原稿が書けない理由の面白さ

 『〆切本』(左右社)

 久しぶりにリアルな本屋に行きました。
 かつて家のそばにあった本屋さんが廃業なさいまして、その当座は不便だなぁと思っていたものの、ネットでも買えるし全国展開チェーン古本店が比較的家のそばにあるしということで、関係者の方には申し訳なくも、そのうち不便さを忘れてしまいました。

 ところがここに一つ困ったことがありました。
 それは図書カードを使う機会が無くなったことです。かつて誕生日に家人がプレゼントしてくれたカードで、その後財布の中に長く眠っておりました。
 今回久しぶりに本屋に行ったのも、実は開演時間を間違えて早く行った音楽会の、その一時間をどう潰そうかと考えてカードのことをたまたま思いついたという経緯です。

 で、買ったのが冒頭の一冊ですが、少し前に少し話題になりましたね。
 今回読んでみて割りと面白かったです。いえ正確に言いますと、面白い文章とそうじゃない文章とがあったというべきですが、90以上の文章(随筆、書簡、対談、漫画など)が収録されていますから、3割くらいが当たっていればまずまずじゃないか、と。そして私はそのうちの30作くらいを面白く読みましたから、これは「割りと面白かった」でいいんじゃないか、と。

 ちょっとその面白さを考えてみますね。例えばこんな文章。

 私は頼まれたものは一応その人の親切さに対しても、引き受けるべきだと思つてゐる。が、引き受けた原稿は引き受けたが故に、必ず書くべきものだとは思つてゐない。何ぜかと云へば、書けないときに書かすと云ふことはその執筆者を殺すことだ。執筆者を殺してまでも原稿をとると云ふことは、最早やその人の最初の親切さを利慾に変化させて了つてゐる。引き受けて書かないでゐると、多くの場合、後で品格下劣な雑誌は匿名で悪戯をする。しかし、さう云ふ雑誌は必ず朦朧雑誌に限つてゐる。しかし、それとは反対に、気質の高邁な記者に逢ふと、例へ書けなくて不義理をかけても、必ずいつか気に入つたものの書けたときこちらから送らねばすまなくなる。かう云ふ意味でもいい原稿の集まつてゐる雑誌には、必ずどこかに清朗な人格者がひそんでゐるにちがひないのだ。(『書けない原稿』横光利一)

 上記の随筆を私は本書の中でもとっても面白いと感じたのですが、その理由は二つあると思います。

 (1)愚にも付かないような理由を、本人がそのまま信じているわけではないでしょうが、本当にあれこれと考えていること。
 (2)一方文章を書く(原稿を書く)ことに対しては、一字一句たりともゆるがせにするつもりはないと思っていること。

 この2つの理由は、激しく(2)であるほどに、(1)が面白くなるという構造を持っています。だから、(2)について少々「(時間もないし)仕方がないか」と感じていそうに思える作家の文章は、(1)が空回りしているように感じます。
 つまり一言で言えば、「純文学作家」の文章がより面白いとわたくしは結論づけました。

 本書冒頭に田山花袋の随筆が載っています。
 大の男が「ああ、いやだ、いやだ、小説なんか書くのはいやだ。」と子供のように口に出す一方で、何かの拍子で筆が走るようになった時の「恍惚感」を描くアンバランスの面白さ(=すばらしさ)は、横光の場合と同様に、正に(2)が強くあっての(1)だと実感されます。

 本書は全体としては少々ヴォリュームが大きすぎないかと思うのですが、その中の純文学作家の文章は、私にはほぼ全編とても面白かったです。


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