しっかり書き込まれた金田一耕助デビュー作品

  『本陣殺人事件』横溝正史(角川文庫)

 横溝正史の金田一シリーズといえばもはや推理小説の古典になるんですよね、きっと。
 でも実は私は、推理小説についてはほとんど無教養状態であります。

 我が貧弱な読書遍歴を遡ってみますに、かつて私が厚顔の(美)少年だった頃、小学校の、今思い出せば結構小さくて蔵書もさほどなかった図書室で、ドリトル先生シリーズと一緒にルパンシリーズを借りて読んでいました。

 ルパンと並ぶホームズシリーズは、少し年長向けだったように思い出します。ホームズシリーズは今考えてもわかりますが、かなりルパンより知的ですよね。トリックが理詰めで大人向け的であります。

 しかし頭のアバウトな少年時の私には(今もアバウトな頭のままですが)、浪漫的で超人的でその分リアリティには少々欠けるルパンシリーズのほうがわくわくとおもしろかったんですね。

 その後私は大人になってから、ホームズシリーズを少しまとめて読みました。そして同時期に冒頭の金田一耕助シリーズも、こちらはかなりはまって読みました。当時の年賀状にそんなコメントを書いたのを覚えています。「これからは私のことを金田一中年と呼んでくれ」とかなんとか。

 さてそんな読書遍歴の、たぶん過去に2回は読んだ記憶のある本書です。
 本書は金田一耕助の記念すべきデビュー作だそうですが、そんなこともあってか、筆者がかなり気合を入れて書き込んでいるのを感じます。何を頑張って書き込んでいるかといえばトリックです。

 日本推理小説界に本格推理小説第一人者の呼び声高い横溝正史らしい、見事に人の意表を突く、かつ理詰めにきっちりと構成されたトリックです。

 で、……で、さて3回目本書を読んで、よくできた作品であるなーという感想は今回も獲得しましたが、それに加えてなんとなく私が感じたのは、本作品の「地味」さでありました。
 ……うーん、この地味さ加減はいったいどこから来るのでしょうか。

 わたくし少し考えたんですけれどね、でもそもそもが小学校当時からアバウトな造りの頭の上に、年をいたずらに重ねた結果様々な偏向がいっぱい掛かった考え方しかできなくなっているもので、……まー、そんな頭で考えたのですが、よーするに不自然さなんですね。

 不自然さ具合とは何かというと、犯罪動機の不自然さです。
 誤解を恐れずに言いますと、いかに本格推理小説第一人者の横溝作品とはいえ、やはり少なくない作品に動機の不自然さが感じられます。それはまー、仕方がないともいえるところで、でも優れた横溝作品にはその不自然さをものともしないエネルギーがあるんですね。

 それは、これもさらに誤解を恐れずに重ねて書きますと、不自然な犯罪動機にまるで無茶ぶりのような愛嬌が見えるところであります。
 それは呪いであったり怨念であったり血筋であったりそして伝説であったり、というこの無茶ぶりさこそが実は横溝推理作品の(そして金田一耕助の)愛嬌であり、最大の魅力の一つであると、私はそう思っているのであります。

 いえ、人は本当に、様々な愛する理由を考えるものですねー。


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別役実の文体マジック

  『満ち足りた人生』別役実(白水社)

 別役実のエッセイには一時期かなりはまりました。
 それは今振り返って思うに、実に実に独特なエッセイであり、まー、よーするに、わたくしのような屁理屈の好きなこじゃれた性格の読者が魅力を感じないではいられないような、まるで新興宗教の教祖様のお言葉のようなエッセイでありました。

 その魅力の説明はわたくしにとって、別役教祖様の霊力に少々不感症となった今でも十分客観的な分析ができるとは思えません。しかしこの度久しぶりに別役エッセイを読んだのでちょっと書いてみますが、おそらく書き出したらきりもまとまりもなくなりそうなので、今回は一つだけ別役マジックについての指摘をしてみたいと思っています。

