ヴィジュアルが抽象性を明らかにする。

   篠田正浩監督、郷ひろみ主演『舞姫』

 さて、上記のDVD鑑賞報告の3回目になってしまいました。
 いつもの事ながら、ずるずると牛のよだれのごとき文を書き続けて、誠に面目もありませんが、なんとか今回で終わりにします。がんばります。

 えっと、こんな話でした。
 森鴎外の小説『舞姫』(1890年・明治23年)と、それを原作にした篠田正浩監督の映画『舞姫』(1989年)とには、作品構造に大きく関わる相違点が、三つあるという話であります。原作との違い、それはこの三つです。

  (1)豊太郎の母は死ななかった。
  (2)赤ん坊は流産してしまった。
  (3)エリスは発狂しなかった。


 どうですか。この三つは、こうして揃ってしまいますとかなり作品構造が変わってしまうと思いませんか。
 最初の豊太郎の母に関する指摘は、原作では母の死が、豊太郎と日本をつなぐ最後の糸が切れたことを見事に表しているのですが、母が死なないで生きているとすれば、明治時代の倫理観で考えれば、豊太郎は現代より遙かに「親不孝者」となってしまいます。(まして映画では、この母は、豊太郎のことが原因で自殺未遂までするんですね。)

 ところが、二つ目と三つ目の相違は何を意味しているのでしょうか。
 原作ではエリスは豊太郎に裏切られたことで発狂し、豊太郎はそんな狂女とお腹の中の子供を置いて日本に帰るということになっています。

 なぜ百年後の『舞姫』は、このように構造を切り替えたのでしょうか。
 わたくし考えたのですが、それはこういう事ではないでしょうか。
 つまり、百年間に家族関係が著しく変化した結果である、と。

 母親に対する「親不孝度」が上がることについては、さほど抵抗はない、しかし、女性を妊娠させて発狂させてさらに棄てさるなどという状況設定では、とてもリアリティが持たない、ということであります。

 どうでしょうか。
 百年離れた二つの『舞姫』に、私は日本の家族観の大きな変化を読んでみたのですが、私は全く久しぶりに一本の映画(DVD)を見て、ヴィジュアルは、むしろこういった抽象的な細部を明らかにしてくれる、という感じが大いにしました。
 やはり、映画は、あなどれませんよね。


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