貧困であることを運命づけるとは

  『貧困世代』藤田孝典(講談社現代新書)

 もう2.3年前になりますか、本書でも少し触れられている「日比谷公園年越し派遣村村長」をなさっていた湯浅誠氏の講演会に行きました。
 とても面白かった印象はあるのですが、既に何年かが過ぎ覚えているのは下記の二つの話しだけです。確かこんな内容です。

 1.「ないものねだり」から「あるものさがし」へ。
 2.貧困は普通に暮らしていては見えない。

 この二つの話しがなぜか私の記憶に残っているのですが、さて、同種のテーマの本書です。なかなか厳しいテーマで、読んだからといって元気の出るものではありません。
 まず筆者は「貧困世代」をこの様に定義づけます。

 貧困世代とは、「稼働年齢層の若者を中心に形成される世代であり、貧困であることを一生涯運命づけられた人々」である。概ね十代から三十代を想定しており、本書で使用する「若者」も、この年代の人々―わたし自身を含む―である。

 そして「適切な支援が不足すれば、一生涯貧困から抜け出すことが難しい人々が、将来的に大量発生することはまず間違いない。」と続けます。

 ではその原因は何か、様々なことが書いてありますが、おおざっぱにまとめるとこの二点じゃないかと思います。

 1.急激な社会構造や雇用環境の変化
 2.若者に対する福祉システムの未整備


 なるほどねぇ、社会のひずみが一番弱いところを突いて現れることがよく分かるまとめ方ですね。
 筆者はその中でも、特に若年者層の教育環境の劣悪さを再三指摘します。例えば、

 経済協力開発機構は加盟国の教育状況の調査結果を2015年に発表したが、2012年の日本の国内総生産に占める教育機関への公的支出の割合は3.5%で、加盟国で比較可能な32カ国中最下位だった。(略)すでに日本は他の先進国と比較しても、教育を大事にしない、人に投資しない珍しい国になった。

 そして投資されなかった若者達は、この様な状況へと進んでいきます。

 首都圏・関西圏の8都府県に住む、年収200万円未満しかないワーキングプアと呼ばれる層の若者達(略)の雇用形態である。非正規雇用が47.1%、無職が39.1%であり、正規雇用はわずか7.8%にすぎないという衝撃の事実だった。無収入や低所得の若者が、とてつもなく分厚い層を形成している。

 本書には、そんな現代日本の暗澹たる状況がこれでもかと書かれているのですが、しかし本書終盤には、それに対する提言も書かれています。もちろん特効薬などありませんが、地道な取り組みの必要性を説いた文章です。

 この部分を読んで私は、冒頭に湯浅誠氏の講演会の記憶が二つしかないと書きましたが、もう一つ忘れていたことに気がつきました。
 それは、なるほどそういうことだなと、つくづく思う言葉でありました。いわく……

  ピンチはチャンス


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湧くごとく 犇めきて咲く 桜かな

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  ……満開。満開。満開!

                              秀水

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文士のゴシップ話し

  『文士の私生活』松原一枝(新潮新書)

 この間何となく坂口安吾について書いてある本を読んでいたら、安吾の家は新潟県屈指の資産家であったと書いてあり、へえーっというか、やっぱりねというか、ちょっとそんなアンバランスな感想を持ちました。

 安吾と共に「無頼派」して並び称された太宰治の家も津軽随一の大資産家でありましたし、そもそもそんなことを意識して近代日本文学者のことを調べていると、多くの作家の実家がいわゆる「ブルジョワジー」であるようことに気がつきます。

 しかしそれは、歴史的なものを考えますと、当たり前とも言えそうですね。
 近代明治国家成立以降、昭和30年代くらいまでですか、日本国全体が貧しい中で(最初のうちは後発国として貧しく、後のほうは敗戦国として貧しく)、より上位の学歴を身につけることのできる若者は、資産家の子弟以外にはありません。(もちろん全くないわけではないですが圧倒的少数でしょう。合わせてやはり、最高学歴出身者以外の作家(大学中退者含む)も極めて少数でしょう。)

 というわけで本書ですが、まずこの作者を私は寡聞にして存じ上げませんでした。
 たまたま古本屋で見つけて読んだのですが、昭和初年から昭和40年代くらいまで、筆者がその濃淡はかなりありながら、触れあった文学者の周辺を綴ったものです。
 副題に「昭和文壇交友録」ともあり、その通りだなとも思える、しかしなんと言いますか、やはり「ゴシップ集」のような内容の本です。