 一つだけというのは、文体についてです。
 実はこれ一つだけでも魅力を分析できれば十分だと思いますが、さほどに別役エッセイの大きな眼目が文体であります。

 いくつか例を挙げるのがわかりやすいかと思いますが、どこを引用するかについてはなかなか迷うところです。そこで今回は分かりやすく、45個の断片(章)からなっている本書の、各章の冒頭部からだけ少し抜き出してみます。

  歩行

 言うまでもなく、人はまず這うことからはじめる。まれに、横にころがることからはじめるものもいないではないが、そしてこれも、移動という見地よりすればなかなか捨て難い方法であるが、将来性がないせいか、周囲の大人たちによってすぐ修正される。

  読書

 読書というものを、もし字を読むことができるならだが、一度はしてみてもいい。

  失語

 暴漢に鈍器で後頭部を殴打されれば、人はたいてい失語状態に陥るが、これはあまりお勧め出来ることではない。そうしてくれる暴漢がいないのではないものの、奴等は力を加減するということがないから、そこから恢復することが不可能になる場合があるのである。

 三つ抜き出しながらふーむと考えていたのですが、やはりなかなか説明が難しそうですね。で、ふっと連想したことがありました。
 それはかつて赤瀬川原平のエッセイを読んだときにその解説文にあった言葉で、別役エッセイと赤瀬川エッセイは、微妙にかぶるような異なるようなどちらもとても魅力的な文体を持つのですが、その解説文にはこう書いてありました。

 「いい加減な厳密主義」

 なるほど、評論家はさすがにうまく言いますね。赤瀬川文体の魅力の一端が見事につかめていると思います。そしてこの表現は、別役文体の魅力説明にも確かにかすっている感じがします。
 この説明に私があえて付け加えるならば、別役文体は、言葉を重ねることで無意味への嗜好がより強く感じられるように思います。
 この無意味=ナンセンスへの嗜好(=志向)は、もちろん別役氏の「本職」、不条理演劇と強くかかわるものだと思えます。(赤瀬川氏も「本職」はアンデパンダンの美術家でありますが。)

 無意味が無意味を生んで、はらはらしながらいつの間にかカラフルでシュールな仮想空間に迷い込んでしまう、そんな別役エッセイの文体。
 今回わたくしはそれを少し懐かしく読みましたが、同時に感じたのは、この万華鏡のような魅力をいつまでも感じ続けるには、読み手の側にこそいくつになっても不条理であったりアンデパンダンであったりする精神のアバンギャルド性が必要なのではないかという事でした。

 小説家の石川淳は、これを「精神の活動」と呼びましたね。
 これは大いに、自戒であります。


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様々な技芸の世界の中で

 世の中には様々な分野の技芸世界に、玄人がいて素人・趣味人がいますね。
 それは玄人紛いの素人がひしめく分野もあれば、玄人と素人の間に実力差などという考えがまるでない一種不思議な分野もあり、一方玄人素人間の実力差が天地間ほどもある技芸世界もあります。

 例えば今第一に挙げた技芸世界は、具体的にどんなものでしょうか。感覚的にはこの世界が一番たくさんありそうな気もしますが、案外そうでもないのかも知れません。そりゃそうでしょ、玄人と素人の間の実力差がそんなにないのなら、それで食えるプロの世界にみんな行ってしまいませんか。そんなには玄人の実力はあなどれないはずです。

 というわけで第一技芸世界は、それなりにプロアマ間に実力差のあるジャンルという言い方に変えます。こう変えてしまうといわゆる普通の技芸の世界ですよね。具体的に書きますとスポーツやいろんな芸術芸能界(音楽・美術・芸能・文学・演劇など)がそうだなんて言い方はアバウトすぎますか。まぁ一応、この技芸世界が玄人素人関係の定点です。

