぼ満足されているということがあります。しかしこれは、あまり褒められたことではないような気もしますが……。)

 ともあれ、大型古書販売店における文庫本と新書本についてですが、それでも割とよくできたもので、やはり本当に新しい本は105円にはなっていません。
 だいたい定価の半分くらいの値段が付いていますかね。(それでも50%引き!)

 (でも、文庫本に関する私の好みは、古い小説ほど好きという天の邪鬼なものですので、やはり105円本のお世話になることが多いのですが。)

 私は、文庫本では、もっぱら小説をはじめとした文芸書を買い、新書では、これはまー、知識や教養を高めるといいますか、知識教養関係で興味を覚える本を買います。
 もっぱら人文科学・社会科学系の本ですね。

 で、当たり前の話でもあるのでしょうが、知識教養系の本というのは、小説なんかとは違って、あまり古い本だと扱っているデーターが古すぎてしまうという「弊害」が起こります。
 自然科学関係の本なんかはその典型的ですね。

 昔聞いた話ですが、大学の先端科学なんかの話だと、大学の先生が学生に対して、
 「一昨年授業で言っていた説は嘘でしたー。」
みたいなことを、ざらにおっしゃる、と。
 要するに二年くらいも経つと、新しい事実が発見されたりしてしまうというわけですね。
 つまりかつて○であったことが、×になってしまうという、と。

 でもそれが書籍の話なら、古くなっても「古典」なんて呼ばれて、また別の価値の出てくる場合もあったりなんかします。
 先日新聞を読んでいましたら、若者に勧める本として、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』が挙げられているのを見ました。
 この本は環境破壊について書かれた本ですが、たぶん今となっては「とっても古い本」だと思います。しかし、「古典」として今でも現役なんだなーと、私は少し感心しました。
 あ、もちろん、とってもいい本です。

 えー、何の話をしようとしていたのかと言いますと、今回読書報告をするつもりの冒頭の新書の第一刷発行年度が、2005年であるという、その数値についての考察であります。

 この年度数値は、ビミョーに古いと言えば古いですが、例えば夏目漱石の絶筆となった小説『明暗』の、初版発行年よりは遙かに新しい。(当たり前やんか。)

 また、私のCDの愛聴盤である、ギュンター・ヴァントがミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団を相手に演奏した、ブルックナーの『交響曲第九番』の録音年度1998年よりも、やはり新しい。
 (ついでの話しながら、クラシック音楽の世界の録音年度も小説本に準じるようなところがあって、1980年代くらいから先は、「あ、これ新しい録音や」と思わせるようなところがあります。)

 で、話を戻しまして、冒頭の新書についてですがー、……ああ、もう十分に話が長くなってしまいました。
 今回はこれくらいにして、次々回に、続きます。
 毎度毎度、すみません。


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テーマ : 読書記録 - ジャンル : 小説・文学

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