 まず登場人物が、文人と金持ちと東大出身官僚しか出てきません。(後、それと被ったり被らなかったりしながら「名家」の人々ですね。)
 そして、そんな趣旨の本ですからそれで好いんでしょうが、例えば、遠藤周作は飛び切りのマザコンであったとか、広津和郎が萬暦赤絵皿を手に入れて自慢していたら志賀直哉に一目で偽物と見破られたとか、そんな面白いと言えば面白い「ゴシップ」が載っています。

 でもそんなのばかり読んでると、少々自己嫌悪になってきます。
 しかしその「自己嫌悪」も含めて、つまりゴシップ話をあまり沢山聞いていると自分が何だかつまらない存在になったような気がする、ということもまた書かれています。

 そんな本です。
 私の書き方も、なんか微妙にむにゃむにゃしたものになってしまいました。
 自らの「スケベ心」を見透かされたようで、……えーっとそれは、ブーメラン現象とも言え、なかなか困ったものです。


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「やむにやまれず、嘘をつく」

  『やむにやまれず』関川夏央(講談社)

 私には、文学関係の随筆または評論で、フェイヴァレットかつこの人の言うことならと思っている作家が何人かいます。この関川夏央氏もその一人です。漱石や二葉亭四迷、白樺派などのことを書いた何冊かの文春文庫は素晴らしく、とても面白く読みました。

 一方そんな筆者が、文芸評論ではなく時々本にまとめているのが、今回取り上げた趣旨の本で、短編小説のようなエッセイのようなといった文章をいくつか集めたものです。
 タイトルの「やむにやまれず」というのはその後に「嘘をつく」とつながるのだそうですが、実は「嘘」をついている小説めいたところは、今回はあまりおもしろくなかったように思います。

 何と言いますか、何か「テレ」があるんですね。たぶん、「文学」に自分の嗜好があることに照れているのだと思いますが、何かとにかく照れています。
 だから(「だから」というつなぎが適切なのか分からないですが)、小説っぽく描かれる点景に、なんともいいようのない素っ気なさがあり、そしてストーリーも禁欲的に抑えられています。(氏がストーリーテラーとして優れたものをお持ちなのは、名作漫画『坊っちゃんの時代』の原作者としての実力に明らかであります。)

 そんなやや中途半端な感じの本ですが、その中に含まれる文学に関わる蘊蓄と見識は、やはりとても素晴らしいと私は思います。(一つのお話の中に、そんな部分がけっこう出てくるんですね。)
 例えばこれは、三島由紀夫が自殺の日に完成させたとされる『天人五衰』について触れたところですが、こんな感じに書かれています。

 その朝、三島由紀夫は『天人五衰』の第二十六章から末尾まで、百四十枚分の原稿を新潮社の編集者に託した。おそらく原稿そのものはもっと前に書かれ、その日に記されたのは〈「豊饒の海」完。/昭和四十五年十一月二十五日〉の二行だけだった。
 私はゲラはどうしたのだろう、と考えた。ゲラはとらないで死んじゃうのか。初校に直しを入れて、ようやく原稿になるのが普通だというのに。ゲラなしで百四十枚分の完成原稿とは、そいつは過剰な完璧さだ。おい、よせよ、それじゃ疲れるだろう。同情に堪えない。


 こういった、知識と感覚と見識がセンチメンタリズムにくるまれて描かれるところに関川作品の際立った特色があると私は考えるのですが、きっと関川氏自身はそこにこそ「テレ」を覚えるのでしょう。
 その感性もまた、極めて文学的な表現のあり方だと思うのですが……。


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ゴシップ精神は文学研究

 『近代作家エピソード辞典』村松定孝(東京堂出版)

 わたくしごとですが、人生晩年の学び直し学問としての「文学」シリーズの読書報告です。
 しかし自分でそのように決めながら、実際にはなかなか本格的な学問研究に突入できず(まぁ、「食い扶持」の用事もありますし)、学問の周りをただぐるぐる回っているだけなのですが、今回の書籍も図書館でぶらぶらしているときに見つけた本です。
 前書きにこんなことが書いてあるのを、まず立ち読みしました。