 次に第二の技芸世界。これはいわゆる日本的な習い事の世界、お茶お華というやつですね。ただこの世界は、そもそも玄人の人数が極めて少なそうな世界ですね。何人もの玄人がいるという分野ではありません。勢い世襲なんかが行われて、結果的に極めて特殊な世界ながら一度プロになれば結構長持ちのする世界のような気もします。

 そして最後の技芸世界。実は今回のテーマはこれなのですが、この分野はずばり具体的に指摘できます。以下の話題にでてくる友人に教わりました。

   相撲と囲碁将棋の世界

 さてやたらとアプローチの長い持って回った書き方をしましたが、今回のテーマは、わたくし生まれて初めてプロ棋士に「指導対局」をしていただいたというお話しです。

 いえ、私は特に将棋を趣味にはしておらず(中学生の頃友人に一時期教わった程度)、最初は万一プロの方にあまりに下手すぎる将棋をなめているのかという心にあらぬ疑いを掛けられると大変だと固辞したのですが「そんなこと絶対にあらへんから」と友人に説得され、はっきり言ってかなりこわごわ場に臨んだのでありました。

 ……えーっと結果から申しますと、4枚のコマを落としていただいてもちろん当方が負けたのですが、とてもとても楽しいひとときをエスコートしていただいた、と。

 それは、極めて上手にお教えいただき、極めて上手にお褒めいただき、そして最後には例の、噂に違わぬ途中局面を完璧に再現し差し手そのまま辿り直していくという究極のプロ棋士ミラクルテクニックを、わたくしの指したきわめて拙い一局においても披露していただきました。

 ……終わって、友人と一杯飲みつつ一日を振り返りました。
 なるほど、これが玄人素人間の実力差が天地間ほどもある技芸世界ということか、と。
 それは決して圧倒的な強さを誇るのではなく(もちろん圧倒的に強いのですが)、私たち素人にその世界の最高の魅力の一端を味わわせてくれるキャパシティのことである、と。

 そこから私たちの連想はさらに飛躍していったのですが、ひょっとしてこれこそが永遠に父性的なるものの発現ではないのか、と。
 永遠に女性的なるものが私を導くとは確かゲーテの表現だったなどと、わたくしと友人とはアルコールの酩酊も加わって、今日のとても楽しい世界に遊ばせて貰った余韻にいよいよ浸り続ける、そんな「初体験」の一日でありました。
 ……うーん、よかった。


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「文豪」の徹底的な「家学」

  『記憶の中の幸田一族』青木玉(講談社文庫)

 表紙の筆者名の下に「対談集」とあります。
 わたくしのかねてよりの疑問に、僭越ながらどうして対談集はお互いをあんなに褒め合うのかというのがありまして、本書もやはり少しそんなところがあります。

 まー、「対談集」という本が出るくらいの方が話し手であり聞き手であるわけですから、それなりの実績のある方であることは確かとしても、改めて褒め合うこともないのじゃないかと私は思ってしまうのですが、一般的にはそんなところに違和感はないのでしょうかね。

 という不満めいた事柄をまず書いてしまいました。そんな違和感があるのならなぜ読んだのだというご意見が浮かぶのですが、それはまぁ、「幸田一族」の話しであるゆえですね。

 つまり近代日本文学に嗜好のある(造詣はありませんが)わたくしとして、幸田露伴について詳しく知りたい、と。それも実娘幸田文の本を何冊か読みますと、露伴という人物はかなり、かなり「特異」な方でありそうだ、と。
 本書にも当然ながら果たしてそれが書かれてありました。まずは、こんな感じ。

 それにしても幸田露伴が娘・文になした家学は、なまじのものではなかった。それは「父・こんなこと」(新潮文庫)一冊を読んだだけですぐ分かる。(略)家の中で、父と娘との間で、少しおいて孫娘も入れて、こんな激しい劇がくりひろげられたことがあったのだ。幸田家の家事、しつけは、肉体と心の格闘技であった、と言っていい。

