『こころ』のタイトルを読み替える

  『夏目漱石、読んじゃえば?』奥泉光(河出書房新社)

 わたくし、本書を図書館で見つけたんですが、どうも少年少女用の書籍であるようです。
 いえ、本当はその事は分かっていました。だって、そんな少年少女用の書棚から見つけたんですから。(それに本書の中表紙の上の方に「14歳の世渡り術」と、たぶんシリーズ名でしょう、書いてありましたし。)

 というわけで読みましたが、さすがにとても読みやすかったのと、特に『こころ』の解説でしたが、目から鱗が落ちるように衝撃的に内容理解ができたように思いました。
 その、私が衝撃的に『こころ』が理解できたと感じた説明表現は、この一文です。

 『こころ』というタイトルは「こころが読めない」という意味なんだよ。

 どうですか。そんなの『こころ』について極めて常識的な説明じゃないかとお思いの方もいらっしゃるでしょうが、例えば『こころ』というタイトルをすべて『こころが読めない』に置き換えた上で読書していくとイメージすると、なんだか物語の奥の奥まで見通しよく読めていくように感じるのは、私だけでしょうか。

 主人公「先生」の言動、それは理解できないとはいわないものの、もっと別の言い方仕方があるんじゃないかと、いいいーっとなるような感覚と共に読み進めていたものが、ああ、「先生」はまたここでも目の前の人物のこころが読めなかったんだと、とてもするりと私の中に入ってきた感じがしました。

 また、こんな風にも説明してありました。
 そもそも人間とは、何を考えているか分からない他人と一緒に生きていかねばならない存在で、人に認められたいとか愛されたい(逆の認めたい、愛したいも)という欲求を満たすためには、あたかも暗い崖から飛び降りるような決死の勇気を持って臨まねばならない、と。
 そして『こころ』とは、その崖を飛ぶことに失敗した人の話です、と。

 実は漱石の小説は、晩年の深刻さがどんどん表面に現れてくるものだけでなく、『猫』や『坊ちゃん』の時からそんなコミュニケーション障害の、そしてそれが主人公の孤独を加速させていくという話ばかりだとの指摘もあります。

 『猫』や『坊ちゃん』の寂しさは、確かに二度三度と読めばじわじわと感じてくるものであり、その正体が「コミュ障」であるというのは、なるほど大いに納得できるものでありました。

 しかし、漱石自身は実際は「コミュ障」だったのでしょうか。
 そんなはずはないだろうとも思いますし、いや、やはりそう言えるかもしれない(特に奥さんとの関係において)という気もしますね。


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