 「(略)島村抱月が、まことに好都合な意見を残している。それによると、文学者は、日常で、ふとPassing Word(ゆきずりの言葉)をもらす、それは、かれの素顔であり本音を反映しており、その言葉からわれわれは作家の特質や思想に迫ることができるというのである。すなわち、これを以てすればパッシングワードをとらえることで、作家研究の糸口を見出しうることになるのである。」

 なるほど、「好都合」な感じのする表現でありますね。やや下品に申しますれば、ゴシップを喜ぶ精神は文学研究としてあながち間違っているわけではない、と。
 えっ? そこまでは言っていませんかね。

 ともあれ、この言葉に勇気を得て、私は本書を借りてきて読みました。
 筆者についてはどんなお方なのか全く存じ上げないのですが、文学博士のえらい大学の先生です。(平成3年初版発行の本なので、今でもご存命でいらっしゃるのか分からないのですが。)
 だから、というのか、何というのか、まー、思ったほどゴシップぽくなくて、期待はずれというか、いえそも、そも学び直しの「文学=学問」でありますから。

 この一冊に、100人の文学者や国文学者のエピソードが収録されているんですね。一人分の分量は、平均2ページと少しくらいでまとめてあります。
 だから、(というのか、ここも迷いますが)そもそもエピソードが少し物足りない感じがしました。
 ……しかしまー、「Passing Word(ゆきずりの言葉)」ですから。……。

 最後に一つだけ、内容の紹介をしてみますね。太宰治のエピソードです。
 筆者が太宰治と一緒にビールを飲み、その後お茶漬けが食べたいという太宰の言葉に誘われて太宰宅まで尋ねます。トイレを借りたあと部屋に戻ろうとしていると、太宰と夫人が、ごはんが3杯分しかないという相談をしているのをつい聞いてしまいます。しかしいかんともしがたく、申し訳なくも太宰が1杯、筆者は2杯のお茶漬けをごちそうになったというエピソードでした。
 そして最後に、こうまとめてありました。

 「その年から十年して太宰氏は夫人と愛児三人を残しての他界だった。ご長男は成人前に亡くなられたが、長女は大臣夫人となり、次女は女流作家津島佑子、『斜陽』のかず子のモデルの愛人太田静子の子治子も文壇に在る。地下の霊も満足に違いない。」

 なるほど、心中自殺をした太宰の霊が、子供達が文人になったことで満足したかどうか、今までそんなことは考えたことがなかったですが、確かに少しおやっとする問いかけでありました。


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原稿が書けない理由の面白さ

 『〆切本』(左右社)

 久しぶりにリアルな本屋に行きました。
 かつて家のそばにあった本屋さんが廃業なさいまして、その当座は不便だなぁと思っていたものの、ネットでも買えるし全国展開チェーン古本店が比較的家のそばにあるしということで、関係者の方には申し訳なくも、そのうち不便さを忘れてしまいました。

 ところがここに一つ困ったことがありました。
 それは図書カードを使う機会が無くなったことです。かつて誕生日に家人がプレゼントしてくれたカードで、その後財布の中に長く眠っておりました。
 今回久しぶりに本屋に行ったのも、実は開演時間を間違えて早く行った音楽会の、その一時間をどう潰そうかと考えてカードのことをたまたま思いついたという経緯です。

 で、買ったのが冒頭の一冊ですが、少し前に少し話題になりましたね。
 今回読んでみて割りと面白かったです。いえ正確に言いますと、面白い文章とそうじゃない文章とがあったというべきですが、90以上の文章(随筆、書簡、対談、漫画など)が収録されていますから、3割くらいが当たっていればまずまずじゃないか、と。そして私はそのうちの30作くらいを面白く読みましたから、これは「割りと面白かった」でいいんじゃないか、と。

 ちょっとその面白さを考えてみますね。例えばこんな文章。

 私は頼まれたものは一応その人の親切さに対しても、引き受けるべきだと思つてゐる。が、引き受けた原稿は引き受けたが故に、必ず書くべきものだとは思つてゐない。何ぜかと云へば、書けないときに書かすと云ふことはその執筆者を殺すことだ。執筆者を殺してまでも原稿をとると云ふことは、最早やその人の最初の親切さを利慾に変化させて了つてゐる。引き受けて書かないでゐると、多くの場合、後で品格下劣な雑誌は匿名で悪戯をする。しかし、さう云ふ雑誌は必ず朦朧雑誌に限つてゐる。しかし、それとは反対に、気質の高邁な記者に逢ふと、例へ書けなくて不義理をかけても、必ずいつか気に入つたものの書けたときこちらから送らねばすまなくなる。かう云ふ意味でもいい原稿の集まつてゐる雑誌には、必ずどこかに清朗な人格者がひそんでゐるにちがひないのだ。(『書けない原稿』横光利一)

