「PISA」について、また。

  『日本語のできない日本人』鈴木義里(中公新書ラクレ)

 前々回の続きであります。
 前々回は、世の中にはまだまだ面白い本がいっぱいあるという、当たり前すぎる感想を抱いたわたくしでありました、というところまででした。

 今回はその続きです。
 前々回にも触れましたが、それ以外にも、いっぱい面白いことがこの本には書かれてあります。
 例えば、本ブログでも数回前に取り上げた「PISA」について、これは国際経済協力機構(「OECD」)の行っている学習到達調査ですが、この結果発表のある度に、マスコミはわいわいとコメントを加えています。
 (日本はもうダメになったとか、まだ少し頑張っているようだとか、あまりいいコメント、前向きの意見が出ているのは見たことがありませんが。)

 わたくし、これについても、以前より一種不信感を抱いていたものですが、これについても書かれてありました。
 本書にこんな文章を見つけました。(ただ、文脈的にはやはり日本の若者達の読解力は低下しているという文脈ではあります。)

 「読解力」とは当然のことながら、それぞれの言語に依存するものだ。そして、別の言語で表現された文章が「同一の」難易度である保証はどこにもない(内容のほうも本当に「同一」であると言えるかどうかは疑問が残る)。言語Aで表現された内容が言語Bでも同じ「難易度」で表現されるということはあり得ない。したがって、例えばフィンランド語で読んで「分かる」ことと、日本語で読んで「分かる」ことを比較することが、果たして可能なのかどうかは吟味する必要がある。

 ここに書かれてあるのは、「読解力」を国際比較することの難しさでありますね。理数系の問題とは同じように行かないということが書かれています。
 もっとも、そんなことを言いだしたら、ほとんどすべての事柄について、「比較」そのものが難解なものとなってしまいましょうが、やはりここで私が思うのは、「もの差し」を一つと考えてはいけないと言うことであります。

 さて、本書の中で私が最も唸ったのは、実は別の個所でありまして、それは、「平等」について書かれたところであります。

 えー、また次々回に。すみません。


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思わず大いに蒙を開かれて

  『日本語のできない日本人』鈴木義里(中公新書ラクレ)

 奥付によるとこの本は、2002年の初版印刷となっており、くるくると売れ筋が変わる現代日本の出版業界の中では、今となっては既に「過去の本」という感じでしょうか。

 筆者である鈴木義里という方についても、わたくし寡聞にして全く存じ上げず、この新書には筆者の写真が載っているのですが、なんか生意気そうな、いかにも世を拗ねている感じの「おっちゃん」の顔であります。

 おまけにこの本は、わたくし、先日の日曜日、自転車でぶらぶらと散歩していたらいきなり雨が降り出してきたもので、雨宿りのつもりで入った大型古書店舗で、まー、一冊も買わないで出ていくのも何だろうと手に取った105円の新書でありました。

 というわけで、ほとんど期待も何もせず読み始めた本でありましたが、いやー、えらいものですねー、私にとってここ数年何となく気になっていた事柄について、大いに蒙を開かれる記述が(それも何カ所も)、書かれてありました。

 タイトルからも分かるように、この本はトータルには日本語論でありますが、教育論にもなっており、もっと大きな日本人論・日本社会論にもなっています。
 まず、そのうちの一つを紹介してみますね。

 さて、日本の国際競争力が落ちると日本の社会が困るのだとよく言われているが、しかし、最先端の科学についていくことが、本当の日本の未来に有益なのだろうか。日本国家が落ち目になると、普通の人間の暮らし向きが、耐えられないほどひどく悪くなるのだろうか? 自動車やらコンピュータの製品が海外の市場で売れないからといって、本当に困るのだろうか? 資源のない日本が他の国と戦えるのは技術力のみだ、と言う人たちの言葉は事実なのだろうか? たぶん、それは本当なのだろう。だが、その危機感が増幅されているという点もあるに違いない。グローバリゼーションの結果、世界的な競争の中で、日本社会がとんでもないことになってしまうというイメージは、何度も繰り返して語られることによって、まるで絶対的な真理のようにさえ見なされている。
 エリートの予備軍の学力低下を恐れている人びとは、実は日本国家、あるいは日本企業の国際競争力の低下を恐れているにすぎないのではないか。人びとが幸せに暮らすとか、平等で公正な社会を実現するために必要だから、と考えているわけではないような気がしてならない。


