「芸術性と人間性について」

 えー、何回か前にもその顛末を書きましたが、今回もまた、近隣の大学の社会人講座に行って来た話を一つ。

 講義のテーマはなにやらありましたが、前回同様、講師の先生の話内容から私のアタマの中はどんどん離れていきまして、とうとう今回は、懸案の私の「課題」を解決してしまうに至りました。
 私の懸案の課題とは何かといいますと、例の「芸術性と人間性について」であります。

 なんやそんなことまだ考えていたんか、しつこいやっちゃなー、とお嘆きの貴兄。
 いえ、まったくそのとーりであります。しかし、今回の「ファイナル・アンサー」については、ご安心あれ、極めて常識的なところに落ち着いております。

 まず、講師の先生のこんな発言があったんですね(講義の終盤でした)。
 「かつてギリシャでは、美と善は同一であった。」
 ここからなんですね。ここから私は、こう考えました。

 かつて「同一」であった善と美は、その後異なるものになっていきます。しかし、「美」の中にはもちろん「美」があるとして(これ、ヘンな言い方ですが)、「善」の中にも「美」があることは、やはり否定できないと思います。いわゆる「倫理性の美」ですね。「人間性の美学」みたいなもんもそうでしょうか。

 つまり、二つに分かれた「善と美」はこんな風になります。
  (1)善的な美(倫理的な美)
  (2)美的な美(芸術的な美)

 そして、「美的な美」は、倫理性と交錯することはほぼありません。まして、作品と作者の人間性との間に相関は極めて薄いです。

 さらにそれらのプロセスにおいてこういう事が言えます。
 まず「善的な美」は、作者が自らの「善」を鍛えることで「美」に、あるいは逆に「美」を追求することで人格的な「善」に近づいていきます。しかし、「美的な美」は、「美」を鍛えることで、「美」のみに辿りつきます。

 さてここで、「芸術」の三大ジャンル、「文学・美術・音楽」において、実は「文学」のみが、他の二つのジャンルと大きく異なる性格を持っています。それは、「文学」は「理性」を通過して成立するということであります。(実はここから、完璧に別な結論へ導くこともできるんですがー。つまり、ひょっとしたら「文学」は「芸術」じゃないかも知れないと言う。)

 ともあれ、理性を通過して成立する芸術は、芸術性を鍛えていくことは自ずと理性をも鍛えることになるはずです。そして必然的に、理性の少なくない部分を担当する「人間性=倫理性」も鍛えられる、と。
 ゆえに、「善的な美」の本当の達人は、人格的にも傑出した者であるはずだ、と。一方、「美的な美」は本当の達人であっても、人格的完成とは無縁な者も存在する、と。(少なくとも相関性は低い。)

 どーです、ほぼ、完璧な推論ではありませんか。ところが、ここまで考えて我ながら「かんぺき」と思っていたら、ふっと、これまた以前からの私の「持論」であるところのフレーズが頭に浮かびました。

 近代日本文学史上、小説家として本当に面白い作品を生涯書き続けた作家は3名である。いわく、
   夏目漱石・谷崎潤一郎・太宰治
 ……うーん、後の二人がなー。この二人は、どう転んでも「人格者」とはいえんだろうなー、と。

 で、困って、せっかくここまで考えたのに、というより、気持ち的にはここまで考えて一応「すっきり」したからこそ、私はあっさりこう結論づけるに至りました。
 「やはり、芸術性と人間性が高い相関を示すことはまれである。」
 うーん、どうです。大兄のお考え通りの常識的なところに落ち着いたでしょう。
 わたくしも、「大人」になったものですね。


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