 上記の随筆を私は本書の中でもとっても面白いと感じたのですが、その理由は二つあると思います。

 (1)愚にも付かないような理由を、本人がそのまま信じているわけではないでしょうが、本当にあれこれと考えていること。
 (2)一方文章を書く(原稿を書く)ことに対しては、一字一句たりともゆるがせにするつもりはないと思っていること。

 この2つの理由は、激しく(2)であるほどに、(1)が面白くなるという構造を持っています。だから、(2)について少々「(時間もないし)仕方がないか」と感じていそうに思える作家の文章は、(1)が空回りしているように感じます。
 つまり一言で言えば、「純文学作家」の文章がより面白いとわたくしは結論づけました。

 本書冒頭に田山花袋の随筆が載っています。
 大の男が「ああ、いやだ、いやだ、小説なんか書くのはいやだ。」と子供のように口に出す一方で、何かの拍子で筆が走るようになった時の「恍惚感」を描くアンバランスの面白さ(=すばらしさ)は、横光の場合と同様に、正に(2)が強くあっての(1)だと実感されます。

 本書は全体としては少々ヴォリュームが大きすぎないかと思うのですが、その中の純文学作家の文章は、私にはほぼ全編とても面白かったです。


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することの なくてほんのり 梅見かな

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 ……えー、前回のまるまる続きのような句ですね。
 ……えー、すみません。
 本当に前回のまるまる続きの句なんです。

 作った日も、写真を撮った日も。
 重ねて、すみません。

                         秀水


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曇天も ゆかしきほどに 梅二月

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 昼間たまたま退屈な時がありまして、
 そうそう、と思って
 梅を見に行きました。

 誰にせかされるわけでもなく、
 ちゃんちゃんと季節を進めていく
 自然って、いいものですね。

                 秀水


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文学は錯覚に過ぎない

 『文学の読み方』さやわか(星海社新書)

 少し前にも触れましたが、人生において何だかテンカウントを聞くのも近くなってきた今日この頃、はたと思い立っての人生の「学び直し」に、わたくしは「文学」を選ぼうと思ったのでした。

 しかし、テンカウント間近で「学び直し」もないだろうという囁きは何より自らの耳に届いており、その後細々と何冊か文学関係の本を読みましたが、いっこうに学問深化はならず今日に至りました。(あたりまえですか。)

 今回も、退屈しのぎに図書館に行ったらたまたま見つけた本ということで、真面目でひたむきな学習意欲が今ひとつ感じられないのですが、ともあれ借りて帰って読むことにしました。

 本書のオビにこうあります。

   文学は『現実』も『人の心』も描けない。
   すべては”錯覚”にすぎないのだ。


 まー、オビのコピーとは、ひたすら売るために煽ることがその目的の文章でありますから、別にかまわないとも思うのですが、しかしテンカウント間近の者が折角ああでもないこうでもないと迷った末に一応選んだ学問ジャンルを無価値のごとくに書くコピーは、やはり微妙に不愉快で、本書を読むに至ったということです。

 本書の主張はこの一冊の中に何回となく書いてありますので、簡単にまとめることができます。それはこういうことです。

 ①「文学とは、人の心を描くものである」とか
 ②「文学とは、ありのままの現実を描くものである」というのは錯覚だ。


 ……うむ、「文学シンパ」を自称するわたくしとしては、これは放っておけぬ、非道の極み乱暴狼藉の如き論調、これは降りかかる火の粉は払わねばならぬ、と押っ取り刀で読んだのですが、……結論的には、とても面白かったです。

 まー、何といいますか、よーするに、勝手に言葉に価値判断の色づけをしてはいけない、ということでいかがでしょう。
 あまりあれこれ書いて本書への人々の読書意欲をそぐのもよくないと思いますので、一言だけ付け加えますと、「錯覚」とは必ずしもマイナスイメージの言葉ではない、というあたりですかね。

