「喧嘩を売る」

 少し前に本ブログに「罵詈讒謗を書いてみよう」というテーマの拙文を綴り、そして私はその文章でみごとに罵詈讒謗が書けなかったのですが、先日、谷崎潤一郎の本を読んでいたら、『文壇昔ばなし』というタイトルの随筆に、「喧嘩を売ると云えば」という書き出しで、文壇内でかつてあった論争について書かれてありました。

 そのエピソードによりますと、「喧嘩」を売ったのは生田長江という文芸評論家で、売られたのは白樺派の武者小路実篤であります。
 (今の日本近代文学史的な評価でいいますと、後者の方のほうがかなり高評価みたいですよね。武者小路実篤の小説は例えば『友情』とか、幾つか現在でも読まれていますが、前者の方は、生田長江という名前すら一部のたぶんマニアックな人を除いて、誰も知らないでしょう。)

 さて、その生田長江の喧嘩の売り方ですが、これがなかなか面白いです。谷崎の随筆に、生田長江の文章が直接引用されています。こんな感じ。

 ここに武者小路実篤という人がある。私はこの人の書いた物を、ほんの少しばかりしか読んでゐないが、その事の為めに私の非難されねばならない理由は、一もないということを確信して置いてから私の議論を進めよう。

 ……えーっと、どうですか。
 読んでまずびっくりしますよね。えっ? これって、どういうことだ? と。
 そして次に、いくら何でもこれはないだろう、って思いますよね。
 で、さらに、あっ、「アマゾン」の書評にある一部の文章はこれと全く同じじゃないか(これが少し前の「罵詈讒謗を書いてみよう」という私の文章のきっかけでありました)、と気付くではありませんか。

 アマゾンの書評の中には、「読み始めて十ページで面白くなくてやめた。この作家の小説は二度と読む気になれない」みたいな文章が、堂々と載っております。あれと、一緒じゃないか、と。
 ところがさらに、生田長江の文章は、このようにつながっていきます。

 所謂白樺派のもつてゐる悪いところとは何であるか。精一杯手短かな言葉に代表さして云へば、「お目出度き人」と云ふ小説か脚本かを書いた武者小路氏のごとく、皮肉でも反語でもなく、勿論何等の漫罵でもなく、思切つて「オメデタイ」ことである。
 再びことわつて置く。私は右の「お目出度き人」と云ふ小説だか脚本だかをまだ読んでゐない。そしてまだ読んでゐないのをちつとも悪い事だと思つてゐない。加之、あの小説だか脚本だかを読んでゐないでも、武者小路氏及び氏によつて代表されてゐる所謂白樺派の文芸及び思潮が、本当にオメデタイものであることを言明し得られると思つてゐる。


 と、まぁ、こんな感じなんですね。
 「小説か脚本か」というフレーズを三回も使って、ちょっと「いやらしい」文章ですよね。でもおもしろそうなんで、次回に続きます。


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