 私が読んだ幸田文の本名も出ていますが、「家学」とありますね。簡単に言えば、家事全般をする際の挙措動作ということでしょうが、露伴という人物は、女は何をするにしてもまずそのサマ(様態)がよくなければならないというふうに考える人で、それを娘、孫に徹底的に仕込んだ(さらには母から娘にも)ということであります。

 それは実際徹底したもので、例えばここは比較的ユーモラスな部分ですがこんな事が書かれてあります。

 あたしが娘になって、女学校になるとグーッと背がのびる。母は、「あんたそこへ立ってごらん」といって自分がその前にやってきて、「断わりなしに、いつから大きくなった」(笑)。そういうとき、ぼんやり「うーん」なんて言ったらダメ。パッと「昨晩」って言うんです。祖父もしょっちゅうそのことを言ってました。パッと斬りかけたら鍋のフタをとってハッシと受ける塚原木ト伝流でないといけない(笑)。

 ……なんというか、なかなか難儀な祖父と母でありますね。露伴についてはさらにこんな風にも書いてあります。

 どこかつむじが曲がっていて、食えないと言えばこのぐらい食えないじいさんもいなかったです。とにかくすごい磁場をもってる人で、その中に入ると、バリバリッと感電するような目に会うんです。

 ……うーん、なんといっても天下の「文豪」ですからねぇ。
 「文豪」といわれるのにふさわしい人物を明治以降の文学者で指を折っていくと、漱石、鴎外ときてその次くらいの方でしょう。そして次4番目を指折るまでに一定の間隔があくような、圧倒的に他から抜きんでた一連の「文豪」です。
 やはり普通の方ではないですよねぇ。

 そんな「文豪」の驚き話が、本書にはいっぱい書かれてありました。
 ただ言わずもがなのことかも知れませんが、娘の幸田文にも孫の青木玉にも、心の深いところには溢れるばかりの露伴(父親または祖父)への「リスペクト」があることは、本書の内容から十分に共感されるものであります。


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芥川賞ゴシップ

『芥川賞の偏差値』小谷野敦(二見書房)

 私が以前よりぶらぶらと読んでいる「文学」周辺話の一冊であります。
 内容はタイトル通りのものなのですが、おそらくタイトルから想像するよりは、はるかに文壇ゴシップ、芥川賞ゴシップの書かれた本になっています。

 まず、偏差値という数字で各芥川賞作品を評価しているのですが、その評価の基準については、筆者は完全に居直っています。「まえがき」にこう書いてあります。

 なお、お前の判断基準は何なのだ、と問われるかもしれない。かねて言っている通り、文学にせよ音楽、美術、演劇にせよ、普遍的で科学的なよしあしの判断というのはできない。ただ多くの古典的なものや批評を自分で読んだりして、自己の責任で判断するものだ。もちろんその際に、さまざまな批評用語(これは「批評理論」のことではない)を用いて弁論するのは当然のことだ。

 まー、この文章の言っている基本的な論理については、一応私も納得できます。そんなものだという思いを私も持っています。ただ終わりの方に書いてある「批評用語」というものの本書での実践が、あまりに弱いというかしょぼいというかユニークというか、まぁそんな感じであります。

 第一、自分で書いた偏差値の値について(それが高くても低くても)、なぜそうなのかをそもそもほとんど「弁論」していない章が少なくありません。
 例えばこれは吉行理恵の『小さな貴婦人』を論じた章ですが、偏差値は「36」となっています。が、こんな感じで始まっています。

 大学で、教授の息子や娘が大学院へ入ってきたら、その親である教授は論文審査では欠席するのが普通である。高橋源一郎の前の妻が文藝賞の最終選考になった時も、高橋は選考会を欠席した。しかし吉行理恵については、この前に候補になった時、兄の淳之介は棄権の態だったが、欠席はしなかったようだ。あまり騒がれなかったのは、当時、世間が芥川賞にあまり関心がなかったからだろう。

