「ゴッホ展」で考える(前半)

 先日、京都まで行って「ゴッホ展」を観てきました。
 展覧会終了一週間前の土曜日だったせいか、けっこう混み合っていて、落ち着いて絵画鑑賞するという雰囲気はなかなか抱きにくかったのですが、それとは別に私は一つのことが気になって、やはり集中して絵画鑑賞ができませんでした。

 気になっていたこととは何かといいますと、「オーディオ・ガイド」であります。
 最近何の展覧会に行ってもオプションで用意されている、鑑賞のための解説をしてくれるヘッドフォンのことであります。
 なぜそんなものが気になったかと言いますと、先日ネットをふらふらしていた時に、たまたまそれについて書かれた文章を読んだんですね。椹木野衣「感性は感動しない」という文章で、オーディオ・ガイドについて、こんなことが書いてありました。

 最近、やたらオーディオ・ガイドとやらが発達して、美術館に行くと、みなヘッドフォンを掛けて絵を観ている。あれはいったい、本当に絵を観ていることになるのか。肝心の絵のほうが、解説を聞くためのイラスト風情に成り下がっていはしないか。あんなものを付けて絵を観せられるなら、ひたすら何も考えずじっと絵を睨みつけたほうがずっといい。

 ……なるほど、はばかりながらわたくしも、確かに以前より何となく思っていた感想であります。筆者はその理由についてさらに以下のように述べます。

 知識や技術は鑑賞の助けにはなっても、それがあるからといって本当に心が動かされるとはかぎらない。
 
 芸術をめぐって感動の源泉を知識や技術にもとめようとすると、どうしてもわかりやすい基準に頼りがちだ。

 これらの主張についても、一応納得できるものではありますよね。
 なぜ納得できるか、筆者はそもそもと遡り、優れた美術作品とはいったい何かについてこの様にまとめています。

 すぐれた美術作品とは、(中略)観る人の心を動かすものにほかならない。

 ……えっと、ここまでは何の問題もない、ですよね、たぶん。
 問題は(それが「問題」だとすれば)ここからなんですね。筆者は「人の心を動かすもの」をさらにこんな風に分析していきます。

 要は、ある絵を観て、「うわ、なんてみにくい絵なんだろう」「こういう絵はもう二度と観たくない」「こんな絵を描いた人物は、きっとどこか変なのだ」といった反応をすることを、芸術は排除するべきではない。世間的にはネガティヴだとされるこうした感情も、もしかするとその人の心の奥底に眠り、ずっと押さえつけられていたなにかに気づき、それを解放するきっかけになるかもしれないからだ。

 ……何だか少し面白く(ヘンに?)なってきたでしょ。
 もっとも私は、ゴッホ展でそんなことばかりを考えていたわけではもちろんなかったのですが、ともあれ、後半に続きます。


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