 後は、よく分かる近代日本文学史のおさらいなんかが書かれてあって、私は一つ賢くなりました。それははしなくも学び直しの文学学習を行ったのと同じで、まずはめでたく……。


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素晴らしき演奏の後に……(その3)

 ……えー、同一話題で3回目になってしまいました。
 かなり微妙な意見表白でありますゆえ、さっと書いてさっと終わる予定だったのですが、誠に申し訳ありません。今回で必ず終了いたします。

 さて、私が先日ブルックナーの交響曲第5番の演奏会を聴いて、その帰途に少々考えたことであります。
 今考えてみれば、あの時の曲が大概長いブルックナーの5番だったせいもかなりあるとは思いますが、演奏終了後、指揮者が何度か舞台を出たり入ったりするその中に、観客に演奏者への拍手を促す「イベント」といいますか慣習的行為があることについて、心の狭いわたくしは、「ちょっといやなんですね」と感じてしまったという話題でありました。

 私なりに、指揮者の思いも我々観客の納得も、理解していないわけではありません。
 しかしあの身振り入りの指揮者のイベントは、ちょっと別の方法がないものかなと私は考えたのでありました。
 (あれって、本場欧州で昔からあった「イベント」なんでしょうか。でも例えばフルトヴェングラーが、あの身振りでにこにこしながら観客に拍手を依頼するシーンなんて到底想像できないんですがー。)

 例えば、クラシック以外のコンサートではどうなっているでしょうか。
 長くクラシック以外のコンサートに行っていないので最近のものは分からないのですが、時々テレビで放映していたりするコンサートを思い出しながら考えますと、たぶん、ボーカル(あるいはグループのリーダー)がメンバーの紹介をする、ってのがポピュラーなんでしょうかね。

 ボーカルというのはグループの場合がそうで、元々一人で歌っている歌手の場合は、彼がそのコンサートにおけるバックバンドのメンバー紹介、ってことになりますね。

 このタイプの演奏者の紹介は、再三書いて申し訳ありませんがクラシックコンサートの指揮者による身振り入り拍手依頼の「違和感」に比べますと、私はそれこそずっと自然で共感的に思います。
 あれと同じことができないものでしょうかね。つまり指揮者が演奏者のメンバー紹介を次々にしていくというシーンは無しなのかな、と。

 ……と思いついてその状況をあれこれ想像して、そしてわたくしが到達した感想は、実はとても否定的なものでした。
 つまり、指揮者は楽団員の名前をことごとく諳んじているものであろうか、と。

 たぶん、ご存じないでしょうね。
 ご自分が主席指揮者であるオケならかなり名前は覚えているとしても、それ以外のケース(またそんなケースがとても多そうですが)なら、まず楽団員の名前なんて覚えていないでしょう。指揮者はスコア読みに忙しいのに。

 でも、せめてこれくらいのことはできませんかね。
 つまり、まずマイクは絶対必要です。これによってあの訳の分からない指揮者の身振りが無くなります。それだけのためにもまずマイクは絶対必要。

 次に、演奏が始まる前にあらかじめ観客に拍手を依頼する楽器を決めておくこと。
 これだって、指揮者はしっかりスコアを読み込んでいるんだからここがヤマの部分で一番難しい所だ、ここを頑張って堪えてほしいくらいは楽々分かるはずですよね。
 そしてその部分を演奏する者の名前だけを覚えておくんですね。
 これなら一人だけの名前の暗記でいいのですから、これもいけるでしょう。(しかし、万一そんなサビの部分の演奏に見事に失敗する輩がいるかも知れないから、何人か予備の名前も覚えておく必要があるかも知れません。)
 すると、こんな感じになりますね。

 「今日の演奏の最もヤバかったプレーヤー。ファゴットの○山×彦! 30年間ファゴットばかり吹いてきた男です。今日もガンガンに素晴らしい演奏を聴かせてくれました。拍手、ヨロシク!」
 そして指名された○山×彦は、立ち上がってファゴットを1フレーズか2フレーズ吹きます。観客のどよめくような拍手。
 (紹介は、たぶん一人か二人でいいですよね。多すぎると名前を覚えるのが大変です。)

 盛り上がりますよー。
 これ、誰か関係者の方、真剣に検討していただけませんかねー。


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