 ここまででこの章の冒頭から4行です。以下この章はあと10行続くのですが、そこには吉行理恵の話も『小さな貴婦人』の話も全くありません。
 まー、上記引用部からでも批評は微妙に読みとれないわけではないですが、それだけで偏差値「36」の弁論とするのは、あまりといえばあまりに乱暴じゃないですかね。

 そんな本でした。ただ冒頭でも触れましたが、芥川賞ゴシップはいっぱい書いてあります。けっこう面白い話が。


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心なごむ懐かしさ

  『中島らもエッセイ・コレクション』中島らも(ちくま文庫)

 たまたま最近続けて図書カードを貰うことがあり、あれは基本的に本屋以外では使いようがないんですよね。
 わたくしは、ここ数年(十数年?)新刊書を扱っている本屋にはあまり行かなかったのですが(だって、近所の新刊書の本屋がどんどん潰れていったものですから)、久しぶりにダラダラと何度か本屋に行きました。

 貰った図書カードなので、普段ならまず買わないだろうなと思う本(自腹の時は、「欲しいけれど、うーん、高いなー」と思う本)を何冊か買って、そしてさらに本屋の中をぶらぶらしていた時に見つけたのが冒頭の文庫本です。

 後書きに書いてあるのですが、中島らもが突然の事故で(しかし生活習慣としては一貫して酒のせいでともいえる形で)亡くなってもう十年以上になるのだなぁと少し感慨を持ちました。

 かつて私は、かなり中島らものエッセイを読んでいました。筆者のエッセイはとっても面白かったです。それに比べると、小説については私はさほど良質な読者じゃなかったことを自認します。もちろん何冊かは読みましたが、どうもかっちりとはそれにはまらなかったです。

 思うに(本当に私が勝手に思っているだけなんですが)、この方はかなり頭の良い人で、併せて読書家ゆえの博覧強記さがあって、しかし小説の実作者としてはそれが想像力を「天翔ける」ところにまで持っていくことを少し邪魔をしたように感じました。なんか、理に落ちたような思いが少なからず残りました。(もちろん知識の集積が想像力をキックするタイプの小説家もいるでしょうが。)
 とにかくわたくし的には少なくない長編小説が、後半失速するように感じました。(私の読み損ないのせいもありましょうが。)

 ところがエッセイの場合は、上記の私の違和感の原因がそのまま魅力の源泉になるように思えます。そしてその頭の良さや博覧強記さを導いているとでも言えそうな「嗜好の方向性」が、私にとってらもエッセイの魅力の中心でした。

 本書においては筆者自身が、「今の自分の中核にあるもの」として「低俗ではなくて反俗、高まいさを求めるのではなくてエンターテインメントを、ヒューマニズムよりはニヒリズムを、涙よりは笑いを」という風に述べています。

 以前何かの本に、どんな人なら親友になれるかという条件の中でもっとも本質的なものは「羞恥心の方向性」ではないか、という文章を読んだことがあります。
 なるほど、何に喜ぶかということも友人を選ぶ際には大切なことでしょうが、何に恥ずかしがるかが大きく隔たった人とずっといる状態というのは、確かに心なごまない気がすると思います。

 エッセイにおいてもそれと同じなのかどうか少々分からないところもありますが、久しぶりに「らも話し」を読んで私は、古い友人と懐かしい心なごむ話をしたような気がしました。


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多様性がいかに大切か

  『人間にとって寿命とはなにか』本川達雄(角川新書)

 えー、名作『ゾウの時間 ネズミの時間』の作者です。私も読んでたいそう感心、啓発されました。でも本書はちょっとそうでもなかったです。内容がちょっとばらばらな感じがしました。
 それについては筆者自身後書きに書いていますが、もともと5本の講演録をまとめたものである、と。じゃあ、まぁ、ちょっとやむなしかな、と。

