忌野清志郎の「印」

 きっと毎年のことでありましょうが、この夏もとても暑かったですね。
 そのせいで、……というか、最初はそのせいだとは思わなかったのですが、私はクラシック音楽を家でほとんど聴きませんでした。
 
 クラシック音楽をほとんど聴かなかったのが、夏の暑させいだと知ったのは、クラシック音楽の私の「師匠筋」にあたる友人に指摘されたからでありますが、なるほど、夏はクラシック音楽コンサートのシーズンオフでありますものね。
 やはり一曲が長いせいで暑苦しいんでしょうかね。もっとさらっと短い曲を、と。

 ということで、私はこの夏はもっぱらポップスを聴いていました。何を聴いていたかと言いますと、忌野清志郎であります。
 あれこれ個人的な説明はおいて、清志郎を聴いていてつくずく思ったのは、当たり前ながら、とってもいいな、と。
 どこがいいかというと、もちろん第一に歌がうまい。独特なうまさであります。
 そしてもう一つ思ったのは、不思議なところに「印」が付いていることです、かね。

 「印」とは、何か。
 「個性」と言い換えてもいいのかも知れませんが、それを単独で見ると、果たしてセンスがいいものであるのかどうか、よく分からないところのものであります。
 例えば、まずつまんない例から。清志郎のライブCDを聴いていると、彼はこんな言い方をしていますね。

 「ワン、トゥ、さん、し!」

 これは、「センス」ですかね。でも、清志郎らしい「印」ですね。尾籠な例えで恐縮ですが、犬が電信柱におしっこをかけているみたいな。

 次に、名作、というか名訳『デイ・ドリーム・ビリーバー』の一節。

  ずっと夢を見て安心してた
  僕はデイ・ドリーム・ビリーバー 
  そんで 彼女はクイーン


 なぜ「そんで」なの? 「そんで」って、標準語なのかしら? なぜ「そして」って歌わないの? 「そんで」のほうが、センスがいいのでしょうか?
 という風に考えると、詰まるところ、清志郎はここにまるでノートに書いた落書きのように、自分の「印」を付けたとしか思えなくなってきます。そんなことないですか?

 いえ、清志郎も訳詞をしている時はきっと、ああでもないこうでもないとあれこれ考えたのだとは思いますが、最終的にこんな落書きのような「印」のような言葉で決定してしまうところに、……うーん、私は断定しがたいのですが、やはり、清志郎の魅力が、個性があるのかなぁと、まぁ、思います。

 昔、劇作家のつかこうへいが、ろくに個性のない俳優に限って個性個性と言っている、と述べていたのを思い出しました。そして、「てめえのは『個性』なんかじゃなくて、ただの『くせ』だ」と。

 ひょっとしたら清志郎は、「くせ」を「個性」にまで持っていくことのできた、やはり類い希な「個性的シンガー」だったのかも知れませんね。
 そしてあの声は確かに、この暑い夏に「一服の清涼」となるものでありました。


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テーマ : 日々のつれづれ - ジャンル : 日記

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