「上演されても眼をつぶって聞く」……オペラを聴き始めた頃のこと(3)

 モオツァルトは、当時の風潮に従い、音楽家としての最大の成功を歌劇に賭けた。そして、確かに、彼の生前にも死後にも、最も成功したものは歌劇であったが、何もその事が、歌劇作者モオツァルトの名を濫用していい理由とはならぬ。わが国では、モオツァルトの歌劇の上演に接する機会がないが、僕は別段不服にも思わない。上演されても眼をつぶって聞くだろうから。僕は、それで間違いないと思っている。
 (略)
 彼の歌劇は器楽的である。更に言えば、彼の音楽は、声帯による振動も木管による振動も、等価と感ずるところで発想されている。彼の室内楽でヴァイオリンとヴィオラとが対話する様に、「フィガロ」のスザンナが演技しない時にはヴァイオリンが代わりに歌うのである。(『モオツァルト・無常という事』小林秀雄)


 この有名な文章を初めて読んだ時(特に「上演されても眼をつぶって聞く」って所ですよね)、私はどんな風に感じたんでしょうか、実はよく覚えていません。
 今読んでみると、いかにも小林秀雄一流の逆説的表現(まー、ちょっと「ハッタリ」めいていますよね)という感じがとてもするんですけれど。

 さて、本文章は前回の続きであります。
 前回私が述べていたのはこんな事でした。
 高校時代演劇部でぶいぶいいわせていた知人の女性がオペラについて、「しゃべる代わりに曲を歌うってすごい違和感だわ」と言ったのに対し、私は反論も出来ず(いかんせん、オペラを聴き始めた頃のことですから)、さらに私自身がオペラを聴いているうちに、確かに彼女の言っていた違和感と同種のものがなくなってきていたことに対して、「そんな簡単に違和感がなくなっていいのか」と思ったという話でありました。

 で、まず思い出したのが、冒頭の小林秀雄の文章だったということであります。
 なるほど改めて考えてみますに、当時の日本の第一流の評論家が(小林秀雄といえばなにしろ、たった一人で日本の近代文芸評論を作ったようなえらい人ですから)、眼をつぶって鑑賞して、それで間違いないと言っているオペラとは、どこかよく分からないところがあるなと、まー、聴き始めたばかりの私はやはり少し考えたのであります。

 問題は、やはり、「歌詞」ですよね。
 小林秀雄は上記文章で声帯も木管も変わらないと言っていますが、これはいくら何でも筆が滑っていませんかね。
 (昔小林秀雄は、文学の神様の様にいわれていた時期があって、とても「批判」なんてできそうもない雰囲気があったんですが、さすがに最近読み直してみますと、とても巧妙に「筆を滑らせて」いることが分かるようで、何といいますか、少し微笑ましくもあるんですがー。)

 ともあれ、本来「意味」を持つ「歌詞」を、音楽的にどう考えるか、というのがポイントではないかと、私は考えました。
 そして、ある「実験」(ってほどのものでは全然ないんですが)をするんですが、……えー、その顛末は、また次回に。すみません。


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