フェイヴァレット関川作品について

 『昭和三十年代演習』関川夏央(岩波書店)

 なんか少し変な感じの構成の本です。
 タイトルに「演習」と書いてありますが、どこかの大学での講義をもとにしたものでもなさそうでありながら、時々、そんな講義のやり取りめいた場面が出てきます。
 最後の「あとがき」のような文章になって初めてわかるのですが、本書で講義めかして語っている聴衆は、出版元岩波書店の数名の編集者であるようです。
 本当にそうしていたのかどうかはともかく、そんなスタイルを取っています。こんな書き方があるんですねぇ。
 しかし、これって、一体何のためにそうするのでしょうか。

 と、そんなことから書き出したのは、このちょっとした「違和感」について、構成だけでなく内容についても気になることがあることを、私は読みながら感じていたからです。

 本書の筆者について、私はかねてより個人的にとても信頼の置ける作家と思ってきました。そう感じながら幾冊かの本を読んできました。特に文芸評論のような著書の場合は強くそう思ってきました。
 しかし本書を読みながら少しずつ思い出してきたのは、かつて私がこの筆者の作品を読み始めた頃は、さほど好きな作家ではないなと感じつつ読んでいたということでした。

 私が本書から感じたものは、本書には昭和三十年代の様々な社会事象が取り上げられていますが、あるタイプの社会事象並びに思想に対してだけ、正面からの批評ではなくてシニカルに侮蔑の表情を向けるニュアンスが感じられたことです。
 (少しだけ補足します。そもそも近過去を現在から振り返ると多くの事象にいわゆる「欠点」があるものですが、私が気になったのは、ある事象には「その時点ではやむなし」言動があるのに、ある種のものにはそれがないという事です。)

 それは、この筆者の作品を読み始めた頃の私には強く感じられた事でありました。でもそのことをなぜかすっかり忘れていて、本著者のことをずっと「フェイヴァレット」だと思いこんでいたのでした。
 しかしなぜ私がそうであったのかという事も、合わせて気づきました。

 それは例えば、昭和三十年代松本清張の作品がとても売れたことをこんな風に書いている部分。

 彼の書く現代小説だけではなく、その時代小説もいわゆる「社会派」に分類されるのでしょうが、どうもピンとこなかった。松本清張作品がどこか救いがたく暗いことも気になりました。それは彼が登場した時代、雑駁で、矛盾をはらんでいるけれど、総体としては明るいと印象される昭和三十年代という時代のセンスにそぐわないのです。
 松本清張作品の特徴は、現代小説にしろ時代小説にしろ、「他責的」であることだと思います。


 ……いかがでしょう。
 私がかつて角川文庫の「ある『小倉日記』伝」に収録されたいくつかの短編小説を読んだ時、強烈に感じながら言葉にしきれなかった感情が、本文章に「他責的」の一語で見事に表現されています。

 こんな惚れ惚れするようなアクロバティックな論評が、私にとって関川夏央作品の最大の魅力でした。
 そしてそれは、本書を読んで改めて筆者についていろいろと考えた今でも、やはり変わっていない私の感じ方でもありました。


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