渋みある枯れた老境を目指して

 この夏、少し長めの夏休みを取りました。
 何人かの人に、大型連休ですね、どこかご旅行ですかと言われ、いえなーんにも考えていませんと答えた時、実は私はちょっと「したり」と思ったのであります。

 なるほど、旅行というのはレジャーの王様であります。多くの人が長い休みをそのために費やそうとしていることも宜なるかなであります。
 しかし、人間、いつまでも若くばかりはありません。
 つまり私はこの夏突然、「渋み」ある老後を迎えるには、いつまでも大型連休=大型旅行でもあるまいと思いついたのでありました。
 日常生活の中に枯れた高い精神性を見つけること、いわゆるわびさび深みしおり、これこそが今後望まるる老境であるというインスピレーションを得たのであります。

 ……というわけで、私はこの夏は旅行には行かず、そのかわり家で渋みある老後を目指してあれこれしました。
 女房の実家に行ったり(これは小旅行ですね)、映画に行ったり、絵画展にも行って、久し振りにプールに行ったりもしましたが、実は今プールはご老人の社交場のようになっていることに、この度初めて気づきました。(もちろん、そんなコンセプトのプールということですが。)

 一方家ではゆったりしながら、普段とは少し傾向の違う文学的読書をしたり(これが結構愉しい)、音楽を聴いたり(ベートーヴェンの後期弦楽四重奏!)、DVDを何枚か借りて映画三昧(我が青春の懐かしい映画!)をしたりしました。

 そして先日は、渋み老後計画準備の一貫として久し振りにお芝居を見に行ったのですか、ところがそれが、少々戸惑う結果となりまして……。
 いえ、何ももったいつけるような話ではありません。
 お芝居を見終わった後に、何というか、感想の言葉がまるで出てこなかったということに、自分でちょっとびっくりしたということであります。

 それは、「言葉にならぬほど出来がよいと感じた」というのではありません。では詰まらなかったのかというと、そうでもありません。それなりによくできているなぁとは思いました。

 そこで、これは一体どういう事だろうと、少し考えたのですね。で、結局、変な言い方ですが「やっぱり修練の問題だろう」という結論に至ったのであります。
 考えてみると、私は大体一年に1.2度お芝居に行くような勘定なんですが、そんな程度では、渋みある鑑賞眼は鍛えられないということであります。

 圧倒的に出来がいいとか全く愚にもつかないとか、「若者=青二才」にもすぐ見分けられるようなものならともかく、それなりの年月を経た物事や作品が持つ、それなりの細やかな良さとか悪さがわかり、さらにその良さに枯れた慰安を感じるためには、やはりかなりの「修練」が必要です。それもなまじっかな鍛え方ではなく、情熱的に精を出し脂ぎって場をこなして行かねばならないのであります。

 ……そう気が付くと、これはうかうかしていられません。
 わびさびとか渋みとか言って、とてもぼんやりと枯れている場合ではありません。
 いよいよ人生の晩年を迎えるにあたり、残された生活の中に、幽かなしかしハイクオリティな精神世界を見出し、渋みある世界を生き抜かねばなりません。

 ……これはひょっとすると、思い切ってもう一度、「大型連休は大型旅行から」に戻ってみますかね。


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テーマ : 日々のつれづれ - ジャンル : 日記

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