 どうですか。
 ただ、私はここに書かれていることこそが正しい、といっているわけではありません。こういった視点で、柔軟に多角的に物を見ることの必要性を強く感じているのであります。
 「常識」と思われている事柄こそ絶えず疑ってかかることが必要だと、私は考える次第であります。
 この本の紹介、もう少し、続けてみますね。


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良い会社と日本的雇用システムの正体

  『リストラと能力主義』森永卓郎(講談社現代新書)

 さて、前々回の続きであります。
 前々回述べていましたのは、上記の本を読みつつ私は数年前に行った佐高信氏の講演会のことを思い出していたと言うことでありました。
 その講演会の内容は、サビの部分だけを書きますと、

 「『良い会社』こそが人を殺す、素直が人を殺す、真面目が人を殺す、ということを正面から考えるべきである。」

とまぁ、こんな話ですかね。
 聞いていてかなり説得力があったと思います。佐高氏は、過労死被害者家族救済の会みたいなのに入っていて(数年前のことです。今でもそうなのかは確認していません。)、過労死で息子を亡くしたお母さんの話なんかも述べていましたが、その話もなかなか聞き応えがありました。

 そしてそれから数年、特に今年の3月の未曾有の大災害と、連動して「人災」と言われている大災害が起こり、改めて「『良い会社』こそが人を殺す、素直が人を殺す、真面目が人を殺す」という言葉を重ね合わせてみると、なんか凄い「予言」であったような気までしてしまいそうであります。

 が、しかし、そちらの方面の話は少し置いておきまして、本来の冒頭にある読書報告報告に話は進んでいきます。

 さて、冒頭の本の読後感です。前半はさほどでもない感じだったんですが、中盤あたりからがぜん面白くなってきました。
 「日本的雇用システムの正体」という章題の所ですが、いくつかのことを私は初めて知りました。例えば、

 (1)年収格差をよく言われるが、同じ企業内ではかなり強力な所得の再分配がなされている。
 (2)しかしそれは労働者にとってプラスの材料なのではなく、その「小さな格差」こそが、過労死にまで至るサラリーマン社会の激しい競争を生んでいる。
 (3)その競争相手は「同期」という存在であり、日本企業が新卒一括採用にこだわる大きな理由の一つが、この競争集団を作ることにある。

 そもそも経済のこととかはほとんど知らない私でありますゆえ、ひょっとしたらこんなことは「常識」なのかも知れませんが、なかなかスリリングな内容でした。

 でもやはり、上記の佐高信氏の話は本当だなぁとつくづく思いましたね。
 やはり十分肝に銘ずべきことかも知れないなーと思いつつ、しかしふと、そうかといって私にはもはやどうにもしようもないではないかと、「加齢」のせいでぼやけた頭で、感じた次第でありました。


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「庶民の武器」とは、何か。

  『リストラと能力主義』森永卓郎(講談社現代新書)

 この本を読みつつ私はふっと、もう数年前になるんだと思いますが、評論家の佐高信氏の講演会に行ったことを思い出していました。
 講演会で聞いた当初は、かなり「スリリング」な内容に感心した覚えがあるんですが、いかんせん加齢のせいで、今となってはぼんやりとしか内容を思い出せません。

 (しかし、考えますに、何でもかんでも加齢のせいにしてしまうというのも問題ありますよね。これはひょっしとたら加齢のせいなんかではなくて、そもそも私の脳みそ自体にかなり問題があるんではないかと、しかしまぁ、今更そんなこと言われたってナー、というようなことに思い至りました。どっちに転んでも、先行きは不安でありますナー。)

 さて、そんな断片的な記憶をぼつりぼつりと辿りつつ、以下、書いてみます。
 確かどこかの大学主催の講演会ではなかったかと思うのですが、大学主催ってのと、佐高信ってのがもうひとつそぐわない印象があって(だって佐高信といえば、本田勝一とか筑紫哲也なんかのお友達でしょう、違うのかな。)、はたして本当に佐高氏が来て、佐高氏らしい話をするんだろうかと疑わしく思った記憶があります。

 ともあれ、とりあえず申し込んでみまして、そしてまー、勇んで行ったわけですね。
 すると、佐高氏が佐高氏らしい話をしていました。こんな話でした。

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 文部科学省と日教組は、互い反目しあいながらかも知れないが、結果的に力を合わせて「庶民の武器」を取り上げた。
 「庶民の武器」とは、「疑う・嘘をつく・逃げる」である。
 労働環境の悪化、企業不正、過労死などの実体を考える時、「良い会社」こそが人を殺す、素直が人を殺す、真面目が人を殺す、ということを正面から考えるべきである。
 そうすると、指導者や教師はそう簡単に「人を疑ってはいけない」とか「嘘をついてはいけない」とか「逃げてはいけない」などとは言えないはずだ。
 そんなジレンマなしに、もはや現代という時代は、指導や教育はできない。