 しかし興味深い話題はたくさん入っています。
 筆者の元々の研究対象であったナマコの話しはもちろん面白かったですが、例えば、「ムシ」と「息子」「娘」は関連言語であるとか(本当かなー、と少し私は疑っているのですが)、そんなこんながいっぱい書かれてある中で、特に前半部の大きなテーマは「多様性」という言葉だったように思います。
 例えば地球上の生物について、筆者はこの様に説きます。

 生物の種は、記載されているものだけで190万種ほど、実際には1000万~3000万種の生物がいると言われています。既知の種は全体の1/5以下であり、地球に存在している全生物のカタログ作りはまだ済んでいません。
 われわれが知っている生物は、全体のほんの一部だというのに、今、ものすごい勢いで種が絶滅しています。知る前にいなくなってしまうことが起きているのです。


 そして同一種の生物についてもいかに多様性が大切なのか、こんなエピソードが書かれています。

 19世紀アイルランドに起こったジャガイモ飢饉は、遺伝子の多様性の少ない品種を広域で栽培したため、一気に病気が蔓延して起こった悲惨な例です。このような事態が起きないためにも、遺伝子の多様性を保っておくことは重要なのです。

 と、ここまでお読みいただいて、多くの方がおそらく今の世界情勢がまるで反対の方向へ舵を切りそうに見える現状にどきりとしているのじゃないかと思います。
 筆者もそういった危うい状況を、「好き好き至上主義」と名付けて述べています。

 それの典型例がインターネットの「お気に入り」で、自分の好きなものにしか興味を示さない、自分と同じ考えの文章しか読まない、そんな情報の遣り取りしかしない、そんなニュースしか見ない、等々の状況です。

 かつてインターネットは、劇的に多様な情報の受発信を簡便にしたことの素晴らしさが説かれましたが、現在において人々は、そんな多様性ある情報の元にはいません。
 そんなことも、説かれています。

 実は私は、時々手に負える範囲の「理系」の本を読むのですが(でも手に負える範囲が極めて狭いのでとても悲しいのですが、しくしく)、私にとってそんな書籍の魅力はまさにこんな論理展開にあります。
 そしてそれは、一自然物としての「人間」「社会」「自分」ということを再確認させてくれます。

 最後にそんなことを感じながら読んでいて、たいそう感心したフレーズがあったので引用してみますね。

   「死は、私の多様性である。」

 どうですか。このままでもう、一篇の詩のようではありませんか。


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貧困であることを運命づけるとは

  『貧困世代』藤田孝典(講談社現代新書)

 もう2.3年前になりますか、本書でも少し触れられている「日比谷公園年越し派遣村村長」をなさっていた湯浅誠氏の講演会に行きました。
 とても面白かった印象はあるのですが、既に何年かが過ぎ覚えているのは下記の二つの話しだけです。確かこんな内容です。

 1.「ないものねだり」から「あるものさがし」へ。
 2.貧困は普通に暮らしていては見えない。

 この二つの話しがなぜか私の記憶に残っているのですが、さて、同種のテーマの本書です。なかなか厳しいテーマで、読んだからといって元気の出るものではありません。
 まず筆者は「貧困世代」をこの様に定義づけます。

 貧困世代とは、「稼働年齢層の若者を中心に形成される世代であり、貧困であることを一生涯運命づけられた人々」である。概ね十代から三十代を想定しており、本書で使用する「若者」も、この年代の人々―わたし自身を含む―である。

 そして「適切な支援が不足すれば、一生涯貧困から抜け出すことが難しい人々が、将来的に大量発生することはまず間違いない。」と続けます。

 ではその原因は何か、様々なことが書いてありますが、おおざっぱにまとめるとこの二点じゃないかと思います。

 1.急激な社会構造や雇用環境の変化
 2.若者に対する福祉システムの未整備


 なるほどねぇ、社会のひずみが一番弱いところを突いて現れることがよく分かるまとめ方ですね。
 筆者はその中でも、特に若年者層の教育環境の劣悪さを再三指摘します。例えば、

