執念深く作曲家の高い幸福度について

  『ロマン派の交響曲』金聖響+玉木正之(講談社現代新書)

 上記の本の読書報告の三回目になってしまいました。前々回の最後で、作曲家は年齢と共に作品の完成度が増してくるという本文中の個所について、これは作曲家にとってはとても幸福な特徴ではないかと取り上げました。
 そしてその「幸福な」特徴を、他の芸術と比較しながら述べようと思ったところまで書きました。

 しかし今回、いざ書こうと思った時に、私は比較の対象として、かなり見当違いなものを頭に浮かべていたんじゃないかと言うことに気づきました。
実は、私が音楽以外のジャンルの芸術家として頭に浮かべていたのは、画家の青木繁であり小説家の芥川龍之介だったんですね。
 で、この両者がなぜ「見当違い」なのかというと、それはつまり、芸術家としての「レベル」の問題とでもいうべきでありましょうか。

 前回私が例示した作曲家は、ブラームス、シューベルト、モーツァルト、ベートーヴェン、ブルックナーなどで、この面々といえば、人類が生み出したすべての作曲家の中で、時代と場所を遙かに振り切ったベストテンに含まれるような方々ばかりであります。

 一方青木繁は、日本では有名な画家であり『海の幸』という名作もあり(この作品を、私はベルリオーズの『幻想交響曲』に例えたかったのですが)、という方ですが、時代と場所を越えた世界史レベルの作曲家と比較するのは、いくら何でも少し無理があるのではないか、ということで、芥川龍之介についても、小説家としては青木繁以上に日本ではポピュラリティある方ではありながら、やはり同じようなものであろう、と。

 例えばベートーヴェンと比べるのなら、せめてゲーテあたりではないのかと思いついたのですが、時既に遅し。何より私は、ゲーテについては通り一遍の読書しかしておらず(読んだのは確か『ファウスト』『若きウェルテルの悩み』そして『ヘルマンとドロテーヤ』くらいでありましょうか)、比較すべき材料を持っていません。

 というわけで、何とも竜頭蛇尾なみっともない結びとなってしまいました。
 しかし、にもかかわらず、(執念深い)私は、作曲家の、画家や小説家に対する高い「幸福度」に執着いたしております。

 それはもはや、根拠を失った暴論でしかないかも知れませんが、なぜ私がそんなことを思うのかと言いますと、それは楽器技術の習得、特に極めて音楽性と拘わるピアノとヴァイオリン技術の習得の開始時期が幼年期から始まるものであり、遙かに個人の人格形成に先立っていると言うことを、今度は逆説的な根拠として取り上げたいのですが、いかがでしょう。

 そこにどんな理論性があるのかと問われれば、少々説明に困るのですが(戸惑ってずるずると長くなってしまいそうなのですが)、その一部を一言で述べますと、技術的側面の強い芸術は、それに携わっている期間の長短が作品の質と高い相関を持つ、とでも言えましょうか。
 いえ、この奇妙な理論も、十分な根拠を持たないものであるのは、わかりつつ……。


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テーマ : クラシック - ジャンル : 音楽

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