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 私はこれを聞いて「うーん」と唸ってしまったんですが、以下、次々回に続きます。


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のび太くんから出来杉くんまで

  『子どもがニートになったなら』玄田有史・小杉礼子(生活人新書)

 上記新書の読書報告の後半であります。
 前々回は、この本の第一刷発行年度が、2005年であるという、その数値について、社会科学分野の資料としては、ビミョーなところにあるということを言うつもりが、あっちに行ったりこっちに行ったりして、なんかよくわかんないな、というところで投げ出してしまいました。
 (まー、わたくしにはよくあることであります。)

 さて、筆者の一人、小杉礼子さんという方ですが、たぶんこの方は、日本で最初に「ニート」という言葉を紹介した人でありましょう。
 同じく著者の玄田有史氏は、この小杉さんと一緒に、そんな研究をしていた人であります。

 この本の内容は、始めに「ニート」の実態と経過報告みたいな部分があって、残り2/3くらいが「対談」です。以前にも触れたことがありますが、私はおよそ「対談」というものを読んで感心したことがありません。お互いを褒めあって、お茶を濁して、はい、おしまい、という印象が抜け切れません。

 しかし、この本の対談は、わりと面白かったです。小杉・玄田両氏が順番に社会学者やジャーナリスト、カウンセラー、教師、精神科医などと対談をしています。いろんな角度からの現状分析があって、とても面白かったです。

 読みながら、この本の内容がなぜ面白いのかということを考えたのですが、それはやはりタイトルにあるように「ニート」の子を持ってしまった親向けという基本的コンセプトがよかったんだと思います。
 つまり、いろいろアドバイスはしつつも、基本的に「ニート」ならびにその親を責めない、というスタンスですね。

 そもそも何事についてもそうですが、ある一つの対象をいったん「責めよう」と思えば、大概のことは言えるものです。ましてや、いまだに誤解されることの多い「ニート」ですから。
 本の中で、「ニート」に関わっている精神科医がこんなことを言っています。

 「ひきこもりやニートのことをよく知らないで、独断的な批判をしている人は黙っていてくれ、関心を持つな。関心を持つのであればちゃんと理解してくれ。」

 全くその通りだと、私は思うものであります。

 もう一つ、カウンセラーが面白いことを言っていました。
 
 「ニートの問題で言うと、私が最近、すごく大きな変化があると思うのは、就職のためのセミナーを呼びかけると、以前は対人関係に対してすごく弱い子たちが多く集まっていたのです。ジャイアンとスネ夫とのび太だったら、のび太が集まるわけです。ところがこの二年ぐらいは、スネ夫、ジャイアン、出来杉くんも来るのです。」

 こういった現状を、社会問題と捉えないのならば(個人の「自己責任」であるという捉え方に固執するのならば)、いったいどこに社会問題というものがありましょうや。

 そして、このような時代を作ったのは、このような若者を作ったのは、間違いなく「大人」の世代であり、そして「大人」とは、誰のことでもない私自身・あなた自身であるのだと思うことなく、この問題に興味を持つことはするまいと、私は改めて思う次第でありました。
 (うーん、わたしって、少し、えらい。)


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まずは、古本を巡る徒然話から

  『子どもがニートになったなら』玄田有史・小杉礼子(生活人新書)

 例の、全国展開なさっている大型古書販売店に行きますと、105円で実にたくさんの書籍が販売されています。
 中には、見たところ新品同様の書籍なんかもいっぱいあって、うーん、こんな本を105円で販売されたんじゃ新刊書は売れないだろうなぁと、自分は大型古書販売店のお世話におおいになりながらも、少し心配したりします。

 私のよくお世話になるのは、主に文庫本と新書本なんですね。
 (それ以外の本はめったに買いません。もはやこれ以上、家に一般書籍を置くスペースがないということもありますが、実感的なところで言えば、本当に文庫本と新書本だけで、私の書籍的興味がほぼ満足されているということがあります。しかしこれは、あまり褒められたことではないような気もしますが……。)

 ともあれ、大型古書販売店における文庫本と新書本についてですが、それでも割とよくできたもので、やはり本当に新しい本は105円にはなっていません。
 だいたい定価の半分くらいの値段が付いていますかね。(それでも50%引き!)

