「フェルディナンド・ホドラー展」でぼんやり考える。(後半)

 えー、前々回は、わたくし昨年末に東京で「ミレー展」を見て、とてもよかったというところまで書きました。
 「ホドラー展」は、その時開催していた国立西洋美術館の前を素通りしました。

 ということで、なんじゃらほい。わたくしが「ホドラー展」に行ったのは、東京展示が終わった後、関西までお出ましになった「ホドラー展」でありました。実は東京に行く前に、女房に一緒に行こうと約束していたんですね。

 兵庫県立美術館であります。雨が降っていました。
 ホドラー展やるんや、と最初に知った時は行く気満々だったのですが、そして、前売り券まで2枚買っていたのですが、その後なんだかだんだんその気が失せてきていた日曜日でありました。

 そもそも放っておくと、週末は「引きこもり」の少年のごとく、一日中自分の部屋に閉じこもってぼーーーといるわたくしに業を煮やした女房は、雨の中、わたくしを引っ張って「ホドラー展」に行ったのでありました。

 で、見てきたんですがね。見たら見たで、さすがに楽しかったんですがね。
 そもそもホドラーという人は、19世紀から20世紀にかけての方で、つまりグスタフ・クリムトなどと並び称される「世紀末」の画家でいらっしゃいます。

 ということは、「レッテル」に寄りかかるように、印象派、それも後期印象派あたりから出発し、頽廃の世紀末、不安の20世紀に至るという、そんなざっくり理解をどうしてもしてしまいまして、それなりに納得あるいは感心はしますが、めちゃめちゃ感動するというわけでも(ごめんなさい)ありませんでした。

 ただ、鑑賞していてふと私が連想したのは、モディリアーニでありまして、あのモディリアーニリアの強烈な個性のフォルムは一種アカデミズムの極北であり、それがホドラー作品の持つ本来のバロック概念(=いびつさ)とどこか共鳴し合うように感じました。

 そして、森羅万象をあのような強烈なフォルムでカンバスに定着せずにはおかないとする精神を持つことは、個人としては、はたして幸福であるのかどうかという、少しお節介なことも、私はぼんやりと考えたのでありました。


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