 経済協力開発機構は加盟国の教育状況の調査結果を2015年に発表したが、2012年の日本の国内総生産に占める教育機関への公的支出の割合は3.5%で、加盟国で比較可能な32カ国中最下位だった。(略)すでに日本は他の先進国と比較しても、教育を大事にしない、人に投資しない珍しい国になった。

 そして投資されなかった若者達は、この様な状況へと進んでいきます。

 首都圏・関西圏の8都府県に住む、年収200万円未満しかないワーキングプアと呼ばれる層の若者達(略)の雇用形態である。非正規雇用が47.1%、無職が39.1%であり、正規雇用はわずか7.8%にすぎないという衝撃の事実だった。無収入や低所得の若者が、とてつもなく分厚い層を形成している。

 本書には、そんな現代日本の暗澹たる状況がこれでもかと書かれているのですが、しかし本書終盤には、それに対する提言も書かれています。もちろん特効薬などありませんが、地道な取り組みの必要性を説いた文章です。

 この部分を読んで私は、冒頭に湯浅誠氏の講演会の記憶が二つしかないと書きましたが、もう一つ忘れていたことに気がつきました。
 それは、なるほどそういうことだなと、つくづく思う言葉でありました。いわく……

  ピンチはチャンス


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湧くごとく 犇めきて咲く 桜かな

sakura01.jpg




  ……満開。満開。満開!

                              秀水

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文士のゴシップ話し

  『文士の私生活』松原一枝(新潮新書)

 この間何となく坂口安吾について書いてある本を読んでいたら、安吾の家は新潟県屈指の資産家であったと書いてあり、へえーっというか、やっぱりねというか、ちょっとそんなアンバランスな感想を持ちました。

 安吾と共に「無頼派」して並び称された太宰治の家も津軽随一の大資産家でありましたし、そもそもそんなことを意識して近代日本文学者のことを調べていると、多くの作家の実家がいわゆる「ブルジョワジー」であるようことに気がつきます。

 しかしそれは、歴史的なものを考えますと、当たり前とも言えそうですね。
 近代明治国家成立以降、昭和30年代くらいまでですか、日本国全体が貧しい中で(最初のうちは後発国として貧しく、後のほうは敗戦国として貧しく)、より上位の学歴を身につけることのできる若者は、資産家の子弟以外にはありません。(もちろん全くないわけではないですが圧倒的少数でしょう。合わせてやはり、最高学歴出身者以外の作家(大学中退者含む)も極めて少数でしょう。)

 というわけで本書ですが、まずこの作者を私は寡聞にして存じ上げませんでした。
 たまたま古本屋で見つけて読んだのですが、昭和初年から昭和40年代くらいまで、筆者がその濃淡はかなりありながら、触れあった文学者の周辺を綴ったものです。
 副題に「昭和文壇交友録」ともあり、その通りだなとも思える、しかしなんと言いますか、やはり「ゴシップ集」のような内容の本です。

 まず登場人物が、文人と金持ちと東大出身官僚しか出てきません。(後、それと被ったり被らなかったりしながら「名家」の人々ですね。)
 そして、そんな趣旨の本ですからそれで好いんでしょうが、例えば、遠藤周作は飛び切りのマザコンであったとか、広津和郎が萬暦赤絵皿を手に入れて自慢していたら志賀直哉に一目で偽物と見破られたとか、そんな面白いと言えば面白い「ゴシップ」が載っています。

 でもそんなのばかり読んでると、少々自己嫌悪になってきます。
 しかしその「自己嫌悪」も含めて、つまりゴシップ話をあまり沢山聞いていると自分が何だかつまらない存在になったような気がする、ということもまた書かれています。

 そんな本です。
 私の書き方も、なんか微妙にむにゃむにゃしたものになってしまいました。
 自らの「スケベ心」を見透かされたようで、……えーっとそれは、ブーメラン現象とも言え、なかなか困ったものです。


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