 (でも、文庫本に関する私の好みは、古い小説ほど好きという天の邪鬼なものですので、やはり105円本のお世話になることが多いのですが。)

 私は、文庫本では、もっぱら小説をはじめとした文芸書を買い、新書では、これはまー、知識や教養を高めるといいますか、知識教養関係で興味を覚える本を買います。
 もっぱら人文科学・社会科学系の本ですね。

 で、当たり前の話でもあるのでしょうが、知識教養系の本というのは、小説なんかとは違って、あまり古い本だと扱っているデーターが古すぎてしまうという「弊害」が起こります。
 自然科学関係の本なんかはその典型的ですね。

 昔聞いた話ですが、大学の先端科学なんかの話だと、大学の先生が学生に対して、
 「一昨年授業で言っていた説は嘘でしたー。」
みたいなことを、ざらにおっしゃる、と。
 要するに二年くらいも経つと、新しい事実が発見されたりしてしまうというわけですね。
 つまりかつて○であったことが、×になってしまうという、と。

 でもそれが書籍の話なら、古くなっても「古典」なんて呼ばれて、また別の価値の出てくる場合もあったりなんかします。
 先日新聞を読んでいましたら、若者に勧める本として、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』が挙げられているのを見ました。
 この本は環境破壊について書かれた本ですが、たぶん今となっては「とっても古い本」だと思います。しかし、「古典」として今でも現役なんだなーと、私は少し感心しました。
 あ、もちろん、とってもいい本です。

 えー、何の話をしようとしていたのかと言いますと、今回読書報告をするつもりの冒頭の新書の第一刷発行年度が、2005年であるという、その数値についての考察であります。

 この年度数値は、ビミョーに古いと言えば古いですが、例えば夏目漱石の絶筆となった小説『明暗』の、初版発行年よりは遙かに新しい。(当たり前やんか。)

 また、私のCDの愛聴盤である、ギュンター・ヴァントがミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団を相手に演奏した、ブルックナーの『交響曲第九番』の録音年度1998年よりも、やはり新しい。
 (ついでの話しながら、クラシック音楽の世界の録音年度も小説本に準じるようなところがあって、1980年代くらいから先は、「あ、これ新しい録音や」と思わせるようなところがあります。)

 で、話を戻しまして、冒頭の新書についてですがー、……ああ、もう十分に話が長くなってしまいました。
 今回はこれくらいにして、次々回に、続きます。
 毎度毎度、すみません。


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制海権も制空権もなんにもない。

 『戦艦大和ノ最後』吉田満(講談社文芸文庫)

 えー、上記の本の読書報告について、前々回からの続きであります。
 むかーし部分的に読んだ記憶のある本書を、この度全部読んだということを前々回に述べていました。
 今回は、もう少し内容的なことについての続きであります。

 さて、本書は、内容的には、二つの部分に分かれていると思いました。
 前半は、往路だけの燃料を積んで囮として沖縄方面に出発し、半分も進むや否やで、米軍戦闘機の総攻撃の許、大和が沈もうとするところまでです。

 ちょっと脇道にそれますが(まー、どうせ私の報告はいつも脇道だらけでありますがー)、今回読んで少しあっけにとられたことがありました。

 それは、昭和20年の4月頃には、呉の軍港から瀬戸内海を西に進み、豊後水道から太平洋に出るか出ないかあたりになると、もう制海権も制空権も日本にはなかったということであります。

 落ち着いて考えると、さもあらんとは思いますが、しかし右手にはまだ九州が見えているあたりで、米軍の潜水艦を側に見つけたりしているわけですね。
 これで本土決戦なんて言っていたのですから、なにをかいわんや、であります。

 さて、閑話休題。

 「傾斜復旧ノ見込ナシ」

 という、傾く大和に対してもはやどうしようもないと言う「副長」のせりふが象徴的ですが、ここまでが前半です。
 ここまでは、なかなか迫力のある緊密な感動的な部分でした。

 で、その先からが後半になります。
 それは当然玉砕を予想していた作者がどうして助かるに至ったかという部分で、これは少し考えたら判りますが、なかなか書きにくい部分です。

 すでに大量の同僚の死があり、その中を己が生きんがために行動するわけですから、これは書きにくく、結果的にやや思索的・抽象的になっています。この部分は、どう評価するのか。つまり事実に対する評価ではなく、作品に対する評価として。
 なかなか難しい部分でありますね。

