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「ゴッホ展」で考える(後半)

 前回は、先日京都まで行って「ゴッホ展」を観てきたという話しをしていました。
 しかしそこで、普段から落ち着きのない私がさらに落ち着きのない絵画鑑賞をしたという展開になり、その原因を探っていたのが前回のあらすじです。

 問題は、たまたまですがゴッホ展のすぐ前に、椹木野衣「感性は感動しない」という文章を読み、そこに、美術鑑賞をするのにオーディオ・ガイドみたいなちゃらちゃらしたものの力を借りるなということが書いてあったことでした。
 で、ここから後半です。

 オーディオ・ガイドはよくないんじゃないかについて、結局の所、椹木野衣はこの様にまとめます。

 けっきょく芸術作品は自分で観るしかない。それは誰にも肩代わりができない、あなただけの体験だ。言い換えれば、個が全責任を負って観ることができるのが芸術だ。

 芸術作品とは自分がなにものであるかを映し出す鏡なのであるから、汚れた自分のままがよいのだ。むしろ自分の汚れを絵に映してしっかりと見届け、そこから先へ進んでゆく糧にすればよい。


 ここまで読んでわたくしは、「…なぁる、ほど」と、何となく筆者の主張と文脈に対して、どーも気に掛かっていた違和感の正体が分かりました。

 先日の土曜日わたくしは、女房と一緒に京都の「ゴッホ展」に行ったのですが、会場はけっこう混み合っていて、入る前に少し並びました。並びながら私は実は心の中で、こんなの並んでまで観てないで、隣の岡崎動物園でペンギンでもぼーっと見ていた方が気持ちがいいんじゃないかと思っていました。

 まず入場料が、大人二人で行きますと決して馬鹿にできない金額になります。
 で、入場したら入場したで、並んでいるといっこうに前に進まず、私は最初のゴッホの自画像に到着するまで10分ほどもかかりました。

 何が言いたいのかと言いますと、よーするに、一般庶民はそんなところでゴッホを鑑賞しているということであります。(たぶんそうだと思うんですがー。きっとわたくしだけの鑑賞事情ではないと思います。)

 振り返りますれば、ウイークディはずーっと、うんざりするようなストレスに曝されての仕事の日々であり、やっと訪れたウィークエンドに女房に誘われての「名画鑑賞」であります。

 それがいつの間に、「全責任を負って観」て「自分の汚れを絵に映してしっかりと見届け」、さらにそこから生まれたネガティヴな感情を「そこから先へ進んでゆく糧に」せよなんて、ちょっと待ってくださいよ、話が違わなくないですか、と。

 ……「オーディオ・ガイド」から始まる椹木野衣氏の主張は、たぶん絶対的に正しいのでしょうが、一方それは「さしずめインテリ」の人が各自でやって下さいよという感情も決して間違っていないと思うものであります。

 それが証拠(?)に、翌日職場でわたしは、「オーディオ・ガイド」受け売りのゴッホ知識を、まるまる自前の教養のように若い女子社員に鼻高々に吹聴したのですから、ねぇ。
 名画鑑賞って、そもそも、そんな時のためにあるんじゃないんですか?
 えっ? 違うの?


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