 というわけで、僕はこの度この本をわりと興味深く読みましたが、うーん、はっきり言うとそれ以上のものではなかったです。
 それはなぜかと考えると、やはりこれもなかなか難しいものがあるんですが…。

 大和が沈んで60年を過ぎ、確か数年前「大和沈没60年」という、ちょっとした「ブーム」めいたものもあったように記憶します。
 ここから先は私自身まだうまく自分の中で整理されていない理屈なんですが、ごく感覚的なものとして、その周りから少しうんざりしそうな「風潮」が予感され、そしてそれに少し不安なものを感じるのだという次第でありました。

 えー、今回はわたくし、わりと真面目でしたね。


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あれは戦争ノスタルジー?

 『戦艦大和ノ最後』吉田満(講談社文芸文庫)

 中学生か、高校生の時、たぶん教科書にこの話の一部が載っていたんじゃないかと記憶するのですが、この文体はとりあえず「和漢混淆文」というんですかね、そんなに難しくはないですが一応古文で書かれているので、うーん、中学校の教科書にはこんなの載らないでしょうから、やはり高校生の時かなと考えるんですがー。

 この本の最後の方に、「著書目録」というのが付いていまして、それを見ると、『少年少女世界のノンフィクション……戦艦大和のさいご』というのがあって、ひょっとしたらこれかなとも思ったのですが、とにかく昔、この本の一部を読んだ記憶がありました。
 そしてそれは、結構おもしろかったという記憶であります。

 あれはいったい、どういった社会の風潮だったのでしょうかね、私くらいの世代のものが小学校あたりの頃、例えば漫画にもいわゆる「戦記物」というのがけっこうありました。

 ちばてつや『紫電改のタカ』とか『あかつき戦闘隊』園田光慶とか、『ゼロ戦はやと』というのは誰の作品でしたっけ、とにかくそんなのが結構あった気がしますが、戦後も20年以上が過ぎて、あれは戦争ノスタルジーだったのでしょうか。

 なんか変な気がしますが、またそれが、ピタッとなくなった(と思うんですが)のはなぜでしょう。これもまたどういう社会の風潮だったんでしょうか。
 どなたかご存じですかね?
 とにかく、ひょっとしたらそんな一環で、教科書に『戦艦大和ノ最後』があったのかも知れません。

 今回、全編読んだのは初めてですから、初読なわけですが、まず文体については、キビキビしたいい文章だと思いましたが、時々ルーティーンな感じの言い回しが見られるのが少し気になりました。

 で、次に内容についてですが、えー、細かな内容についての感想は、次々回に続きます。


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本当に、葬式は、要らない!?

  『葬式は、要らない』島田裕巳(幻冬社新書)

 やはりこんな本は、そんな年代の人が近い身内(自分も含めて)にいる人が読む本なんでしょうね。
 いえ私も、自らの人生最後のセレモニーを念頭に置きながら読んだんですがね、でも思ったほど、さほど「過激」ではなかったという印象でした。

 この自問に加えて、こんな本を読もうかという人は、やはり現在の葬式のあり方に対して、どちらかといえば否定的な疑問を抱いている人でしょうね、たぶん。
 いえ、私もそうなんですが。

 でもさほど「過激」でない本書を読んで、私は少々反省させられてしまいました。
 例えばこんな部分。

 檀家になるということは、自分の家の死者を弔ってもらう檀那寺を持つということである。寺の住職は、毎日勤めをし、本尊の前で読経などを行う。その際には、寺の檀家になっている故人たちの冥福を祈る。檀家にはそうしてもらっているという意識や自覚がほとんどないが、檀家になることで、私たちは先祖の供養を委託しているのである。
 寺における毎日の勤めのなかで、供養の対象になるのは檀家の先祖の霊だけで、そこに属していない人間の霊は対象にならない。その点で、檀那寺を持ち、供養を委託できるということは特権的なことである。
 その点で、檀家になるということは、平安貴族が味わっていたのに近い境遇にあることを意味する。昔なら上層階級だけが実現できたことを、一般庶民である私たちも経験できている。(中略)
 その特権を護るためには、それ相応の負担をしなければならない。それは、当たり前の話である。ところが、私たちは、こうしたことを明確に意識もしていなければ、自覚もしていない。いないがゆえに、高額の戒名料を支払わなければならなくなると、強い不満を感じ、寺や住職を批判する。本当にそれでいいのか。檀家の側もその点について考え直してみる必要がある。私たちは贅沢を享受しながら、その自覚が十分ではないのである。


 ね。反対に「過激」でしょ。あ、「過激」じゃないと言っていたんでしたっけ。
 「本当にそれでいいのか。」なんて、まさに魂の叫びのようではありませんか。

 しかし、にもかかわらず、にもかかわらず、この本はタイトルのように葬式は要らないんじゃないかという本なんですね。なかなか捻れています。

 でもそんな本だと思えば、なんだか読みたくなってきませんか。
 仏教や葬儀の歴史なんかにも触れた、結構まじめな本です。
 我々の社会は、そんな一点突破的に簡単に進んでいるんじゃないんだと言うことが、なるほどと実感されて、その意味でもなかなか面白い本でした。
 お薦めします。ぜひ。はい。


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スリリングでドラマティックな勃興史

  『教養としての〈まんが・アニメ〉』大塚英志・ササキバラ・ゴウ(講談社現代新書)

 まんがについて私は、もう30年ほども前から、最近の話題作等についての知識が無くなってしまっているのですが、それまでは結構読んでいました。
 その頃は、ついでに「まんが評論」なんかにも時々触手を伸ばしていました。古いところで言えば、鶴見俊輔とか石子順造とかいった人たちの本ですね。これもわりと面白かったです。

 というわけで、本書につきましても、前半部「まんが史」の部分については、私自身のリアル・タイムな体験もあって、よく分かりました。
 具体的に本書の内容に合わせて言いますと、まず各章題がこんな風になっています。

   手塚治虫→梶原一騎→萩尾望都→吾妻ひでお→岡崎京子

 この内の、吾妻ひでおの真ん中あたりまでですかね、ほぼ私は、この「まんが史」と併走していました。(もちろん初期の手塚治虫はリアルタイムでは知りませんが。)だから、懐かしさもあってとても面白かったです。

 しかし、私がより感心したのは後半部「アニメ史」のほうであります。
 これはかなり感心したのですが、なぜ私は感心したのだろうと考えると、ふたつですかね、その理由らしきものは。

 (1)私のあまり知らなかった分野のことが書かれてあったから。
 (2)現在日本で最も勢いのある分野の話だったから。

 現代日本でほぼ唯一と言っていい、世界に向かってリードし、情報発信をしているメディアが、今更私が言うまでもなく「アニメ」ですね。(もちろん、「まんが」もです。)
 そのアニメの黎明期の話ですから、やはり勢いがあって面白かったんだと思います。
 上記例に倣って、各章題を挙げてみます。

   宮崎駿と高畑勲→出崎統→富野由悠季→ガイナックス

 と、こんな感じですね。どの章の内容も、アニメの「勃興史」を描いて、スリリングでドラマティックでした。
 そして、読み終えた私が何を考えたかというと、それは作家・幸田露伴のことでした。
 また何を訳の分からないことを書き出したかと、訝しくお感じの方もいらっしゃるかと思いますが、えー、すみません。実はこんな話です。

 昭和12年4月第一回文化勲章を受け、その祝賀会の席上、文学は科学とは別で、国家に厚遇されるよりもむしろ虐待されるところにすぐれたものが生まれると挨拶した。文学の本領をついてあますところなく、真正文学者の面目躍如というべきであろう。(『日本文学小辞典』)

 上記に、まんが・アニメは、ほとんど唯一日本が世界に向かって発信している文化だと書きましたが、それについて、徐々に「陰り」が見えだしているという話も聞きました。

 まんが・アニメ分野にも、国家の全面的バック・アップのもと戦略として文化輸出をはかっている国が現れ始め、個人企業がベースの日本のアニメ界は、大いに追い上げをくっているというのですね。

 しかしこの度、この「アニメ史」を読み、露伴の言葉を思い出し、私は、なるほど国挙げてのアニメ輸出戦略も悪くないのかも知れないが、こんな「在野」の文化に本当に必要なのは国家に庇護されることではなく、「反骨」なのだと改めて実感したのであります。
 権力によって保護された時、その文化がパワーもオリジナリティも失っていくという例は、まさに歴史に枚挙がありません。

 最後にもう一つ、本書のタイトル「教養のための」というフレーズは、ちょっと「反骨」とは相容れないかも知れませんが、しかしアクティブな「教養」の感じられる、実に楽しい・いい本でありました。


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